第77話 廃業寸前の教室だった

文字数 2,232文字

つぶれて当然のパソコン教室だった。
もうそろそろ12時に近い。応募者一覧表にはすでに13人の名前が書かれている。
この女性で14人目になる。創業5年目になるがこんなに入会したのは初めてだ。
世の中は不況の風が吹いている。趣味や娯楽は後回しにされる。
パソコンなんてもっと後回しにされている。
いくらチラシに魂をこめたとしても、こんなに入るなんて信じられない。

朝9時からまだ、3時間しか経っていない。このまま行けば何人になるんだろう。
溜まっていた水が一挙に噴き出してきたようだ。
そうだ後で入会者から聞いてみよう。「何でここへ来たんですか」と聞いてみよう。
こんなに反応があったのはチラシだけではないような気がしてきた。

結局、1月6日だけで7人の入会者と21人の体験希望者があった。
体験をするとほぼ全員が入会するので合計28人となった。

今日は2007年1月6日 
再生パソコン教室の1日目となった。
昼の12時を回った。まだ電話がかかってきている。どこまで伸びるかわからない。
こんな小さな教室、あんまり多くなりすぎるとお客様に迷惑をかけてしまう。
一人一人に注ぐ思いやりが薄くなってしまう。
電話はまだフィーバーしているようだ。小心者の私は少し怖くなってきた。
これは私の力だけではない。何かの力が働いている。

谷川さんが帰る。
「谷川さん、さっきはどうもありがとうございました」
「いいえ、ほんとの事を言っただけですから」
「それにしても営業うまいですね」
「ボランティアで色々な年配の人と会っていますからね」
「入会者からアンケートを取ってみようと思うんですけど」
「いいんじゃないですか、また生徒が少なくなった時の為にね」
「“何でここへ来ましたか”と聞いてみますね」
「それじゃだめですよ」
「ええ・・?」
「それでは、自転車とか車とか歩きとかになっちゃうでしょう」
「それもそうですね、じゃあ何といえば」
「“どうしてこの教室にくる気持ちになりましたか”でしょ」
「ウワァ、また一本取られましたね」
「しっかりしてくださいよ、大師匠!」
「すいません。がんばります」

「あっ、そうだ。師匠いいこと思いつきましたよ」
「なんですか、面白いダジャレですか」
「あのね、ここの電話番号だけどね」
「ええ、それがどうしました・・・」
「菜の花、虫ここ!ですよ」
「えええ・・・」
「787-6455でしょう」
「ああ、みんなが菜の花に寄ってきそうですね」
「いいでしょう 次のチラシにどうですか」
「いつもそんなこと考えているんですか」
「師匠の所がなくなっちゃうと僕が困るんです」
「ホントにありがとうございます」
「いいえ、いつもお世話になっています」
「でも谷川さん、菜の花が咲くのは春だけでしょう」
「師匠の心をいつも春にしておけばいいじゃないですか」
あああ・・・。もう今日はやられっぱなし。

その後1ケ月だけで43人も入ってきた。昨年1年で入った人数と同じだった。
教材の内容や教え方ではもう通用しない時代になっている。
楽しさ、優しさ、面白さはテキストには書けないことだ。
ましてや冗談や、ダジャレは書いていない。
しかし、これが楽しい学習のBGMになっている。
オヤジギャグやダジャレは蓄えがなければ出てこない。
下手なダジャレで、ムッとする人も時にはいるが大概は緊張した心をほぐしている。
中高年にとって優しさはもっと必要だ。優しく接してムッとされた事はない。
ああ、面白かった。ああ、楽しかった。また来よう。
来てみて、やってみて、楽しさの余韻を残す教室にしなければならない。

年とともに劣化したこの顔の体裁はどうにもならない。
ただ目の輝きは自分で変えることができる。
顔が悪くても目が優しければどうにかなる。
目の優しさは心の中からしか出てこない。

仕事のため、生活のための意識改革はできた。
でもこれはまだ本物ではない。今の私はまだ付け焼刃でしかない。
家庭に帰るとたまには夫婦喧嘩をしてしまう。妻や子に優しくできないこともある。
これからは本当の人間の優しさを目指さなければならない。
優しさだとか楽しさを等と言っているうちはまだ本物ではない。
それを何気なく意識せずにできるようにしたい。
チラシに載せた自分の言葉が本物でなければいかにも寂しい。

勇気を出して入会してきた人をがっかりさせない教室にする。
うまそうなリンゴでも食べてがっかりする事がある。
色や形は悪くてもうまいと感じるリンゴもある。
人はリンゴの姿形に金を払う訳ではない。人はリンゴのうまさにお金を払っている。
形や色は悪くても、一度うまいと感じれば次もまた同じものを買う。
私もそれなりの年を重ね、姿形の体裁は悪い。こんな爺さんがと思う人もいるだろう。
一度味見をして貰う為には入会の前に無料体験学習をし、納得して入会してもらう。
そして入会した人にはアンケートをお願いする。入会の動機を知りたいのだ。
次のチラシ作りの参考にする。この意見の中に教室の将来がある。

お客様の意見がこの教室の未来を教えてくれる。
お客様は聞かなければ教えてくれない。聞いても本音の所は言わないことも多い。
お客様の表情や仕草から、または言葉の端端からもそれを感じ取らねばならない。

教室の継続は自分の創意工夫だけでは長続きしない。
生活に優先順位の低いパソコン教室は、常に廃業の危機をはらんでいる。
常に状況に応じ、時代に応じ、来る人に応じて変化させることによって継続する。
それが私の生きがいにもつながり、充実した「幸せな人生」を作っている。
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