捌 之 筋覚
文字数 2,145文字
薄暗い水銀灯の明かりの縁にゆっくりと入って来たのは、商店街で自販機に喰われた男だった。
どうして──助けて──くれなかった────んだ、とまたくり返した。
着てるスーツはよれていて髪型は前よりも崩れているが、顔は間違いなかった。
男が一歩踏みだすごとに一歩後ずさった。
どこか変だと思った。
辿々 しい話し方か?
胡乱 な目つきだろうか?
なんで──逃げるん──だ、と絡んでくる。
誰だって逃げるだろうと思った。ましてや一度は助けようとタバコ屋の立て看板を無理してあんたを捕まえていた触手に投げつけたんだ。
なおも男が近づいてくる。
犬にだって化けていたんだ。人にも化けないという保証はなかった。
そうだわ! 匂い!? 匂いはしないか?
もう十メートルもない。この近さで匂わないとは思えなかった。だけど、あの、肉の腐った鼻をつく匂いはしていなかった。
なあ、あんた──いっしょに──逃げないか────。
男が片手を差し出した。
あんたといる方がよっぽど危ないわ!
男がいきなり走りだして来てもいいように、駆けだせるよう気を張り詰め続けた。
裂けるぞ! きっとコイツ、ばっくり身体が裂けて触手がどばっと飛びだしてくるぞ。
なぁ──あんた──そう──逃げ腰に────。
もう5メートルも近づいて来ている。
男がいきなり首を前後に振りだした。
口を開きうなり声を発しだした。
ガクガクと激しく振りつける。
おかしいだろう──あんた、絶対、おかしいよ!
両腕をこちらに差し出しつかもうと指を蠢 かし続けた。
落ちそうになるほど口お大きく開き、地鳴りのような響く声を出し続けていた。
いきなりバリバリと板を引き裂くような音とともに、鼻梁 から縦に顔が崩 れだした。
その左右に割れる頭蓋骨の間に吊り橋のような赤黒い組織がぶら下がり次々に切れてゆく。その下の喉に繋がる部分から湧き上がるように細い触手が、しゅるしゅると踊りだした。
目を離した瞬間、背中から襲われそうな気がして、猛然と後ろに脚を繰り出し逃げ出した。
裂け目は喉を通り越し、胸まで左右にバックリと開き、腰の左右からどっと溢 れるみたく太い触手が地面に広がると、うなり声を上げたまま恐ろしい速さで迫りだした。
もう、後ろ向きでは逃げ切れない!
そう判断した瞬間に踵 を返し、全力で公園の出入り口へ駆けた。
それなのに、うなり声が遠くならない。
うそ!? 嘘でしょう! こんなにも速いなんて!
喰われた男が息を切らして商店街に現れたのを思い出した。
必死で走り続けていたんだ。
あの男なりに、全力で逃げてきて、現れたんだ。
公園の外へ飛びだして、外周路は選ばずに、民家の間の道路へ走り込んだ。パンプスの叩きつける音が、化け物の叫びに喰われていた。
100メートル走っても、後ろから吠えながら追いかけてくる。
息が切れだして、倍の距離を全力で逃げ切れない不安が膨れ上がった。
ダメよ! アイツ諦 めないじゃない!
どこかに身を隠しながら逃げないと、真っ直ぐな逃げ方をしてたら、あと100メートルももたない!
いきなり右の脹ら脛 がこわばりだした。
そんな!? こんな時に足が腓返 りを起こしかかっていた。
筋肉がどんどんと動かし辛く感じだした。
狂ったように視線を游 がせ、逃げ込める場所を垣根や塀が続く間に求めた。
一軒の家の玄関脇の暗がりに自転車の後輪が見えた。
あれで逃げたら!? いいや、鍵がかかっていたらその時点でアウトよ!
それでも、最後のチャンスのような気がして藁 にすがった。
咄嗟 に駆け込み自転車のサドルをつかみ手前に引くと簡単に動いた。
鍵がかかってないわ!
振り回すように暗がりから引っ張り出しむきを変え、荷かごにハンドバッグを放り込み自転車に飛び乗った。
ペダルを踏みつけた時点で、叫び声どころか、触手の空を切る音が聞こえ始めていた。
サドルから腰を上げ、目一杯体重をペダルに乗せこぎ始める。それでも自転車はよろよろとしか進み出ない。
いきなりペダルが馬鹿みたく重くなった。
ハッとして、振り向くと荷台に触手の一本が絡みついていた。
冗談じゃないと、必死でペダルをこぎ続けた。
十数回こいでいるといきなりペダルが軽くなった。
それでも全力でこぎ続けていると、段々と咆哮が小さくなり聞こえなくなった。
このまま、自転車で家まで帰ろうと決意する。
車がギリギリですれ違える狭い住宅街を闇雲に走ってると大通りに出た。
通りの反対側に照明に照らされた線路が見えた。道と平行に伸びていた。
なら、この大通りを行けば自分の住む街に辿 りつける。
大通りを自転車で進んでいると、向かい側の車線を数台の車が恐ろしい速さで走ってきて、後ろに走り抜けて行った。しばらく自転車をこいでいると、さらに対向車線を十数台の車が尋常じゃない速さで後ろへ走り抜けて行く。そこでふと気がついた。
自分の住む街へ行く車がまだ1台もいない。
見ていると、対向車線をまた乗用車が猛然と走って来て背後へと走り去ってゆく。
その数台の運転手が、自転車に気がつき、丸くした目で顔を振り向かせながら車を走らせてゆく。
向かって来るどの車も、逃げるように背後へと走り去って行くみたいだと思った。
どうして──助けて──くれなかった────んだ、とまたくり返した。
着てるスーツはよれていて髪型は前よりも崩れているが、顔は間違いなかった。
男が一歩踏みだすごとに一歩後ずさった。
どこか変だと思った。
なんで──逃げるん──だ、と絡んでくる。
誰だって逃げるだろうと思った。ましてや一度は助けようとタバコ屋の立て看板を無理してあんたを捕まえていた触手に投げつけたんだ。
なおも男が近づいてくる。
犬にだって化けていたんだ。人にも化けないという保証はなかった。
そうだわ! 匂い!? 匂いはしないか?
