第55話 うどんがないなら、フォーを食べなさい

文字数 1,288文字

 パリにはもちろんうどんだって、ラーメンだって食べれるお店がある。オペラ座付近には日本食のお店がある。でも私は一度も行かなかった。
 なぜなら、それは高級品だったからだ。永遠にフランスにいるわけではないのだから、貴重な外食を日本食で埋めたくはなかった。だって私はほぼ毎日、米は食っているからだ。

「うどんが食べたくなったら、フォーを食べたらいい」と多分、Sさんから聞いた…気がする。

「美味しいフォーのお店あるから、綾さん、行こう」と言って、連れていってくれたのが、中華街の最寄駅である地下鉄7号線にあるトルビヤックという駅付近はベトナムフォーのお店も多い。
 この近辺には中華料理店も多いのだけれど、「ほぼベトナム人がやってるから」と言われた。

 初めてフォーを見た時、衝撃が走った。牛の生肉が乗っているのである。

「これ…食べていいの?」
「うん。いける」

 ほぼ、生。もちろん、熱い汁につけてしゃぶしゃぶすると茶色になるが、生肉のまま食べる方が通な気がした。そして本場ベトナムにはきっとないと思われる辛味噌っぽい調味料が小皿でついてくる。後は見たことのない生野菜が山盛り。

 私が行った頃はまだ狂牛病が現役だったので、「牛を食べない」という旅行者も多かったが、私はそうは言ってられず食べていた。

 生肉が乗った麺、野菜を入れて、味噌を溶かして、レモンを絞って食べると、ものすごく美味しかった。
 生肉に怯んでいた私は一瞬で消えて、麺も一瞬で消えた。

「めっちゃ美味しい」
 感動を覚えた私は他の人にも紹介し、何度も食べに来た。フォーは安価な外食であり、野菜もたくさん食べれたし、何より、日本人の心に染みる、そう、うどんを食べた時のような胃が温まる料理だった。

 パリではうどんを食べなくても大丈夫だとすら思った。

 パリは多国籍の人間が住んでいる町なので、アジア料理も、インド料理も(これもほぼパキスタン人がやっているという)中東料理も何でもあった。

 中でもベトナムはフランスの占領下にあった縁もあるのか、お店も多く、バインミーというサンドイッチも手軽に食べられた。フランスパンのサンドイッチより、もちろんバインミーもフランスパンで挟むのだけれど、私はバインミーの方がなぜか好きだった。

 中華街には大きなスーパーマーケットがあって、日曜日も開いているので、割と頻繁に出かけた。そんな時にフォーを食べたり、店先で売っている中華まんを食べたりして…、私も移住したいなぁとぼんやり思った。
 国を捨てて移住するというのはどういう覚悟なんだろう…と思いながら、街を歩いた。

 地下鉄のトルビヤックから中華街まで少し距離がある。私の家の近くのバスはまさかの中華街まで一本で行けたので、良くバスに揺られて中華街まで行った。バスから見える街を見て、自分の住んでいる場所から中華街までの景色をぼんやり楽しんだりしていた。当時はスマホもなかったから、景色を眺めるしかなかった。

 その度に、パリで暮らすってどういう感じなんだろう、と私は暮らしつつも期間限定なので、仕事もしていないし、なんだかやっぱり異邦人という気分だった。












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