第96話 バカンス

文字数 1,737文字

 初めてのパリ旅行はホテルと航空券のついたものだった。二度目のパリ旅行はキッチンのついたホテルで、料理ができるようになっていた。とはいえ、当時、実家暮らしの大学生だったので、特に料理ができるわけではないが、朝市(マルシェ)で買ってきて、何が調理したいと思ったのだ。
 この旅も同じくミゾと一緒だったが、彼女も実家暮らしで、大して料理ができなかった。それでもワクワクしてこのホテルまでやってきたことを覚えている。
 ホテルダニューブ(まだあるのかな?)七番線の支線で、パリの中心地に行くのはいささか利便性は良くなかった。そしてちょっと寂しい感じの場所だった。黒人の男の子が大きなじゃがいも袋を下げて、歩いていた。そんなにじゃがいもを消費するのか、と驚いたのを覚えている。
 
 ホテルの受付にいるのはいい年のムッシューとマダムだった。
 ムッシュがとっても優しくて、私たちがただ食べたいと思って買ったムール貝をどう調理したらいいのかわからなくて、聞いてみたら、しばらく悩んで、奥さんに「作ってやれ」と言ってくれた。そしてこれとこれを買うように、とメモまで渡してくれる。
 そこには辛口白ワイン、タイム、ニンニクと書かれている。バターとか塩とかはマダムが分けてくれた。
 マダムはちょっと面倒くさそうだったが、でもちゃんと部屋にきて、ムール貝を調理してくれた。まぁ、今思えば簡単だったんだけど、とっても美味しいものが出来上がって、私は驚いた。

「ちゃんとしたフランス料理を部屋で食べれるなんて」
(前回は味付けなしのサラダでうさぎ体験、硬いフランスパンが嫌で頼んだホットドッグはまさかのフランスパンに挟まれ、チーズがかかったホットドッグというなかなか大変だった)

 なんだかんだと受付のムッシュとマダムに優しくされて、私は幸せだった。幸せすぎて、最終日、スキップしてお財布を落としてしまったが。

 そんなホテルダニューブ。あれから6、7年経っていた。私はパリに留学している。お世話になったムッシュとマダムに会いにいこうと思った。
 向こうは覚えていないだろうけれど、親切にされて嬉しかったので、私は留学でパリにいるのだから、時間はあった。

 思い立って、花束を買って、七番線の支線のダニューブ駅まで行った。地下鉄の駅から外に出ると、すぐにそのホテルはある。
 私は思い切って、ホテルに向かった。すると受付には男性が座っている。

「ボンジュー」と言われたので、私は「六、七年前にここに泊まって、マダムとムッシュにとても親切にしてもらったので、お礼に来た」と言った。

「あぁ、覚えてるよ。503の部屋だったよね」と言われて、残念ながら、私は部屋番号を覚えていなかった。

 旅行当時、なぜかミゾがその部屋の鍵を持ってきてしまったことを空港で気づいて、ホテルに電話した思い出がある。
「郵送で送ってくれたらいいから」と呑気な回答だった。
 空港の郵便局から無事に送って、終了となったわけだが。

 そんな風に色々お世話になったので、思い出深いホテルだった。もちろん向こうは覚えていなくても構わない。異国で親切にされて、本当に嬉しかったのだ。

「あの…マダムとムッシュは? お元気ですか?」と私はその男性に聞いた。
「うん。田舎で、バカンスしてる」と言われた。
「え? いつ戻ってくるんですか?」
「んー。大丈夫だよ。バカンスだから」と言われた。

 そして私が買ってきた花束は「だから…君が持って帰って」と言われた。
 私は割と豪勢な花束を抱えていたのだけれど、それをそのまま持ち帰ることになった。本当にバカンスかもしれない。でももしかしたら永遠の…バカンス?
 私が逡巡しているのが分かったのかもしれない。
「君、ここに住んでるの?」と聞かれて、頷くと「それは良かった」と言ってくれた。

 本当のことはどうか分からない。でももしかしたら…バカンスという言葉で私が悲しまないように誤魔化したのかな、と思いながら、私は花束を抱えて、また来た道を戻る。

 あの時、親切にしてくれて、ありがとうと伝えたかったけれど…。
 そしてそんな優しさに触れて、私はここに来たんだと伝えたかった。伝えられなかったけれど、私は感謝しながら、メトロで花束と一緒に揺れていた。














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