もう十メートルもない。この近さで匂わないとは思えなかった。だけど、あの、肉の腐った鼻をつく匂いはしていなかった。
なあ、あんた──いっしょに──逃げないか────。
男が片手を差し出した。
あんたといる方がよっぽど危ないわ!
男がいきなり走りだして来てもいいように、駆けだせるよう気を張り詰め続けた。
裂けるぞ! きっとコイツ、ばっくり身体が裂けて触手がどばっと飛びだしてくるぞ。
なぁ──あんた──そう──逃げ腰に────。
もう5メートルも近づいて来ている。
男がいきなり首を前後に振りだした。
口を開きうなり声を発しだした。
ガクガクと激しく振りつける。
おかしいだろう──あんた、絶対、おかしいよ!
両腕をこちらに差し出しつかもうと指を
落ちそうになるほど口お大きく開き、地鳴りのような響く声を出し続けていた。
いきなりバリバリと板を引き裂くような音とともに、
その左右に割れる頭蓋骨の間に吊り橋のような赤黒い組織がぶら下がり次々に切れてゆく。その下の喉に繋がる部分から湧き上がるように細い触手が、しゅるしゅると踊りだした。
目を離した瞬間、背中から襲われそうな気がして、猛然と後ろに脚を繰り出し逃げ出した。
裂け目は喉を通り越し、胸まで左右にバックリと開き、腰の左右からどっと
もう、後ろ向きでは逃げ切れない!
そう判断した瞬間に
それなのに、うなり声が遠くならない。
うそ!? 嘘でしょう! こんなにも速いなんて!
喰われた男が息を切らして商店街に現れたのを思い出した。
必死で走り続けていたんだ。
あの男なりに、全力で逃げてきて、現れたんだ。
公園の外へ飛びだして、外周路は選ばずに、民家の間の道路へ走り込んだ。パンプスの叩きつける音が、化け物の叫びに喰われていた。
100メートル走っても、後ろから吠えながら追いかけてくる。
息が切れだして、倍の距離を全力で逃げ切れない不安が膨れ上がった。
ダメよ! アイツ
どこかに身を隠しながら逃げないと、真っ直ぐな逃げ方をしてたら、あと100メートルももたない!
いきなり右の
そんな!? こんな時に足が
筋肉がどんどんと動かし辛く感じだした。
狂ったように視線を
一軒の家の玄関脇の暗がりに自転車の後輪が見えた。
あれで逃げたら!? いいや、鍵がかかっていたらその時点でアウトよ!
それでも、最後のチャンスのような気がして
鍵がかかってないわ!
振り回すように暗がりから引っ張り出しむきを変え、荷かごにハンドバッグを放り込み自転車に飛び乗った。
ペダルを踏みつけた時点で、叫び声どころか、触手の空を切る音が聞こえ始めていた。
サドルから腰を上げ、目一杯体重をペダルに乗せこぎ始める。それでも自転車はよろよろとしか進み出ない。
いきなりペダルが馬鹿みたく重くなった。
ハッとして、振り向くと荷台に触手の一本が絡みついていた。
冗談じゃないと、必死でペダルをこぎ続けた。
十数回こいでいるといきなりペダルが軽くなった。
それでも全力でこぎ続けていると、段々と咆哮が小さくなり聞こえなくなった。
このまま、自転車で家まで帰ろうと決意する。
車がギリギリですれ違える狭い住宅街を闇雲に走ってると大通りに出た。
通りの反対側に照明に照らされた線路が見えた。道と平行に伸びていた。
なら、この大通りを行けば自分の住む街に
大通りを自転車で進んでいると、向かい側の車線を数台の車が恐ろしい速さで走ってきて、後ろに走り抜けて行った。しばらく自転車をこいでいると、さらに対向車線を十数台の車が尋常じゃない速さで後ろへ走り抜けて行く。そこでふと気がついた。
自分の住む街へ行く車がまだ1台もいない。
見ていると、対向車線をまた乗用車が猛然と走って来て背後へと走り去ってゆく。
その数台の運転手が、自転車に気がつき、丸くした目で顔を振り向かせながら車を走らせてゆく。
向かって来るどの車も、逃げるように背後へと走り去って行くみたいだと思った。