第49話 将棋3段のおじいさん入会

文字数 2,222文字

2001年 11月下旬
1日の受講生が20人以上になってきた。
朝9時から始まり夜の9時の授業で終わる。
1回60分を1日9回繰り返す。すべて終わるのが10時15分になる。
12時間労働だがそれほど疲れない。

サラリーマン時代と自営業の気持ちの差を感じた。
午後3時と午後4時の授業が比較的すいている。
それでも一人もお客様がいないという時間がなくなっている。

ある日の午後4時 ポカンと誰もいない時間があった。
教室の中でくつろいでいる時、ジャイアンツの野球帽を被った年配の方が現れた。
深々とかぶった野球帽をとって髪を整え深々と一礼してからガラス戸をあけた。
ずいぶん礼儀の正しい方だ。

「すみません失礼します」
「はい、こちらへどうぞ」
「ちょっとよろしいでしょうか」
「はい、なんでしょうか」
「この教室では、案内書とか教えていただけますか」
「はい、いつでも学習できます」
「地図なんかも図形を使って教えてもらえますか」
「はい、いつでも・・・・・」
「実は、他のパソコン教室に行っているんですが」
「ああそうですか」

「文字の入力練習ばかりで、いつ案内書が出来るかわからないんです」
「そこの教室の先生に、希望を言ってみました?」
「はい、毎回言っているんですが」
「そうですか」
「もう少しで出来ますよと、優しく言われているんですが」
「まだそこまでいかないんですか?」
「1週間に2回通って、もう半年にもなります」
「そうですか」
「いつも注意されるのが、キーボードの指の位置なんです」
「指の位置ですか」
「行く度に入力練習でそれから先に進んでないんです」
私の教室では指の配置は特にやっていない。

アルファベットのキーの位置を探すだけでも中高年にとっては大変な作業だ。
さらに指の位置まで指定してはそれだけで負担になってしまう。
人指し指1本でも楽しく出来ることを優先したい。一度に2つのことは出来ない。
それに図形などはマウスの使い方で文字より簡単に出来る。

「12月の上旬に忘年会があるので、もうこれ以上待てないんです」
「そうですか、ちょっとやってみましょうか」
さいわいこの時間は他に誰もいない。
鉛筆で書いたメモ書きを見ると、忘年会で熱海のほうに行くようだ。
将棋の愛好会で今度の忘年会の幹事になったということだ。
名前は谷川常晴さんといった。いかにも棋士にふさわしい名前をしている。
「ではやってみましょうか」

“忘年会のご案内”の文字をたどたどしく、正しい指の配置で入れ始めた。
特に小指の使い方が大変なようだ。
「谷川さん、指はどうでもいいですよ」
「でも・・・いつもこれで注意されるんです」
「好きな指でやってください。足の指を使ったっていいですよ」
谷川さんに冗談は通じなかった。
「先生は本当に足の指でやったことはあるんですか」
「はい、足掛け3年やっています」
冗談が通じたのか、谷川さんは作り笑いをしていた。

谷川さんは日時や場所をパソコンに入力していく。
私はその横のパソコンでインターネットをつないだ。
メモ書きにある旅館の名前を検索した。
すぐに見つかりそこの旅館の写真と交通案内図を保存した。


谷川さんの入力した案内書の原稿に、保存した旅館の写真と地図を貼り付ける。
作り始めてから、時間にして10~15分くらいだった。
谷川さんはもうびっくり仰天している。
「手品のようですね」
「やってみますか?」
「自分にもできますか」
「その旅館の名前を入れてください」

文字は入力できるのですぐにその旅館のホームページが出てくる。
「その旅館の写真を右クリックして」
「こっちの指ですか・・・・」
「そこで、コピーを左クリック!」

少しは知っているので説明がしやすい。
「・・・これですね」
「それを案内書の本文に戻って、貼り付けして下さい!」
「はい、こうですか」
「“忘年会のご案内”は中央揃えにして大きくしましょう。」
「はい・・・」
「日時・場所・費用の所は少し右に寄せて14ポイントにしましょう!」
「はい・・・」

谷川さんが生き生きしてきた。
谷川さんの目は私の言葉を聞きながら画面にくぎ付けになってしまった。
「その下に、その旅館と地図を移動させてください」
「はい、こうですか・・・」
「どうですか、これで綺麗になったでしょう」
谷川さんは満面に笑みを浮かべていた。
「信じられないです、夢のようです」
この案内書がパソコンを習いたい目的だったのだ。
ここまで時間にして約30分だった。

今までの半年間のパソコン学習で出来なかった事が目の前で完成した。
私よりかなり年上のその70歳。そのあと谷川さんは遠慮深く言い始めた。
「将棋の駒も入れたいんですが・・・」
「インターネットで“将棋の駒”と入れて探しましょう」
「はいここへ言葉を入れるんですね」
まもなく数え切れないほどの将棋の駒の写真やイラストが出てきた。
「その中から好きな図をコピーして本文に貼り付けましょう」

忘年会の案内書はきれいに体裁よく仕上がった。
プリントして谷川さんに渡す。ちょっと目が潤んでいた。
次に出てきた言葉にびっくりした。
「先生!私を弟子にして下さい!」

パソコンの講師としてはあたり前のことしかやっていない。
それでも谷川さんはもう自分を尊敬の目で見ている。
将棋は3段といっていた。そっちのほうが私には尊敬できる。
ちょっとひょうきんな所もあり好感の持てる人だ。

その時、心の中に芽生えてきたものがある。
この70歳の谷川さんをMOUS試験に合格させてみよう。
おそらく最高齢の記録になるだろう。
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