第56話 たった一人の親友がいる

文字数 1,975文字

たった一人の親友 寺田勲は田舎の坊主のこせがれだ。
毎週土曜日の7時には寺田勲がやってくる。
もしかしたら寺田は神様からの使者かもしれない。
いや、生まれがお寺だから仏様かもしれない。

私は人から変わり者と呼ばれていた。人と話すのがあまり得意ではないのだ。
仕事となったら何でもできるしどんな人とでも話ができる。
でも個人となると面白みのない無口な自分になってしまう。
だから誰も寄り付かない。そんな自分を寺田はよく誘ってくれた。

この教室を始める3ヶ月くらい前の話しになる。
職業訓練が終わり鴻巣教室の講師の修業も終わり空虚な時間が続いていた。
一人で悶々とパソコン教室開業の計画を立てている時期だった。
こんな素人がパソコン教室を開業して生活ができるかの自信がない。
危ない橋を渡らずに平凡なサラリーマンのほうがいいのかどうか迷っていた。
計画は進めるものの最後の決断ができない。開業する前は相当悩み苦しんだ。

気兼ねなく話せるたった一人の友人寺田と月に1~2度会って酒を飲む。
会うとそんな悩みはおくびにも出さず、馬鹿いって楽しく酒を飲む。
前にいた会社の話や自分の部下や上司の話をつまみにする。
前にいた会社が今どうなっているのか、私が聞きたいことをみんな知っている。
それを酒の肴にして楽しく飲みかわす。私の将来も心配してくれる。

「ねえ、いつ教室開くんですか」
「う~ん、そのうちにね」
「いつもこうなんだから本気でやるきあんの!」
「いいじゃないか、俺のかってなんだから」
「それじゃただの自慢話になっちゃいますよ」
「今考えている所だよ!」
「早く教室開いて俺に教えて下さいよ!」

これが衝撃の一言だった。
下田さんの「いつでも手伝いますよ」
金部先生の「私も呼んでください」
寺田の「早く教室開いて、教えて下さいよ!」
この3つの言葉が頭の中で重なった。

これで運命は決まった。ここで臆病になって中断すればすべてを失うことになる。
やってみて結果が悪ければ、それでひとつの人生だ。
その時に迷いが全部吹っ切れた。それから夢中になって教室開業の準備を始めた。
思った通りの教室ができた。お客様も希望通りほとんどが年配の方だった。

毎週土曜日の7時。
今日も寺田がやってくる。第1号の入会者になってもらった友人だ。
浅草橋の会社を出て桶川駅で降りてここまで歩いて10分。
そろそろやってくる時間だ。
寺田はいつもの席に座り前回の続きを始める。
お客様が多いときは話しかけてこない。
「大丈夫ですか、わからないときは声をかけてください」
「ええ、大丈夫です」他人行儀にしている。

最後の授業が夜8時に終わる。
寺田はいつからか私のことを先生と呼ぶようになった。
少し嬉しいような照れ臭いような気分だ。呼び易そうなのでそのままにしておいた。
授業が終わると近くの飲み屋で軽く一杯飲む。


「先生!ちょっと口臭いよ」
「そうかなあ・・・」
「白い鼻毛が見えているよ!」
「ええ、ほんとに。どこ、どこ・・・・」
「あと、あの教え方、ほんとにいいすね」
「・・・・そうかい」
「あのメガネをかけたおじさん、あまり好きじゃないでしょ」
「そんなことはないよ・・・」
「わかりますよ、おいらには・・・」
「そんな素振りは見せなかったつもりだけど・・」
「人にはわかんないだろうけど、俺にはわかりますよ」
「そうかまだ修行が足りないな・・・」

「あと、あの壁の張り紙ちょっとしつこすぎますよ」
「いいと思うんだけどなあ」
「”優しく教えます”なんて、恩着せがましくないですか」
自分の学習をしているふりして、私の教え方を見ていたようだ。

妻に言われると腹立つことも、寺田に言われるとなるほどと思えるのが不思議だ。
寺田は自分の事のようにこの教室の夢を語る。
「この教室の前に椅子とテーブルをおいておけば?」
「そしてどうする・・・」
「学習を終わった人たちが、ゆっくりと世間話をしながらくつろぐ・・・」
「それから・・・」
「沈む夕陽をみながら、ビールを一杯飲んでいる・・・・」
「いいねえ・・・・・」
「そしてここが、近所の人たちの憩いの場になっていく・・・・」
「そして・・・・」
「やがて、通りがかりの人が声をかけてくる・・・・」
「それから・・・・」
「楽しそうですね、何をやっているんですかと近寄ってくる・・・・」
「ああ、そして、人が集まってくるのか・・・・」

まるで自分の教室のようにこれからの教室の夢を語る。
『男はつらいよ』の映画のシーンのようだ。
「今年の暮れに、生徒たちと忘年会をしましょうよ」
「うんそれいいね!幹事やってくれる」
「何いってるんですか、みんな自分でやるんですよ」
「こういうの苦手なんだよ」
「ほんとに、パソコン以外は何もできないんだから」

それから忘年会はこの教室の恒例の行事となった。
寺田は見えない力の化身のような気がする。
岐路に立つと何気ない言葉で私の方向を示唆してくれる。
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