第36話 8台のパソコンが動き出す

文字数 1,592文字

昨夜は途中で自宅に帰り4~5時間爆睡した。
朝8時。教室に行ってみると下田先輩の姿はなかった。
8台のパソコンがケーブルで結ばれ、整然と机の上に並んでいる。
いよいよパソコン教室らしくなってきた。机の上には1枚のメモ書きがあった。
「だいたい終わりました。一度起動してみて下さい。また様子を見に来ます」

何の義理もない私のために、カレーライスひとつで徹夜で作業してくれた。
下田先輩が見えない世界からの使者のように思えた。
思いは心に蓄積されその方向に向かい始める。
思いは電波のように空気中に飛び回り誰かが現れる。
思いは形になり実現していく。飛び込んでみて初めてわかる世界だ。
1年前まではしがない飲んだくれのサラリーマンだった。
今ここには教室がある。机の上にはパソコンがある。

おそるおそるパソコンの起動ボタンを順番に押していく。
「グーン、グーン」とモーターの回転音がし始めた。
夢のような感動で、私の心臓が「グーン、グーン」とこみ上げ涙が滲んでくる。
今、この瞬間から新しい人生が起動した。
8台のパソコンから起動音が鳴り始めた。
「ようこそ」 画面が8台のパソコンから映し出されてくる。

1台目のパソコンに向かう。
ワードもできる。エクセルもできる。インターネットもできる。
メールもできる。プリントもできる。8台のパソコンが生きて動き始めている。

これで新しい人生が始まる。
たかが小さなパソコン教室だが、私にとっては大きな異次元の世界だ。
何の取柄もない自分にとってこの8台のパソコンが新しい人生の第一歩となるのだ。
心臓が震えている「グーン、グーン」と熱い思いがこみ上げてくる。
目頭が熱くなり、頭の中に会社時代の悔しい思い出が浮かんでくる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いまからわずか1年前。浅草橋の会社時代だ。
ある日、明日の会議で使う資料を箇条書きでメモし女子社員に頼んだ。
「これ、パソコンで打ってくれる」
「いつまでですか?」
「明日の10時から会議で使うんだよ。今日中にやってもらえる」
「今、急ぎの資料を作っているので、できません」
「そのあとでいいから何とか頼むよ」
「これが今日いっぱいかかるんです」
「そのあとでいいよ」
「私、都合で今日は5時で帰ります。友達と食事の約束があるんです」
「なんとかならない?」
「他の人に頼んで下さい」
「これって、どのくらい時間かかるの」
「・・・・・わかりません」
急に頼んだので無理もない話だ。今思うと10分もあればできる資料だった。
「自分でやってみたらどうですか?」
「ムカッ!・・・・うん、パソコンを触ったことないんだよ」
「他の課長さんは、みんな自分でやっていますよ」
「わかった、じゃあ、他の人をあたってみるか」
部下の机の上にあるパソコンを眺める。ちょっと触ってみる。
部下が飛んできた。
「すいません、触らないでくださいよ」
「ねえ、これ頼むよ」
「僕もこれ、明日までに得意先に提出するんです」

やむなく手書きで作成した。
手書きのほうが味があっていいや。熱意が伝わるだろう。
どこの部門も会議の資料はパソコンで作成してくる。手書きの資料は何人もいない。
内容はたいしたことがなくても、パソコンできれいに作ると体裁がいい。
不思議なもので内容も立派に見えて評価が高い。
そんな時代になってきたんだなと感じていた。
仕事は人一倍やっているのに、パソコンができないだけで若い連中に軽く見られる。
悔しい~~~~~。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この苦い思いは私だけではない筈だ。
この教室は中高年だけのパソコン教室にする。若い人にはほかに行ってもらう。
たとえ来る人がどんなに少なくても、パソコンと縁がなかった世代だけにしたい。
よおし、これでいくぞ!・・・・でも来てくれる人がいるかなあ。

今度は新聞折込チラシの作成だ。私のこの思いを折込チラシにぶち込んでみよう。
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