第４４話　要領のいい近所の田貫さん

しばらくすると、教室向かって歩いてくるおじいさんがいる。
ずんぐりむっくりのお爺さんが、入り口を気持ちよく開けて入ってきた。
「すいません、近所の田貫(たぬき)といいますが」
「田貫さんですね、パソコン習いたいんですか？」
「ちょっとわからない所があるんですよ」
「無料で体験学習ができますよ」
「ちょっとだけいいですか～」

ちゃっかり、さっさとパソコンの前に座った。

「ええと田貫さん、入会ご希望ですか」
「いや、ちょっとだけ分からないとこがあるんですよ」
年は７０代後半かな。独学でパソコンを勉強しているみたいだ。
「今なら入会金は無料ですよ」
「そこまでではないんですよ」
「ええと・・・どんなことでしょうか」
田貫さんは手に大学ノートを持っている。

「あのね。等々とか街々とか、あの‘マ’みたいな漢字の出し方分かりますか」
まいったな。へんな質問されてきた。
「そういうのも、学習できますよ」
「学習するほどではないんですよ」
大学ノートには質問項目がびっしり書いてある。

まあいいか、無料体験のつもりでサービスするか。
「　‘おなじ’　と入力するとその漢字が出てきますよ」
「・・・・・？？？？」
「これですよね。“　々　”」
「え！　おなじですか？そうだよね！」と納得顔だ。
大学ノートにメモを取っている。
「聞いてみなけりゃわかりませんね。ホント助かります」
やれやれと思って受講案内書を手渡した。

「いいえ、入会するほどじゃないんですよ」
どうも意図が分からない。
「もう一つだけいいですか」
「・・・・・・・？」
「イラストを入れてもその絵が動かないんですよ」
これも重要な学習項目の中の一つだ。
「動かないなんておかしいよね。何かあるよね」
「みんなそういうことも勉強できますよ」
「いや、ちょっと聞きたいだけなんですよ」
それが学習なんだけどな。

「それは文字の折り返しといって、図を前面にすると動きますね」
田貫さんは教室のパソコンを適当に操作している。
「前面って、ああこれか、これだったのか。折り返しってこのことか！」
それも大学ノートに書き込んでいる。
来てからすでに２０～３０分経っている。

テーブルの所では居眠りからさめた班長さんが、事務のケーコと世間話をしている。
入会申込書も書いているようだ。
田貫さんの世間話風の質問はまだ続く。
「できたら、もうひとつだけいいですか」
大学ノートの質問事項はまだ相当残っている。
「ワードアートって知っていますよね？」
世間話のような感じで質問される。
知らない筈がない。それでパソコン教室の看板出している。
「これも学習できますよ」
「う～ん。特に必要というわけではないんだけどね」
「ワードアートができないんですか、あれはけっこう面倒ですね」
「ちょっとだけコツを教えてもらえませんか」
「う～ん、無料体験学習でやってみませんか」
「それほどでもないんですよ。解らなければそれでもいいんです」
無料体験を受けると入会を勧められると思って乗ってこない。
「ワードアートはちょっとしたコツがあるんですよ」
「難しいようなら、特にいいです」

それを教えているからパソコン教室なのだ。もう完全に作戦負けだ。
あんたこれ知っている。知らないならいいよという感じで話してくる。
世間話のようにして聞かれてくると、どうしてもただで答えざるを得ない。
田貫さんは、近所のおじいさんだ。まあしょうがないか。これもなんかの縁だろう。
田貫さんは腕時計をチラッと見た。３０分位が潮時と決めているようだ.

「いろいろすみませんね。じゃあまたね」すっきりした様子で帰っていった。
大学ノートの質問項目はまだ大分残っていた。
田貫さんは近所の家だ。教室の様子を見ながら誰もいない時間にやってくる。
多いときは１日に３回くらいやって来る。
教室が暇な時を見計らってやって来る。まだお客が少ないのを承知の上だ。
こっちの弱い所を知っている。時々教室の前の歩道を歩いている。
チラッと教室の様子を持て通り過ぎる。

班長さんの体験学習が無事に終わり今は教室には誰もいない。
田貫さんがまたやってきた。お友達という感じで入ってくる。
「ちょっといいですかあ」
「はい、なんでしょうか」
「あの、ここんところなんだけどね」
例の大学ノートに図入りの質問事項が書いてある。
あらあら、また質問項目が増えている。
「あの～、写真を入れても動かないんですよ。あれは動かなくていいんですか」
「そのへんも、詳しく学習できますよ」
「それほどでもないんだよね。ちょっとおかしいと思ってね」
まいったな。どうしよう。ボランティアの「パソコン相談室」になっちゃうよ。

まあ、誰もいないより教室より、人がいたほうが賑やかに見えていいか。
田貫さんを生徒のサクラに見立てて質問に答え始めた。