玖 之 穴

文字数 1,487文字

 

 アパートから少し離れた場所にある大家の家の玄関口に立ちつくしていた。


 扉に張り紙がしてある。


 温泉旅行で三日間留守にします。


 そうなの。

 温泉に。

 良かったわね。

 いきなり扉を蹴りつけ、門をでた。

 冗談じゃない。

 こっちは隣のストーカーに殺されかけてるのよ!

 怒りに穴のことなんてすっかり吹き飛んだ。

 アパートの階段を踏み鳴らし上る。

 外廊下に上がり隣のドアを(にら)みつけた。

 すっかり何かがずれ始めていた。

 たった三日でこの有り様。

 大家が帰るころには狂ってしまう。

 そんな事はないのよ、と鼻で笑う。

 たかだか小さな穴が一つ。

 こんど、何かを突きだしてきたなら──

 絶対! ハサミで切り落としやる!

 ドアを乱暴に開き、響かせるように叩き閉めた。

 土間にミュールを脱ぎ散らし

 キッ、と顔を振り上げる。



 壁から鉛筆ほどのものが突きでている!



 くねくねと動きこそしないが、ボールペンの芯より太い。

 ハサミで切れるものじゃない。

 顳顬(こめかみ)の上へ血が駆け上った。

 咄嗟(とっさ)に台所の包丁立てに手を伸ばした。

 つかんだ包丁を振り上げ突きでたものへ詰め寄っていく。

 鉛筆に見えたものがそうでないと思った。

 黒光りの表面に数本の紫の筋が走っている。

 気持ち悪い。何なのこれは──!?

 鉛筆よりずっと先細り。

 まるで大きな毛先のようだと思った。

 しげしげと眺めるつもりなんて毛頭ない。

 息を吸い込み力任せに右手を振り下ろした。

 鈍い手応えに眼を細める。

 その刹那、聞こえたものに鳥肌立った。


 まるで夜鳴きする猫のうなり声のようなものが聞こえた。


 その寸秒、目の前でそれが引き込まれた。


 何だろう!? 壁向こうから聞こえた声──

 威嚇するような、声だった。

 畳の上で(うごめ)くものに気がつく。


 切り落とした小指ほどの長さのものが蜥蜴(とかげ)の尻尾のように右に左にくねっている。


 その不快なものに包丁を向け後ずさった。

 流し台に背がぶつかり後がないと慌てた。

 生唾を呑み込んで咳き込みながらそれを見つめる。

 今にもそれが追ってくるようで眼が離せない。

 こんなもの! と怒り任せの行動にでた。

 玄関口の壁に掛けた(ほうき)とちりとりを片手でつかむ。

 握っていた包丁を流し台に放り込んだ。

 片手に箒、片手にちりとりと握り替えその揺れ動くものにゆっくりと近寄った。

 できるだけ手を伸ばしちりとりに払い込む。

 そうして窓へ駆けだした。

 箒を放り出し、ちりとりを遠ざけたまま、なかなか開かない窓をガタガタいわせる。

 やっと開いた瞬間、ちりとりごと、それを外へ投げ捨てた。

 それでも気になり窓から乗りだすように下を見た。

 地面に落ちたちりとりがひっくり返っていた。

 蠢いていたあれがどこにもいない(・・・)

 ちりとりの下から、あれが出てきそうで見つめ続けた。

 遠くへ飛んだのかもしれない。

 アパート裏の塀まで自転車の長さほどしかない。

 きっと塀向こうに落ちたんだ。

 振り向き穴の方を見た。

 小さな黒子(ほくろ)ほどの穴が鉛筆が楽に通りそうな大きさに広がっていた。

 大家のところに行く前は、接着剤でしっかりと小さな(・・・)穴がふさがっていた。

 それなのにものの五分足らずで、ふたまわりは広がってしまった。

 何なのだと急に足腰の力が抜け窓際にへたり込んだ。


 このまま、いいようにされてしまう。

 このまま、怯えて生活する。

 このまま、おかしくなってしまう。


 (かぶり)振り、立ち上がり、穴を見つめながら土間へ行き、転んだミュールに足を通した。

 ホームセンターへ行き、穴をふさぐ何かを探してこよう。



 二度と開けられないようにしてやる。



 でも、その自信がないまま──

 ──外にでた。





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