拾 之 触覚
文字数 1,805文字
ドアを
音はしない。だけど隙間に近づけた鼻孔を手で覆いたくなる腐臭だけが異様だった。
部屋に入るのを止めてどこかへ行こうかと考えに浮かんだ。
化け物がいる夜の町をうろつきたくなかった。
部屋を調べてみてただ食べ物が腐ってるだけだと納得して、安らぐことができるだろう。心から安心できる場所はここにしかない。
音が立たないように両手で玄関扉をそっと開いた。
ますます強い悪臭に包まれ
きっとキッチンだわ。
そう自分に言い聞かせ、真っ先にシンクを見に行こうと決めた。コーナーの生ゴミ入れに何を入れて腐らせたのか思いだそうとしたが、できなかった。
電灯は点けずに短い廊下を爪先立ちで歩き、開きっぱなしのドアの隙間からキッチンを
鼻をつく匂いはもはや臭いに確定していた。
動きはなく影は影のままじっとしている。
そうだ! あの怪物は車の明かりに追って来るのを止めたんだ。
ドラキュラが十字架を嫌うように、あの気味悪い化け物は光に弱いのかもしれない。
点けた瞬間に襲いかかることも考えて玄関へ駆ける心づもりでスイッチを入れた。
少し遅れて天井の埋め込み電灯が白い光を部屋中に振り撒いた。
キッチンのユニットシンクに食器棚、冷蔵庫、分別用の二つのゴミ箱以外に何も増えているものはない。
それでも、用心しながら部屋に脚を踏み入れた。
怖々とシンクを
三角コーナーの中には大した生ゴミはない。
なら、臭いの元は何なのだと、振り向き後ろ手でシンクの調理台から包丁を引き抜いた。
怪しいのは、冷蔵庫と食器棚のどちらか。
お前は本物なのか!?
喰われた男の声が聞こえた気がした。
化け物が成りすますには、食器棚は複雑すぎると思った。ガラス戸が付いてるし、見える中には食器や調味料が置いてある。
なら、冷蔵庫が一番怪しい。
恐るおそる近寄り、2メートル手前で立ち止まる。
ドアを開こうとして
さらに一歩踏みだして、いきなり思いっきり包丁の切っ先を冷蔵庫の一番大きな冷蔵室扉に突き立てた。
硬い表面に弾かれる。
そう思いながら、力いっぱい刺した。
一瞬、弾かれ刃先が折れたと思った。
包丁が半ばまで扉に食い込んでいた。
その刃から扉の下へ緑色の液体が
驚き、包丁から手を放し後ずさった。
刹那、冷蔵庫が縦に大きく裂けてその間に無数の牙と細い触手が広がり包丁が床に落ちた。
その口とは呼べない裂け目から数本の腕ほどの長い触手が踊り上がった。
怪物が
玄関へ逃げるつもりが奥のリビングへ走ってしまい自分を
だが部屋の内扉。鍵なんて付いてないと慌ててソファーを引き
大きさが自分と違うと気づいた寸秒、二度目にドアへ怪物がぶつかりドアがこぶしほど開いた。
その
押し切られる!
何か──武器にできるものが何か必要だと、振り回される触手を身体を
背の高いコート掛けぐらいしか振り回し殴れるものがない。殴って化け物が引き下がるなんて思いもできなかった!
ガラステーブルに乗っているもの。
テレビのリモコンとストーブに火を点けるための火口の長いガスライター。
ガスライターなんて役立たない!
そう思った瞬間、化粧台のヘアースプレーに気がついた。
それが上手くいくなんて考えなかった。
ガラステーブルに飛びつき、ガスライターをつかんで二歩で化粧台まで跳ねた。
ソファーが倒され乱暴に開かれた扉の音の直後、入り込んだ化け物の
負けるもんか!
迫りくる多数の触手へ向かい両手を伸ばし、ヘアースプレーのボタンを痛いぐらいに押し込み、同時にライターの動作を指先にしっかりと感じた。
目の前に、怖ろしいほどの火炎が膨れ上がった。