第98話 パリオペラ座のブリオッシュドール

文字数 1,941文字

 今もあるのか分からないけれど、パリのオペラ座の角にブリオッシュドール(ルはほとんど音として存在しない)と言うカジュアルなカフェがあった。生ビールも飲めるし、コーヒーも、パンもサラダもあった。ブリオッシュという名前だけど、そこの大きなパンオショコラが好きで、普通のパンオショコラの二倍はあったんじゃないかな? それを食べたり、生ビール飲んだりしていた。一人で行くこともあったし、友達と行くこともあったし、オペラ座なので待ち合わせ場所にも使った。他にも有名なカフェがあったが、こちらの方が安価で居心地が良かった。

 私は現地で調達した服を着て、外を眺める。やはり日本の旅行客は明らかに違う。きらきら輝いているのだ。本人たちはそう思っていなくても、やはり上質な服を着て、髪をきちんと巻いて、お化粧も崩れていない。日本人旅行者だけ、なぜか本当に綺麗で輝いて見える。

 旅行者として私も二度ほど来ていたから分かるけれど、短い期間で帰らなければならないのが辛かった。
 でも今は何だか、私はそのきらきらした旅行者が眩しくて、羨ましく思えた。
 私はどう頑張ってもあのきらきらした旅行者に見えない。ブリオッシュドールの二階から歩く人たちを眺めていると、見知った顔を見つけた。二階にいるから気がつくだろうかと思っていたが、その人は気づいてくれた。
 ヨンさん(仮名)と言って、在日の人だった。私より三歳ほど年上で、いつも綺麗にしている。背が高くバーバリーのコートが似合っていた。絵画の学校で知り合ったのだが、ものすごく人が良くて、そのエピソードには本当に驚いた。
 イタリア旅行でお金を無くしたと泣いている日本人に出会ったらしい。その初めて会った人に困っているからとお金を貸したというエピソード。(後に無事に返金してもらえたらしい)
 人のために自分が部が悪くなるなんて考えもしない人だった。
 ヨンさんは二階に上がって来てくれて、「時間ある?」と言ってくれた。
 私はなんでそこにいたのか今は思い出せないけれど、きっと暇だったのだろう。ヨンさんも用事でオペラ座に来ていたのだが、少し時間があるからお茶をしようとなった。
 そして一階に降りて、注文してまた上がってきた。
 
 私は滞在許可証の更新はもう出来なかった。ヨンさんは在日のつながりで、ちょっとした仕事があったようだった。
「ヨンさんはまだフランスにいるんですか?」
「それね。悩んでるの。まだすぐには帰らないけど…、でもいつまでもここでこうしてても…ねぇ」
「お付き合いされてる方いらっしゃるんですか?」
「うーん。最近、ちょっと仲良くなってる人がいるけど…結婚とかしないと…ここで生活できないし…。まだ始まってもいないから、なんとも言えないなぁ」
 フランスに滞在したいから、現地の人と結婚したいという日本人女性は結構な割合でいる。
「仕事もぼちぼちあるけど、ほんと、少ないし…どうしようかなぁ」

 ヨンさんは本当に綺麗な女性だったので、引く手あまたじゃないのかと思っていたから、何だか不思議な感じがした。私が男なら彼女と結婚したい。

 絵画の学校に彼女はいつもお弁当を作って来ていたのだが、それがもう立派で美味しそうで、いつも横目で見ていた。私は食パンにヌテラを塗っただけのものを持っていったりしていた。その甘い食パンを食べながら、いつも美味しそうなお弁当を眺めていた。

 女子力高し。綺麗な女性。これだけでもうお嫁さんにしたいではないか。しかし微妙なお相手はいるものの、真剣な交際につながるかどうかわからないという。

 かつて彼女が一番好きだった人が日本にいたようだけれど、上手くいかなかったと言った。在日というのがハンデになったと言っていた。だからパリに来たのだろうか。フランスだったら気にする人がいない。
 こんなに綺麗で、料理も上手で、そして何より優しいのに…。ヨンさんの悲しい恋を聞いて、胸が詰まった。
「ヨンさんだったらきっと上手く行くと思いますよ」と私は何の根拠もないのにそう言った。
「そうかな? ありがとう」と言ってくれた。
 根拠は何にもないけれど、私は上手く行くように願って、そう言った。

 オペラ座付近には日本食のお店も多く、日本の本屋もあって、よくウロウロしていた。観光客ももちろん多いが在住者も多い。もちろん日本人だけじゃなくて、海外からの旅行者も多いし、フランス人ももちろん多い。たくさんの人が交差する角にあるカフェの二階から人を眺める。
 もうすぐ帰国する。
 それは少しほっとするような、泣きたくなるほど淋しいような気持ちだった。
 その気持ちを紛らわすために私は旅行者に憧れを持ったのかも知れない。
 ヨンさんと別れて、私は自分が眺めていた人の波に紛れた。










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