第76話 谷川さんの応援が光る

文字数 2,831文字

ガラス窓の向こうに谷川さんの姿が見えた。
谷川さんはガラス戸を空ける前にジャイアンツの野球帽を脱ぐ。
うやうやしくガラス戸を開ける。腰をふかく曲げ一礼する。
「宜しくお願い致します」
「あ、谷川さん。おはようございます」
「今日は予約の変更をしまして申し訳ございません」
「いいえ、みんなそれぞれ都合がありますからね。気にしないで下さい」
ここまでが他人行儀のご挨拶となる。

それから態度が急に親しくなる。もともと谷川さんは茶目っ気が多い。
「師匠どうしたんですかその格好は」
「今年から、イメージ変えるんですよ」
「へ~、かっこいいですね」
「そうですか」
ケーコは電話の応対をしている。応募者一覧表は7人目になっている。

「師匠、そのシャツ似合いますね」あ!チャンス。
ところが、谷川さんが間髪をいれず。
「講師には格子のシャツがよく似合う!」と先に言われてしまった。
ちょっと茶目っ気のある人なら次に何のダジャレを言おうか考えている。
「師匠、それ、おばちゃん連中にモテますよ」
「恥ずかしい、そんな事ないですよ」
「ほんとにそのジーパンに合いますね、すごいセクシーに見えますよ」
「ほんとうですか」
「ジーチャンにはジーパン姿がよく似合う!」またやられた。

谷川さんはたまに年に似合わない言葉を知っている。
「谷川さん、今ジーチャンといわなかった」
「この後家殺し!ジーパンなんか履いてかっこよくしちゃって」
谷川さんが少し調子に乗ってきた。今年73歳とは思えない。

他にはお客様がいない。ケーコは電話に出っ放し。
谷川さんと30分以上話し込んでしまった。
「師匠痩せましたね。顔つき変わりましたね」
「ええ、自分でも驚いているんですよ」
「これじゃ、奥さんヤキモチ焼きますよ」
「そんなに、モテっこないですよ」
「師匠、うちの老人倶楽部のほうにも顔を出して下さいよ」
「日曜日しかいけませんけどいいですか」

ケーコがこっちへやってきた。電話が終わったようだ。
「あ、谷川さん、あけましておめでとうございます」
谷川さんは立ち上がって、腰を深々と下げて挨拶した。
「おめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします」
谷川さんもケーコの隠れフアンの一人だ。谷川さんのケーコを見る目でわかる。
「奥さん、今日は一段ときれいですね!」
「何、冗談言っているんですか」ケーコもまんざらではなさそうだ。

また電話が鳴った。ケーコが電話を取りにいく。
「だいぶ調子がよさそうですね」
「ええ今回は、今までの中では一番反応がいいみたいです」
「先生の写真、カッコよく見えましたよ」
「谷川さんこそ若い頃はモテたでしょう」
「冗談じゃないですよ、今が一番モテますよ」
「ああ、そうですか」
「老人倶楽部へいけば、これでもおばあちゃん連中にモテモテですよ」
「そうですか、一度行って見たいですね」
「一度師匠と勝負しようと思っているんです」
「何の勝負ですか」
「どっちがモテるかですよ」
「もうそんな、年じゃありませんよ」
「いいや、何でもいいから師匠に勝ってみたくて」
「将棋じゃ足元にも及びませんよ」
「将棋だって師匠にはまだ一度も勝っていませんよ」

谷川さんは上尾地区の将棋大会で何度か優勝経験のある人だ。
近隣では1、2を争う実力だ。
何回か谷川さんと対戦した事がある。もちろん私ではない。
パソコンの将棋のプログラムだ。私がそのプログラムを一番高いレベル設定する。
勝てる訳がないパソコンは失敗しない。谷川さんはそれを私に負けたと勘違いする。
そのままにしておいた。

ケーコの電話はまだ続いている。応募者一覧表の名簿はすでに10人を超えている。


谷川さんとの談笑ももう50分を超えている。今日は普段以上に楽しそうだ。
もう11時のチャイムがなる頃だった。
ガラス戸を開けてチラシを持った年配の女性が入ってきた。
入ってきたのは髪の毛の白い年配の女性だった。
「あたしにもできるかしら」
「こちらにどうぞ」
「もう73歳にもなるんですけど」
「大丈夫ですよ、70代の方は何人もいますよ」

谷川さんが横から口を出してきた。
「あれ、僕と同じ年ですね、何どしですか」
「昭和9年の戌(いぬ)ですけど」
「僕とおんなじですね。僕も戌です、へえ~」

不思議なもので人は同じ干支を言うと安心する。合言葉みたいになっている。
「ああそうなんですか」
「僕も今年で73歳なんです」
「そうですか、この年でパソコンなんて言いづらくて」
「大丈夫ですよ、ここの先生すごいですよ」
「ええ、チラシを見てね、なんか安心できそうで」
「僕だって、最初は不安でしたよ、断られるんじゃないかと思って」
「私でもできるでしょうか」
「大丈夫ですよ、僕にもできるんですから」
あれあれ、谷川さんが営業をしている。同じ年というのは安心できるらしい。

「私、ローマ字もろくにできないんですよ」
「僕だって同じでしたよ、先生が優しく教えてくれますよ」
「やってみようかしら」
「やりましょうよ」
「どうしたらいいんですか」
「今日からでもいいんじゃないですか」
「パソコン持ってないんですけど」
「勉強してから買えばいいじゃないですか」
「そうね。まだできるかどうか判らないんですものね」
「やりましょうよ」
「思い切ってやってみるわ」
「じゃあ入会申込書を書くといいですよ」
「そうですね、どれかしら」
「師匠、あっ・・・先生お願いします」

谷川さんが一人入会させてしまった。私は脇にいて眺めていただけだった。
谷川さんは私より営業はうまい。同じ年というのはそんなに安心できるものなんだ。
あれよあれよという間に一人新しい受講生となった。
もしかしたら谷川さんの好みのタイプかもしれない。

年配の女性が安心してこっちにやってきた。
「それでは、この用紙にお名前と住所を書いて下さい」
「はい、何も知らないんですけどいいですか」
「何も知らないほうが私も教えやすいです」
「今朝のチラシに、中高年の多い教室とあったので勇気が出たんです」
「そうですか、ありがとうございます」
「主人も、お前が先に行って様子見てこいよというんです」
「ありがとうございます」
「私にもできるかしら」
「できますよ」
どうも私は真面目でぎこちない。ケーコは電話の応対で手が回せない。
最初から私が応対したらこの方は入会しなかったかもしれない。
谷川さんが横でニヤニヤ笑っている。
谷川さんは私の十八番の「3段締め」を瞬間でやったのだ。
まず同じ年という事で安心させ、優しく教えてくれる先生を紹介した。
さらに入会届けを記入させるとこまで運んだのだ。

驚くべき営業力。
谷川さんの目が笑っている。
「どうだ、やっただろう」という目だ。今日は一本も二本も取られた。
人は同じグループで群れをつくる。安心できるのだろう。
「中高年の為のパソコン教室」という看板があるがこれではまだまだ入りづらい。
チラシが入る。これできっかけとなる。そこに同じような人がいれば安心する。
そのあとは、谷川さんのようにこちらから語りかけていけばいいのだ。

やはり谷川さんは人生の大先輩、一味違う。
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