漆 之 覚悟
文字数 1,905文字
足を乗せた箱が木箱でなくダンボールだと気づいた時には遅かった。
ブロック塀に額をぶつけ、悪態をついた瞬間にそんな場合じゃないと背後で聞こえる玉砂利を巻き上げる音に凍りついた。
悲鳴をあげながら暗がりの塀沿を横へ逃げだした。
背後で玉砂利を跳ねる音が向きを変え追って来ているのがわかっていた。
庭の木々に数回ぶつかり焦りまくって身体を逃がし続けた。
十数メートル走ったその時、奥の暗がりにお勝手外の常夜灯が見えて塀と母屋の狭い間に逃げ込み走り続けた。背後で木の枝が折れるにしては大きすぎる裂けるような音が聞こえ、まだついて来ると顔をひきつらせた。
勝手口の扉の前にたどり着いた寸秒、背後で何か柔らかいものが堅いものに激しくぶつかった音が響いた。
振り返ると家と塀の間に化け物がはさまり触手を上へ振り回していた。でかすぎて通れないのだと思いながら、もっと遠くにとまた走りだした。
また暗がりに入り込みもう一度壁の角に手をついてまわり込むと、軒下に付いた外灯の灯りが照らしだす正面玄関が見えた。
その時に裏庭の方から女性の悲鳴が聞こえてきた。お縁を開け化け物と鉢合わせになり殺された人の家族が悲惨なその人を見つけたのだ。
敷地の中にいたらいずれ捕まると思い、生け垣を乗り越えて門の方へ駆け出し道へ飛びだした。
前後に暗い住宅街の道が安全というわけではないけれど、少なくとも塀で逃げ道をふさがれる事はない。
その家から小走りに遠ざかり、化け物がついて来ないか何度も振り返った。
化け物は自販機や車だけでなく生き物にさえ姿を変える事ができる。ちょうど昆虫の──そうだわ。擬態だわ。
先回りして現れるほどなのに、足は速くなかった。人の逃げ足に追いつけない。あの触手の様な足なら速く移動する事ができないんだろう。だから待ちかまえて捕まえようとするんだわ。
だけど、どうして先回りできるのだろう。
歩みが遅いはずなのに。
でも、またきっと私の前に現れる。その時に本物か偽物か見分けられないと捕まってしまう。
どうやったら、見分けられるだろう?
嫌な匂いがする事を思いだした。肉の腐った様な鼻をつく匂い。でも風上にこちらがいたら見分けられない。すぐそばまで行ってしまい、あの触手に捕らえられてしまう。
自販機や車は物で、犬は生き物だわ。物に化けてる時に共通する事はないだろうかしら。
ハッと思い当たり、脚を止めた。
暗がりから灯りを点けずに現れた。自販機は照明がついてなかったし、車はライトが消えていた。
あの化け物も生き物のたぐいなら、灯りを照らす事が出来ないんだ。
光らないものは用心しなければならない。
だが犬は──何が変だったのかを考えた。こちらをじっと見つめていたような気がした。飼い犬や野良犬は人をじっと見つめたりするんだろうか。わからない。
ただ、なんとなく変だと思った。
あの図体でどうして犬に化ける事ができるの? 無理でしょう。でも犬に──大型犬に収まっていた。
ふたたび歩き始め、逃げてばかりでなくなんとか反撃できないかと考えた。反撃すれば大人しく食べられはしないと理解するかもしれない。あの化け物に考える事が出来ればだが、物を理解しそれに擬態できるのなら、そこまで考えて意味がないと気がついた。
反撃は逃げ切れない時のため。
第一、あんな化け物にどうやって反撃するの。
包丁で
何か方法を考えておかないと、ピンチになったら逃げきれない。
あれこれ考えながらいつの間にか住宅地を抜け、外地にある公園が目の前にあった。
公園なら化け物が成り変わる様な大きいものがない。それに何か近づけば気がつくし、逃げ場所も四方にあった。
公園内に入ると数本の水銀灯に照らされ、暗がりは遊園器具の陰か、周囲の木立の後ろだけだった。
人影もなく、しばらく落ち着いてこの後どうするかを考えようと思った。ベンチは木々に近く不安なので中央の水銀灯の方へ歩いた。まさかあの細い水銀灯に化け物が成り代わっているとは思えない。
誰もいないが、誰かに会いたかった。誰かに自分の苦境を知ってもらい優しい言葉を──安らぎを与えて欲しかった。
周りを見回しながら、これからどこへ行くか考えていると砂を踏む足音に振り返った。
公園の出入り口から男の人が歩いて来ていた。灯りの外なのでシルエットでそう思った。その人から声をかけられ言われた言葉に凍りついた。
「助けてくれと──言ったじゃない──か」
灯りの内に見えた男はくたびれたスーツ姿の男。
化け物に喰われた男が歩いて来ていた。