第62話 お金が出てこない

文字数 2,507文字

 滞在許可証についてはいろいろ噂があって、
「受付の人と喧嘩して、勝ち取った」とか…
「何度行っても、いく度に必要書類が違う」とか…
 もう日本では考えられないようなことが起こるらしい。でもそれは日本人に対して、そういう対応をしているのではなく、フランス人ですら、そういった目にあうらしい。

 映画の「スパニッシュ・アパートメント」はフランス人がスペインに留学するお話だ。そこでフランスの大学で、まず手続きをしなければいけないのだが、主人公は「あそこへ行って。あの書類を用意して」と言われ、そこに行くと「それは必要じゃないわ。ここに行って」と言われ、「そうじゃないわ。ここでは無理」だとかなんとかたらいまわしされるということをおもしろおかしく映像化していた。
 その映画を見ると、フランス人でもこんなに振り回されるんだから…、外国人はそうなるよなぁ…って思ってしまう。

 しかし日本人からすると本当に不思議なのだ。行政が提出を求める書類が毎回違うという不思議。日本だと、書類が揃っていないと不備で受付不可、揃っていると、受付されるというのが当たり前なので、フランスの少し歪んだ空間は不思議だった。

 で、冒頭で喧嘩して勝ち取ったという人もいたが、私は喧嘩はなるべくしたくない。でも受け付けて欲しい…。
 そこで取った作戦はシンプルに「心からお願いをすること」である。

 よくフランス人はアムールの国だというので、男性の受付に女性が行けば上手くいき、逆に女性の受付に男性が行けば良い、という噂もある。まぁ、男性の受付は確かに優しかった。
 しかし受付なんて、男性になるのか女性なのか選べない時だってある。男性の列だと思っていたら、交代されることもあるのだ。

 以前にも書いたが、フランス人は基本的に「困っている人を助けよう」と思っている。
 だから私は「書類を受付てもらえないと困る」と言ったことを体全体で懇願する。もう本当に困ってしまって、どうしようもないの…と途方に暮れると、意外と女性でも「うーん。ちょっと待って」と言って、どうにかしてくれることがある。

 智子に旅行に誘われて、お金を下ろそうとした時だった。旅行に行く前だったので、連休前の夕方だった。
 銀行のATMが外の壁にあるところで、私はお金を下ろそうとした。暗証番号も入れて、お金を待つ。お金は出てこないのにレシートが印字され、表示が「ご利用ありがとうございました」と出た。

「…」
「……」
「………」

「はぁぁぁぁ?」と思わず声が出た。
「いやいやいやいやいや、ありがとうございましたって…」
 
 日本円で十万円。銀行はすでに閉まっている。明日から連休。それでみんなお金を下ろしていたのかもしれないけれど、そのATMにはお金が入っていなかったのだろう。私はレシートをとりあえず持って、そして…智子に「お金が出てこないから…あの…旅行は行けません」と断った。
「連休、大丈夫?」と心配してくれたが、お米はあるし生きてはいける。
 ただ連休に遊びに行くお金はなかった。

 そんな訳で、お金が返ってくるのか不安なまま連休を過ごした。そして銀行もフランス式なので、ものすごーく時間がかかるというのを聞いていたので、朝イチで銀行に向かうことにした。

 日本の銀行は九時になって、シャッターが開くと同時に仕事を受け付けてくれるが、フランスは九時に開店したら、そこから準備が始まって受け付けてもらえるのは九時十五分くらいからだった。朝イチで銀行に向かったが、やはりフランスでもお年寄りの速さには負けた。
 彼らの後ろに並ぶ。三番目くらいだった。

 私の順番になって、たどたどしいフランス語で「連休前にお金を下ろしたけれど、出てこなかったの。レシートはこれです」と言った。すると、本当に驚いたのだが、ATMの後ろからレシートのコピーを取り出し、レシートと同じように長い紙がトイレットペーパーのように丸められているのを、無造作に広げていく。どんどん紙が広がるデスク。デスクからはみ出て床にまで広がっていく…。

(え? 空っぽのATMだったからもしかしたら…私以外の人も…後から来ると思うんだけど…)
 
 レシートがものすごい勢いで広げられていき、これ…後で片付けるの…どうするんのさ? と思いながら、お姉さんが私のレシートと合致するのを探し出す。結構な時間がかかったが見つけてくれた。
「あ、ほんとね。お金、出てないわ」と言って、私のところを手でちぎって、真っ白な紙を出してきた。
「七月何日にお金を引き落としたが、出てきませんでした。こちらの銀行で確認しましたので、この銀行口座に返金の手続きをお願いしますって書いて」と言われる。
「…辞書」
「辞書?」
 私はスピーキングが一番得意で、次にリスニング、リーディング、ライティングは一番苦手だ。それにフランス語で公式文書を書くのに躊躇してしまう。今ならスマホで一発で翻訳できるかもしれないが、私は半泣きになりながら、文章を書く覚悟を決めた。
「文を書くのに辞書が必要です。家に帰ってから書いてきていいですか?」と私が言うと…
「辞書…。辞書ねぇ」とお姉さんは呟き、自分でその文を書き始めた。
 フランス人の手書き文字…なかなか読めない。
「下にサインして」と言われた。
 どうやらお姉さんが代筆してくれたようだった。私はサインだけして終わった。
「一週間後にあなたのフランスの口座に振り込まれるから」と言って、手続きは終わった。

 銀行に行って
「え? お金出てこなかったの? そんなの知らないわ」と言われるかもしれない。
「お金、ちゃんと出てるわよ?」と言われるかもしれない。
 不安で仕方がなかった連休だったが、解決できて、ちゃんと一週間後くらいに口座にお金が入っていた。

 フランスでいろんなことがあったが、私は割と助けられたなと思うことが多くて。でもそれは喧嘩腰ではなく「困ってるので、助けてください」と言っていた。
 そうすると「うーん」と言いながら、本当に暖かい手を差し伸べてくれる。

 まぁ、もちろん日本だとお金がATMにないってことはないだろうし…、二十四時間対応してくれるんだけどね。













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