第53話 谷川ジュニアと老看護婦

文字数 2,119文字

翌朝。
そうそろそろ9時になる。パソコン教室の開店の時間だ。まず谷川ジュニアがやってきた。
ガラス戸を開ける前に野球帽を取って、深々と丁寧に挨拶するのはお父さんに似ている。
谷川ジュニアはパソコンの前にすわると、背筋を伸ばし無言で待っている。
谷川ジュニアはこちらが指示しないと、じっとそのままいつまでも待っている。
谷川ジュニアに今日の課題の所を説明し練習を始めてもらう。
谷川ジュニアは課題を黙々と始める。ほとんど口は聞かない。特に機嫌が悪いわけではない。
解らない所があると、背筋を伸ばし私が行くまで待っている。

教室の前にタクシーが着いた。事務のケーコが迎えに出る。
運転手さんがノートパソコンを持ってくる。
川内さんがぎこちない足取りでこちらに向かって歩いてくる。

谷川ジュニアには課題が渡してある。黙々と課題を作成している。
谷川ジュニアは私が行かないほうが緊張しないで進めるようだ。
おとうさんから自閉症だと聞いている。時々後ろから声をかける。
あまりしゃべらない。解らない所に指をさして意思表示する。
「そこですか、上の右にあるのこのボタンです。はい。わからない時はまた来ますね」
谷川ジュニアは頭を深く下げ、無言で頷き課題に取り組んでいる。

川内さんはノートパソコンを持参した。私は神経を川内さんのほうに集中する。
川内さんは第2関節でキーボードを押していく。
家でも練習したようで、スピードは遅いが確実に文字の入力は進んでいる。
問題は文書作成後の書式の設定だ。
出来上がった文書を中央に揃えたり文字を大きくしたりして体裁を良くする。
ここでマウスを使わない操作を教える。

既に一覧表にしてプリントしておいた。少しずつ少しずつ丁寧に教えていく。
 ・ 右揃えはCtrlを押しながらRキー。
 ・ 中央揃えはCtrlを押しながらEキー。
幸いCtrlキーは左の一番下にある。それは左手のどの部分使っても押せる。
 ・ 太字はCtrlを押しながらBキー。
 ・ 文字を少しずつ大きくするのはCtrlを押しながら”む”のキー。
 ・ 文字を少しずつ小さくするのはCtrlを押しながら”。”のキー。
 ・ 間違ったときにはCtrlを押しながらZのキーで元に戻す。
 ・ コピーはCtrlを押しながらCのキー。
 ・ 貼り付けはCtrlを押しながらVのキー。
 ・ 対象となる文章の選択は先頭の文字からShiftを押したまま矢印キー→です。

「どうですか。できるでしょう」
「ああできるできる。家でこの操作ができなかったのよ」
「昔はマウスがなくてパソコンはキーボードだけで操作していたんですよ」
「ああそうですか、来てよかった」
「ほかにもなにかありますか」
「印刷なんかはどうするのかしら」
「それもCtrlを押しながらPのキーから入っていきます」
「挿絵なんかも入れられるかしら」
「一番上のほうに挿入(I)と書いてありますね」
「ええ、このアルファベットは何なのかと思いました」
「それは、Altを押しながらIを押すとメニューが下に開いてきます」
「ええこれですね」
「そして、下矢印キー↓を押していきます」
「はい」
「矢印↓を押すと青い帯が下に移動します」
「はい」
「図というメニューの所で右矢印→を押して下さい」 
「はい」
「その、“ファイルから”という所が目的の場所です」
「そこで、Enterを押します」
花の絵がポーンと飛び出した。
「ああ!花が出てきました!」

2~3秒お互いが沈黙した。初めての経験だろう。
川内さんのノートパソコンの中に花のイラストを一杯入れた。
「そこに、いっぱいイラストを入れておきます」
「あぁ~ありがとうございます」
胸がつまったようなか細い声だった。私も優しさと感動に弱いところがある。
辛さや悔しさで泣く事はないが、人に感動されたり、優しくされると目が潤んでくる。
草花のほか使いそうな種類の図をノートパソコンに入れてあげた。
「今入れた図の下に番号や名前がありますね」
「目的の図の番号を入力して、Enterを押します」
今度は一人でメモを見ながらやり始めた。

その間に谷川ジュニアの様子を見に行く。
「どうですか」と声をかける。無言で頷いている。
その時後ろで茶色い声がした。
「ああああ!絵が入ったあ~」
川内さんは感動の声を上げた。
今まで夢だと思っていた事が、何回か繰り返しているうちにやっと現したようだ。
文章の空いているところに、挿絵を入れる。これだけで1時間が過ぎた。
私のパソコン教室の開業の夢と、川内さんの文章に花を入れる夢は同じだった。
夢が叶った時に人は感動し幸せな心になる。
それから毎日のように教室に来た。20回くらいタクシーの送迎で来ただろう。
あとは家でできる。
「ありがとうございました。わからないときは又きます」
「はい、いつでも来て下さい」

・・・・・・1年後、出版した本とお礼の手紙が届いた。

あれから1年も黙々と書き続けたのだ。
『元看護師 突っ走ってアウト』出版社:海苑社 
  発売日: 2003年11月
  旧国鉄看護師生活の半生を、時代背景と共に、
  数々のエピソードを日記風につづりました・・・。


その本の表紙をめくると前書きに私への謝辞が書いてあった。
この職業が天職に思えた時だった。
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