第38話 他の教室で講師の予行練習

文字数 2,416文字

この教室のレイアウトや机の配置、壁の張り紙等すべてに目が行く。
前にはブラックボードと大きなモニター。2人がけの長机が10台。
そこにパソコンが各机に2台載っている。
生徒募集のポスター、受講案内書等興味深く眺めていた。
全部これからの教室の参考になる。今までとは気持ちが違う。

しばらく眺めていると面接の青年が再び現れた。
「いや、すごいですね。今までの最高得点です」
「そうですか、少しだけ経験がありますので」

次に青年は机の上のデスクトップパソコンを指差した。
「テストではないんですが、このパソコンにこのメモリーを取り替えてみて下さい」
ドキッ!!!・・・・。これテストじゃ~ん。
私がハードに弱いことを見抜いたんだろうか。
うわあ、メモリーなんて取り替えたことがない。
どうしよう。急にあせってきた。1枚のメモリーを渡された。
傍にはドライバーセットが置いてある。やっぱりそんなにうまくいく訳がない。
ここで一巻の終りと思ったが、また見えない力が味方した。
下田先輩がメモリーを差し込んでいる姿を思い出した。
教室のパソコンを組み立てた時と同じメモリーだ。



ボーっとだが同じ事を8回も見ていたので、なんとなく作業手順はわかりそうだ。
上田先輩の、あの時の情景が浮かんできた。
「メモリーの取り付けが一番簡単なんですよ」
「ちょっとここを押してみて下さい」
下田先輩に言われて細い板を押し込んだことがあった。
もう度胸を決めるしかない。よしやってみよう。
机の上のパソコンのケースを空けた。そしてその中からメモリーを抜いた。
見えない力とは自分の心の内にある記憶かもしれない。

下田先輩のパソコンを組み立ている姿が浮かんできた。
「その両側のツメを、外側に押せば外れます」
「中央の溝を合わせて、カクンと音がするまで入れるんですよ」
下田先輩が作業をしながら教えてくれた。それがここ一番で役に立った。

メモリーを取り付け始めた。メモリーの交換作業は5分くらいで終了した。
「早かったですね」
「ええ、少し経験がありますので」
ちょっと嘘をついてしまった。あまり機械には強くない。全くわからないと言える。
下田先輩に頼りすぎて任せっぱなしだった。
ワードやエクセルが教えられれば充分。あとは上田先輩に任せればいい思っていた。

ある時下田先輩から注意された事があった。
「早川さん、LUNケーブルじゃないですよ、LANですよ」
「あ、ランですね、ルンじゃないですよね」
「ローカルエリアネットワークです。生徒に笑われますよ」
「じゃあ、ルンルン気分じゃなく、ランラン気分ですね」
「・・・・・・・・?」下田さんは薄笑いを浮かべた。
下田先輩に冗談やダジャレは通じない。冷めた視線で見られてしまった。
「少しはシステムの事やハードの知識を持って下さいね」
人に教えるには最低のハードの知識も知らなければならない。
トラブルの対処方法も知っておかなければならない。もう一度勉強のし直しをする。

青年はメモリー交換作業を見て安心したようだ。ゆっくりと話し出した。
「先日インストラクターが一人辞めたので、すぐに来て頂きたいのですが」
「はい、失業中なので、いつからでも来られます」
「来週からでもお願いできますか」
「宜しくお願いします」
「それでは、次に来るときまでにテキストなどの資料を準備しておきます」
「受付には、講師として登録しておきますので名札をもらっていって下さい」
1コマ1,500円の臨時講師として採用された。
あの時パソコン組み立ての現場を見ていなければここで、一発で不採用だった。
臨時講師ならちょうどいい。いつでも辞められる。
自分のパソコン教室と比較して見ることができる。

仕事は毎日ではなかった。
辞めた前任者のコマを埋める形で1週間に3日くらいだった。
それでもテキストや入会資料、授業の進め方すべてが参考になった。

面接した青年はこの教室の主任講師だった。
この教室はいくつかのコースがあり、私が担当したのは「ワード初級」だった。
他の授業は青年講師ともう一人の女性の講師がやっていた。
空いている時間はその青年講師の授業風景を眺めていた。
青年講師も時々私に自分のコースを任せてくれた。
「一度、小学生のコースもやってみますか」
「はい、やっていいですか」
なんでも体験したかった。

この時に気が付いた。子供だけは絶対にできないなと思った。
とにかくうるさい。人の話を聞いていない。私にまとわりついてくる。
自分で勝手にやっている。自分の分が終わると人の席に行ってちょっかいを出す。
2~3人がふざけだすともうメチャクチャになる。
子供の場合は「児童教育方法」から勉強しなければできないと感じた。

給料日に青年講師が心配してくれる。
「他に仕事を持っているんですか」
「いいえ、ここだけです」
「他の教室にも声をかけてみましょうか」
「ありがとうございます。でも今はまだ大丈夫です」
「責任者に相談してみましょうか」
青年は私の授業風景を何度か見ていい印象を持ったようだ。
私の生活費まで心配してくれている。ここは予行練習だという事に気が付く筈がない。
裏切るようで申し訳ない気がしたが、事情は話さなかった。

実に明るい好青年だ。親切でネアカの性格をしている。
生徒達を笑わせながら講義している。子供の関心を常に自分に向けさせている。
私とは一味違うコミュニケーションをとっている。

講師の仕事のない日は、まだ開校していない教室へ行く。
時々、下田先輩や金部先生が教室に来てくれた。
下田先輩は8台のパソコンを自分の子供のように見ている。
あれこれ操作しながら快適に動くように設定を変えている。

新教室のイメージができてきた。
「中年講師が教える、中高年のためのパソコン教室 」
まだ近隣には中高年だけの教室はなかった。
看板は「中高年世代のためのパソコン教室 」として発注した。
年配の方が入りやすくなる。子供や若者は入りづらくなるだろう。
イメージは、日を追うごとに鮮明になっていく。
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