拾壱 之 紅覚知

文字数 1,837文字


 迫る触手すべてが驚いたように引き戻された。

 噴き上げる火炎を腕を突き出し開かれた裂けた口に浴びせ、二歩踏み込んだ。

 あれだけ襲いかかろうとしていた化け物が、狂ったみたいに後退り廊下へ逃げようと向きを変えた。



 逃がすか!



 腕を横へ振り廊下の出入り口に炎のカーテンを(なび)かせた。

 逃げ道を失い化け物がリビングの奥へ後ずさりした。振り回す触手すべてにいつの間にか火の手が移り、まるで火薬のように激しく火の粉を撒き散らし根元へと走ってゆく。

 切り火──火打ち石の火花が清浄な魔除けを意味する事を思いだした。

 逃げる怪物を追いかけ、下唇を噛みながら、怯えさせられた思いすべてを浴びせ返した。



 ゆるさない! どれだけ怖かったか思い知らせてやる!

 胴体に炎が広がり、化け物が地鳴りのような咆哮(ほうこう)を上げ崩れ落ち始める。熱でヘアスプレーのノズルが(ゆが)み出していた。押さえる人差し指が痛いほど猛火が(ほとばし)り、それでも灼くことを止めなかった。

 燃え盛る人でないこの生き物の存在を否定してやった清々(すがすが)しさ。

 ボタンから指を離してもすぐに炎は途切れなかった。数回(まばた)きしやっとスプレーからガスが止まると、燃え上がる人喰いを放置して廊下を急いだ。

 このままだとアパートが燃えてしまう。

 台所に入り、つけ置き洗い用の樹脂製の(おけ)伽藍(がらん)の下に突っ込みコックを全開にし水を満たし始める。

 一杯では足らないかもしれない。

 そう思いながら、真逆の行動に出た。

 調理台下の開き扉を開け、買って間がない真新しいサラダオイルの容器をつかんだ。大(びん)のオイルはずっしり重く、タップリ入ってる。



 怒りがそうさせた。



 (おけ)に水を張りながら、片手にスプレー缶、反対の手にサラダオイルを持ったままリビングへ引き返した。

 ところが化け物は意外なほどよく燃えていた。

 パチパチと()ぜながら大きなバターみたく形崩れ床に広がり()き火のように炎が踊っている。

 何で出来てるのかわからなかったが、フライパンに入れすぎた油に火が移ったように燃えている。

 それを見つめ両肩から力が抜けた。

 そうしてもう一度、台所へ行き水の(たま)まった(おけ)を運び異形の生き物だったものへぶちまけた。

 焼けたフローリングと壁紙まで火を消すのにそれから二度シンクの間を往復した。

 焦げた臭いと煙の充満した部屋を見回し、とりあえず窓を開くと朝日が差し込んできた。

 大家に知らせるのが先か、警察が先かと漠然と考えながら、こんな生き物が騒ぎになっていないはずがないと床に落ちていたリモコンを拾い上げテレビの電源を入れる。



 ──府は、この生物の襲来に緊急対応を警察と自衛隊に出しましたが、国民の皆様に緊急避難を指示いたします。くれぐれも、見なれない人、ものに近づかぬよう心がけ自己判断で疎開(そかい)先を──



 えっ!?

 騒ぎどころじゃなくなっている。

 緊急避難ってなによ?

 自衛隊?

 考えがまとまらず、ふぬけたように画面を見てると、(きぬ)を切り裂いたような悲鳴が聞こえた。

 開け放ったままの玄関の方から聞こえた。

 スプレー缶をつかみその指にサラダオイルの容器をぶら下げ反対側の手にライターを用意してから玄関へ急いだ。

 玄関を出て踊場から下る階段越しにアパート前の道を見ると向かいの住宅の玄関先で女性が大型冷蔵庫ほどの怪物に捕まり喰われようとしていた。その女性を助けようと男性が(ほうき)のようなもので化け物を叩いている。

 そんなんじゃダメだ! 助けに行こうと階段へ踏み出した刹那、道を三体の化け物が横切ってきて男性に襲いかかった。

 唖然と見つめながら今になって、自分を追い回していた人喰いが同じ奴でなかったのだと気づいた。

 いきなり轟音のような甲高い音が聞こえてきて、驚いて空を見上げると低空を戦闘機が飛び過ぎて住宅の屋根先に消え去った。

 その朝焼けの赤い空を見上げながら、スプレー缶とサラダオイルが絶対足らないと真っ先に思った。





 広がる空に、数えきれないほどの人の手によらない真っ赤なものが飛行していた。





   ー了ー





 最後までお読みくださりありがとうございました。

 恐れから逃れた矢先に待っていた光景が煉獄(れんごく)への入り口だとしたら生き延びる決意はどうやってつかめばよいのでしょうか────それはめくられた(とばり)の中に入らなければ理解できない境遇です。そのような立場にいつ関わるか、それは誰しも予想できません。

 引き続き(とばり)めくりをお楽しみくださりませ。
 めくった先に(ほの)かに見えるのは、『つかみかかるもの』──心よりお(ひる)み下さい。





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