第59話 思い通りにはいかない

文字数 2,398文字

2004年 1月
開業して3年目に入った。
1年目は日曜日を開校して月曜日を休みにしていた。
勤め人は日曜日にしか学習できないだろうと思っていた。
あてが外れて日曜日はほとんど人が来ない。
考えてみれば当然かもしれない。日曜日は家族団らんの方が優先になる。

今年からは日曜日を休みにした。休みの日でも私は殆ど教室に来ている。
テキストの修正やパソコンのメンテナンス等、休日にしかできない雑務を処理する。
もともと自営業は年中無休のようなものだ。開校から日数で約1000日過ぎた。
病気もなくよく働いた。夢中で仕事をしていると病気も寄ってこない。
多少の風邪など気付かないうちに治ってしまう。クシュンとしたらルル3錠を飲む。
失業時代も朝から夜まで約14時間パソコンの勉強をした。
教室開校してからも今まで、朝6時から夜11時まで約14時間教室にいる。

これは自分の運命かもしれない。どんな状況でも1日の殆どを仕事に費やしている。
不思議に辛いと思うことがない。命令されて働く訳ではないので苦痛を感じない。
やっていることは仕事だがすべてが日常の生活の一部となっている。
“働く”と“休む”の感覚がない。だから苦痛がない。苦痛がないから病気もしない。
さらにゲラゲラ笑いながらやっている。毎日がストレスのないので休みと同じだ。

だけど思わぬ大きな悩みが持ち上がってきた。
創業前に断食で鍛えた体に変化が起きてきた。
69kgの体重が3年で85kgになってしまった。リバウンドというのだろう。
桶川駅東側の自宅か桶ら川駅の西側の教室まで約2km。車で5~6分の通勤時間。
教室は約8坪でパソコンが8台。狭い檻の中で熊がウロチョロしている毎日だ。
一度万歩計で歩数を計ってみた。1日1500~2000歩だった。

朝食べて、昼食べて、夕方にはパンや簡単な食事をして3食になる。
さらに家に帰ってビールにつまみを食べて、そのままゴロンと寝てしまう。
このままでは3年後には100kgになる。100Kg超えたら体がパンクする。
健康だからできる自営業。何とか対策を立てなければならない。
日曜日にゆったりした教室の中で働きながらできる断食方法を考え始めた。

そんな時教室のほうに年配の男の人が近づいてきた。
休みの日でも教室を開けていると1~2人は様子を見にやってくる。
ガラス戸に貼ってあるチラシを見ている。
「ちょっといいですか」
「はい、こちらにどうぞ」
手にはチラシを持っている。先月朝刊の新聞折込で出したものだ。
先月の折込チラシの目玉として掲載したキャッチコピーは下記のものだった。

“60歳以上1ヶ月何回来ても3万円” これで近隣に1万部配布した。
今回最大の目玉として考えたキャッチコピーだった。

「あのお、このチラシに60歳以上は1ヶ月3万円ってありますよね」
「はい、やってみますか」
「本当に、何回でもいいんですか」
「はい、そうですけど」
頭のてっぺんは綺麗に禿げている。周りは芝生のような髪がぐるりと巻いている。
目はぎょろぎょろしていかにも元気そうな人だ。

「私65歳で、今年定年になったんですけど」
「ああそうですか」
「それで、パソコンでもやろうと思ってね」
「ありがとうございます」
「何回でもいいんですよね」
「はい、そのとおりです」
「1日に何時間でもいいですか」
「はい。いいですよ」
何度もしつこく聞いてくる。さらになんかモジモジしている。
「では入会したいんですが」
「それではここに、お名前と住所を書いて下さい」

熊田秀雄65歳 住所や電話番号を書き始めた。
そのあと、予想もしなかったことが起こった。

「それではこの予約表のカレンダーに名前を書いて下さい」
この教室では予約一覧表に自分で名前を書いていく。
空いている時間に自分で記入して予約する方式だ。
熊田さんは予定表に名前を記入し始めた。
私はパソコンに向かってテキストの修正を始めた。

いやに時間がかかっている。
「大丈夫ですか、わかりますか」
「はい、大丈夫です」
うわ~、予約表に“熊田” “熊田” “熊田” “熊田” “熊田”真っ黒に並んでいる。


熊田さんは自分の手帳を見ながら予約表を記入している。
教室の予約表と自分の手帳に交互に予定を書いている。
手帳にはパソコン以外の予定は殆ど書いていない。
熊田さんの手帳は“パソコン”の文字で一杯になり始めている。
教室の予約表も熊田の名前が連日記入されている。それも1日4回の日もある。

“60歳以上1ヶ月何回来ても3万円”
そんなパワーがある60歳以上の方がいるとは予想もしなかった。

「うん、だいたい、こんなもんかな」
「うわあ~~、元気ありますね」
「ええ、それだけが取り柄なんですよ・・」
「大丈夫ですか、こんなに予約を入れて」
「ええ、仕事だと思えば楽なもんですよ」
「すごいパワーですね」
「たしか、何回でもいいんですよね?」
「は、はい、何回でもいいですよ」
「では、明日から来ますね」
「お待ちしています~~~」
来てから帰るまで1時間位かかった。

熊田さんが帰ってから予約表の回数を数えてみた。1日に4~5回書いてある。
合計78回書いてあった。1回の受講料にすると、385円!の計算になる

しまったあ~~~! まさかのできごと! やられたあ~!

「60歳以上1ヶ月何回来ても3万円」は最高でも月に30回位だろうと考えた。
通常1回の講習が1500円。大体の人が月に10回くらい来る。
月謝で換算すると、月10回で15000円。1回あたり1500円になる。
「月に何回来ても30000円」は30回で計算すると1回あたりは1000円だ。
これでもかなりの割引だ。こんなにエネルギッシュなおじいさんがいるとは想定外だった。

発表したものは取り消せない。甘かった。これからはもっと慎重に考えよう。
教室がにぎやかになっていいだろう。そう思うしかない。
この案は永久お蔵入りとした。それからのキャッチコピーは想定外も検討した。
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