第58話 パソコンは身内では無理

文字数 2,552文字

2003年 12月中旬
近隣のパソコン教室がだんだん減っていく。
2年前の開業当時近隣に8軒あったパソコン教室が今や1軒もない。
中仙道の道沿いには3軒のパソコン教室があった。
3軒とも看板が外されシャッターは閉まったままだ。
踏切りのそばにあったパソコン教室も“テナント募集”の張り紙が張ってあった。
気持ちが引き締まる。学習だけのパソコン教室はその役目を終わりつつある。

しかし、世間にはまだまだパソコンを知らない人もいる。
楽しさを知らないで終わってしまう人もいる。
自分にはできないとあきらめている人がいる。
知りたい人がいれば、いつでも楽しく学習できるようにしておきたい。
それが小さなパソコン教室の役割になる。
もう私にはこれ以外の仕事は考えられない。

今日も4時ごろ新しい方が入ってきた。
年齢は54歳の男性。朝からずっとパソコン教室を探し回ったと言っていた。
郵便局で事務仕事をしている方だった。パソコンに縁のない世代だ。
今までは手書きで済んでいた。今は若い事務員がパソコンでやってしまう。
いつもパソコンに困っているのはこの年代層だ。


「ああよかった。やっと見つかった」
「どうしました?」
「じつはね。多少文字は打てるんですが・・・」
「ああそうですか・・・」
「あとわからない所は、会社の若いもんに聞いているんですがね」
「ええ・・・・」
「このごろ、面倒くさがって教えてくれないんですよ」
「そうですか」
「先日も表の作り方がわからないんで聞いたんですよ」
「そしたら、自分でやって下さいって言われちゃったんですよ」
「・・・・」
「くやしくってね・・・」
「そうですか、大変でしたね」
「上司からはパソコンができないなら外回りでもするかとまで言われたんですよ」
「ええ?ほんとに」
「それで家に帰ってわからない所を息子に聞いたんですよ」
「なかなか教えてくれないでしょう・・・」
「そうなんです。パソコン教室にでもいって勉強しろよって」
「・・・そうですか」
「息子と大喧嘩ですよ」

ちょっと難しくなると家族や知人では教えられない。
自分ではできても教えるとなるとその言葉が出てこない。
なんて言って教えていいかわからないので面倒になってしまうのだ。
さらに、ポツポツとわからない所を話し始めた。
「縦書きにする文書がありますよね。よく貼紙なんかにある」
「はい、・・・・」
「あれってどうやるんですか」
「縦書きのポスター等にはテキストボックスとワードアートがありますね」
「ええ、本には出ているんですがちっともその通りにならないんですよ」
「ええあれもちょっとしたポイントがあるんですよ」
「それから、表の作り方なんですが。あれもなんだかわかりません」
「複雑なものでなければ2~3分で要領がわかりますよ」
「この書類なんですが表の所がどうにもわからないんです」
「ややこしい表は、鉛筆と消しゴムを使います」
「鉛筆と消しゴムじゃあなくて、パソコンで作りたいんです」
「パソコンにも鉛筆と消しゴムがあるんですよ」
「先生冗談じゃなくて、真面目に聞いているんですが」
「嘘だと思うでしょう。じゃあ、やってみましょうか」

さいわいこの時間は二人しかいない。
一人は将棋3段の谷川さんがしばらくぶりに来ていた。もう一人は隣の奥さんだ。
二人とも常連さんなので楽しくマイペースでやっている。
「田宮さんといいましたっけ」
「はいそうです」
「ちょっとここに来ていただけますか」
谷川さんの所に案内した。谷川さんは今度の将棋大会の案内書を作っている。
まだ下書きの段階だ。
「谷川さん、ちょっといいですか」
「はい、なんでしょうか」
「今作っている文書を縦書きにしてみて下さい」

谷川さんがマウスで文字方向の変更のアイコンを押した。
一瞬で文書が横書きから縦書きに変わった。
「はい、これでいいですか・・」
田宮さんの体の動きが、一瞬止まってしまった。
「今何したんですか」
「横書きの文書を縦書きに変更したんですよ」
「どうやって・・・」
「ワードのメニューバーのヘルプって書いてある下の所にね」
「はい、はい、はい・・・」
「矢印が下にむいているボタンがあるんですよ」
「・・・どれですか?」
「これです。“文字方向の変更”というアイコンです」

谷川さんが調子に乗ってそのボタンを何回も押した。
ボタンを押すたびに文書が縦になったり横になったり変化している。
谷川さんはさっきからこっちの話しをすっかり聞いていたようだ。
田宮さんの目の前で得意そうに参加者名簿の表を作成し始めた。
“表の挿入”を使って一瞬にして表を作った。その表に名前や郵便番号を入れていく。
さらに郵便番号を入れて変換を押し一瞬にして住所に変更した。

次に電話番号を入れ、F10のキーを押した。
表の中で2行になった電話番号が一瞬で半角の数字になって1行に収まった。
F10は英数記号を半角に変換するキーだ。
“048-787-6455”から“048-787-6455”と半角になる。
するとすっぽりと電話番号が決められた表の中にきれいに納まった。
“あー303”と入力後にF10を2回押すと “A-303”に変わる。

縦横の線が足りない時は、鉛筆で追加した。
追加した線が多い時は消しゴムで消していく。
谷川さんは私の話を聞いていた。得意そうに表を変化させていく。
田宮さんの驚きは尋常ではなかった。開けた口からよだれが出ている。
眼からは涙がにじんできている。今までの悩みが一挙に解決したようだった。

田宮さんは腕組みしたまま動かなくなった。目はパソコンの画面を見つめたままだ。
「これ、私にもできるんですか?」
「もちろんできますよ」
「ここは何時までやっているんですか?」
「夜は7時からの授業もあります」
「明日からでもいいですか?」
「今日からでもいいですよ」
「宜しくお願いします・・・」
「こちらこそ・・・」

田宮さんの目は赤くなって潤んでいた。性格が感激屋さんみたいだ。
講師の私も幸せな気分になれた。この人の人生が変わりそうだ。

田宮さんが帰ったあと谷川さんがこっちを見て嬉しそうにニヤニヤ笑っていた。
谷川さんだってここに来たときは同じようだったんだよ。
そういう私だってだって2年前までは同じだったんだ。
知っている人が知らない人に優しく教える。
弱い者同士の相互扶助が、人の生き方の原点のような気がする。
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