第61話 この教室をやってよかった

文字数 2,006文字

2005年6月
早いものだ。30年務めた会社を退職してから10年になる。
会社に勤めていれば今年は60歳の定年を迎えていたはずだ。
そのあと雇用更新で役職を降りて65歳まで働くということになる。

思い出すなあ。会社を退職するときにある役員に呼び出された。
「今の仕事から逃亡するのか」
「元気なうちに新しい自分の道を探してみたいんです」
「再就職の難しさは厳しいものがあるぞ!」
「家族3人、何とか生きることくらいはできると思います」
「来年の4月には、部長になるんだぞ」
「それは、毎年聞いています」
「俺だってあと3年で退職だ。そのあとの役員の道まであるんだぞ」
「でも、サラリーマンはそれで終わりですよね」
「いまやめて再就職しても、いくらの給料がもらえるんだ?」
「ええ今の年収の半分もいかないでしょうね」
「半分どころじゃないよ、1/3もいかないよ。それでもいいのか」
「はい、覚悟はできています」
「今までどおりなら、55歳までの5年間で5000万だよな」
「そんなになりますか」
「給料やボーナスだけじゃないだろう。奨励金や株の配当諸々合わせてみろよ」
「はい、この所毎年給料は落ちていますけどね」
「もしうまく就職できたとしても、せいぜい年収200万とするよな」
「はい、そのくらいでしょうね」
「その差は5年間で4000万円にもなるんだぞ」
「そ、そんなに差がありますか」
経理で計算してもらったのかメモ書きの計算書を出してきた。

ほんとは覚悟なんかできていなかった。
何ができるかわからないが、残された人生30年。このままで終わりたくなかった。
どんなことになるのかわからないが、未来の可能性のほうに魅力があった。
一刻も早く新しい人生を踏み出したかった。

あれから20年。
辞めてよかった。
長いようで短い20年だった。
やっぱり後悔はしなかった。
いや、後悔はしたくはなかった。
負け犬になって笑われるのが嫌だった。
それだけで頑張って来たのかもしれない。

2005年 6月
外は雨が降っている。雨になると予約のキャンセルが続出する。
その中で雨になると予約をしてくる人がいる。
畜産農家の加藤さんは牛を飼っている。雨だと仕事が半分以下になる。
その空いた時間にパソコンの学習に来る。

それからブロック工事の請負仕事をしている福田さん。雨の日に予約が入る。
けっこうキャンセルと当日予約でバランスが取れるものだ。
福田さんは指定された工事現場に行くのに詳細な地図が必要だ。
詳細な地図をいくつも揃えるとその金額は馬鹿にならないようだ。
「何かいい方法ないですかね」
「地図ならインターネットで、かなり細かいとこまで検索できますよ」
「あ、それを教えてもらえませんか」
「インターネットのキーワードに“マップファン”と入れて下さい」
画面は地図が検索できる”WebMapFan”に切り替わった。
福田さんはそこに工事現場の住所を入れた。
「あああ、これはいい。これ無料ですか?」
「はい無料です、拡大縮小も自由です。拡大すると家の形まで見えるでしょう」
「これです、これが欲しかったんです」
「あと、それをマウスでドラックすれば、上下左右どちらでも移動しますよ」
「現場に向かう下請け業者に地図をFAXで指示するんですよ」
「丁度いいじゃないですか」
「でも、どうやってプリントすればいいんですか」
「目的の地図を出して右クリックすると“印刷”と出てきますよ」
「ほんとうだ。よかった。もっと早く知っていれば良かった」
「けっこう便利でしょう・・」
「早速、帰ってやってみます」
福田さんがワクワクしているのが伝わってくる。
すごく感動したようだ。感動されると調子に乗ってさらにサービスしたくる。

「もっと面白いものありますよ」
「嘘でしょう、これ以上のものなんてあんの?」
「そこに、グーグルアースと入れてみて」


グーグルアースは衛星写真、航空写真を静止画像で表示する地図ソフトなのだ。
地球上のあらゆる場所にジャンプして、上空から地図や航空写真を見る事ができる。
「福田さんの住所をそこに入力して下さい」
すると青い地球儀が回りだし、暫くすると福田さんちの近くの航空写真が出てきた。
それも拡大縮小ができる。道路を走っている車の色までわかる。
福田さんもびっくり仰天!
隣で学習していた畜産農家の加藤さんも住所録を作っていた班長さんも寄ってきた。

「ここまで出来るんだ。すごいねえ」
「パソコンて、便利なんだね~~」
「これってほんとに無料なんですか」
「ほんとだねえ~、すごいんだねえ~」
半分居眠りをしていた班長さんも驚いたようで頷きながら相槌を打っている。

このグーグルアース。実は私もつい最近知ったものなのだ。
この間、教室に遊びにやってきた下田さんから教えてもらったものだ。
それを以前から知っていたような口ぶりで教える。
ちょっと先に知った事を教えているだけなのだが鼻が高くなる。

こんな時がこの教室をやってよかったという充実感に浸れる時だ。

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