参 之 聴覚

文字数 1,435文字



 駆け続けながらこれが夢だとこの()(およ)んで自分に言い聞かそうとしていた。

 だが息切れと胸の苦しさからは解き放たれず、人通りのない町並みが続いていた。

 あれは何だったのだろう。

 あんな生き物は見たことも聞いた事もなかった。

 あのサラリーマン風の中年男を待ち構えていた。

 形(くず)れるまでは、自動販売機と遜色(そんしょく)なかった。



 そうして人を喰った。



 眼の前に見えて来た明るい照明の灯った自動販売機。

 近づき過ぎるのを本能的に避け、車道側に走り込んだ。

 お前は本物か!?

 男の声が頭を駆けめぐる。

 走り疲れてくり出す脚を緩めた。

 歩きながら振り向き、あの化け物がついて来てないか、歩道の先の街灯の灯りを見つめる。

 闇に(うごめ)く気配はなかった。

 (ほお)を両手で(たた)き目覚めようとした。

 夜更けの町を歩き続ける現実が(あざ)笑った。

 もしも──もしも、あれが現実で、本当に男が喰われたなら、自分も喰われる可能性がある。

 冗談じゃない。

 私は食べ物なんかじゃない。

 人間は食べられる側の生き物ではない。

 まるで草叢(くさむら)に隠れ獲物を待つ肉食獣に見られてる気がした。

 もしも、あのまま逃げなければ同じように触手に巻かれ喰われただろうか。

 ふと、喰っていたのが不確かに感じた。

 首や顔に巻きついた触手は、男の皮膚に張りついていた。

 いいや! 違う! 怪物は身体の中に取り込まずに消化しかかっていたように見えた。そうだ。まるで男の皮膚と触手が溶け合い混ざりかかっているように見えた。

 そうして販売機の前に開いた裂け目が前ならば、男を取り込みながらなお、こちらへ振り向いたことになる。

 きっと私のことを気づいたんだ。

 目があるのだろうか。音は聞こえてるのだろうか。

 ああ、投げつけた看板のせいかもしれない。

 もう一度、半身振り向いた。

 (ほの)かな灯りの広がる範囲に動くものどころか、不審なものはないのに、取り囲む闇すべてに何かがいるような気配がしてならない。

 どうして追ってくると言い切れるのだろう。

 あまりにもショッキングだったから、そのように──追いかけてくると思い込んでいるだけなのかもしれない。

 歩くのをやめ、立ち止まり聞き耳をたてる。

 時折、シャッターが揺れる音は聞こえたが、あの不気味な音は聞こえてこない。

 タクシーが来ないかと、歩道よりも暗い車道の先へ眼を(およ)がせた。

 あの時、一台だけ見えたヘッドライトの灯りは、車がどこかで曲がったのか、追い抜きはしなかった。

 前へ顔を戻すと、先の街灯の灯りが微かに(にじ)んでいるように思えた。

 気のせいじゃなく、ふたたび歩きだしそれから五分もすると湿った空気に包まれた。



 暗くて見えにくいのに霧の中に足を踏み入れ、よけいに限られた視界が(おぼろ)になった。



 帰る向きは間違いない。

 この県道をまっすぐ道なりに歩めば良かった。

 どこにも入り込まなければいい。

 脇道はどこへ(つな)がっているか不確かだった。

 歩くにつれよりいっそう霧が濃くなっている気がした。光が反射し街灯の灯りが綿のように膨らんで見える。



 唐突に違和感を感じてまた歩みを止めた。



 微かな音が静粛を乱していた。

 聞きとれない、聞きなれない音。

 しゅるしゅるとも、じゅるじゅるとも聞こえる。

 そこにきゅるきゅるという音が混じりだした。

 徐々にだけれど、大きくなっているような気がする。

 いいや、大きくなっている。

 大きくなっていた!

 そんな、まさかと、聞こえてくる方へ神経を張り()めた。





 背後ではなく、向かう先から音がしてる気がした。






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