第64話 教室の再建の秘策を胸に

文字数 2,558文字

家庭では妻、教室では事務のケーコ。
教室に来る受講生は、二人が夫婦である事は気が付かない。
教室に入ったら講師と事務員になりきる事が開業当時のケーコとの約束事だった。
お客様にあまり気を使わせないようにしたいためだった。
時々生徒さんから小声で言われた。
「あの事務員の方、いやに先生になれなれしいね」
「もう5年も一緒にやっていますからね」
よく農家の方から野菜や果物をもらう。
「先生これ食べて下さい。うちで取れたトマトです」
「ありがとうございます。いただきます」
「こっちの袋はあの事務員さんに渡して下さい」
二人分をもらうことが多かった。

この頃生徒のいない空き時間が多く、二人だけになる機会が多い。
こんな時は夫婦の関係が災いする。
「どうするの、今月も銀行からおろさないと生活できないよ」
「あといくら位残っている」
「もう100万きったみたいね」
「看板をもっと目立つものにしなければなあ」
「いくら位かかるの」
「10万位でできると思うよ」
「もったいないよ、生徒が来なけりゃ無駄になるよ」
「こういう時こそ元気な姿を見せなければならないんだよ」
「このところ毎月の広告料も無駄になっているみたいだね」
「広告出さなければ誰もこなくなっちゃうよ」
「でも、出してもこないじゃない」
「教室の事は俺がやるからあまり口出すなよ」
「じゃあ、生活費はどうするの」
「なんとかするよ」
「何とかなってないじゃない」
「うるさいな、うちに帰っていいよ」


最後はいつも夫婦喧嘩になってしまう。
あ~あ、かわいい事務員を雇っておけばよかったな。
看板娘がいればおじさん達が増えるだろうな。
思いに耽ってつまらない考えも時々出てくる。
しかし私はへこたれない。
教室再建の具体策の実行に入る。
最初に手を付けた事は家賃の交渉だ。

隣の不動産屋が大家さん。外の駐車場に大家さんの茶色いワゴンが止まっている。
今事務所にいるようだ。
「ちょっといいですか」
「はいなんでしょう」
「ちょっと相談が・・・・・」
「うん、お茶でも飲まない」
「はい、失礼します」
社長は教室に生徒が少なくなっているのを知っている。
大家である不動産屋の社長も教室を心配してくれている。

「このごろあまり、生徒がいないようだね」
「ええ、このところ急に減ってきたんです」
「何が原因なんだろうね」
「もう近隣の中高年がだいたい来てしまったと思うんですよ」
「そうだよね、けっこう忙しそうだったからね」
「いまは家賃を払うだけで精一杯なんですよ」
「そんな事はないだろうけど、どこでもそういう事あるよ」
「ちょっとやり方を変えようと思っているんですよ」
「そうだね、気分が変わると思うよ」

世間話からだんだん本題に近づけていく。
今回は月10万円の家賃を2万円下げてもらうのが目標だ。
交渉は相手の現状や利益を考えなければ成立しない。
また交渉事は3回位に分けていうと成功率が高い。
自分は密かにこの手法を「3段締め」と名を付けていた。
以前いた会社で、これでかなり成績を上げた。
忙しい仕事を頼むときでも、いっぺんに言うと断られる。
「聞いていないよ」
「今は忙しくてね」
「急に言われてもね、前もって言ってくれればね」
急ぎの頼みはだいたいこんな感じで断られる

急ぎの仕事を部下に頼む場合でも3段締めは有効だ。
「今度この注文がきたら頼むね」
「いいですよ」
10分位してから
「さっき話した注文が入りそうなんだけど」
「そうなんですか、やっぱり」
30分したら
「やっぱり注文きたよ、急いで頼むね」
「はいわかりました。すぐやります」
もともとFAXで受けた急ぎの注文だ。指示や頼み方ひとつで円滑に進む。
誰でも暇を持て余している人はいない。何かの仕事やっている。
それを後にしてもらい、急ぎの注文を先に指示するには工夫が必要だ。
特に忙しい人に頼むのがポイントになる。
忙しい人は、いつまでも一つの作業に時間をかけていられない。
サッサと言われて事をやってしまわなければならないからだ。
管理職はこの事に気が付かない。威厳だけで処理しようとすると断られる。
全ての作業は上司の命令によって進んでいく。
「あの件は遅れてもいいんですか」と部下に脅されてしまう。

「3段締め」は営業活動にも有効だ。
若い営業マンが、あまり成績が上がらないのもここに原因がある。
商品説明書を持ってクドクドと良い所ばかり説明する。
相手は面倒でいちいちそんなことは聞いていない。
流暢なセールストークでは物は売れないようだ。
最初はちょっと一言だけ話すといい。
「今度ちょっと面白い商品ができましたよ」
「へえどんなもの」
「次回持ってきて見ましょうか」
「うん、いいもんだったら見せてくれる」
あとは世間話して帰ってくる。

これで第1段階を終了させる。
相手に“見せてくれる”という言葉で約束を取ったのも同じだ。
いつだったか私の営業方法に興味を持った上司が同行した。
会社に帰る道すがら上司が私に注意した。
「早川、おまえ世間話が多すぎるよ。新商品の事ちっとも話さないじゃないか」
「ええ、もうあの商品売れましたよ」
「嘘つくなよ、ぜんぜん売ってないよ」
「まあ、ゆっくり見てて下さいよ」
「ほんとに、お前は適当なんだから。利巧なんだか馬鹿なんだかわからねえな」
1段階目はすでに終了している事に気付いていない。

2段階目はこうだ。
「先日話した商品なんですけど」
「うん、どれどれ」
「この商品なんです」
「どんな商品なの」
3つくらい特長を話せば充分だ。あとは相手も専門家だ。色々アイデア出してくる。
あんまりいい所を強調しすぎると納得して終わってしまう。
わざと相手にも参加させる余地を残しておくのがいいのだ。
「これさあ、ここをもっと小さくできない」
「そうですね、その件も技術のほうに言っておきます」
「あっそ、できたら持ってきてね」
こっちも専門家だ。相手のいう所はもうちゃんと改善できている。

3段階目で商談成立させる。
「部長の言った改善点、ここですよね」
「そうそう、このほうがいいよ」
「やっぱり、この方が売りやすいですよね」
「そうだよ、あのままじゃ売りづらいよな」
「この商品は2月に販売開始になります」
「じゃあ、あとで発注書作っておくよ」
はい、これで商談成立だ

上司にハンコを押させるのも大体この「3段締め」で成功する。
この方法で家賃の値下げ交渉を決行してみることにした。

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