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文字数 892文字

「ねえ、良かったら今夜もう一晩泊まっていかない?」支度を済ませて靴を履いていると、叔母が勇三にそう声をかけた。「せっかくだし、学校からこっちに直接帰ってくればいいんだから」
「すみません、叔母さん」勇三は背中を向けたまま言った。「家の用がいろいろ残ってるんで」
「そう……そうよね。ごめんなさいね、こんなこと言って」
「いえ、こっちこそ。突然押しかけておいて……」

 立ち上がって向き直ったものの、勇三はそう曖昧に答えることしかできなかった。

「じゃあ、そろそろ行きますね」

 そう続けたのは沈黙に堪えかねたからだ。
 きっと叔母は、勇三に自宅アパートを引き払ってこの家に戻ってきてほしいのだろう。世間体や金の仕送りの問題ではなく、一緒に暮らす家族としてそう願ってくれているのだ。
 そしてサエも、そうした親心のようなものを無碍にしているのが許せず、勇三に剣呑な態度をとっている。
 だが彼女たちの気持ちに気づきながら、勇三はそれに応えることができなかった。遠慮や思い遣りとは違う、もっと根深いところにある感情だった。

「あの、叔母さん」それでも勇三は、玄関戸のノブを手に振り返った。
「なあに?」
「その……また来てもいいですか?」

 叔母は昨日勇三がここに来たときと同じように目を丸くすると、すぐに目を細めてにっこりと微笑んだ。

「当たり前じゃない。いつ帰ってきていいのよ。ここはあなたの家なんだから」言いながら、叔母は自分の言葉を確かめるように何度も頷いた。「ほら、早くしないと遅れちゃうわよ」
「はい……」勇三も頷き、それからためらいを紛らわすようにこう続けた。「いってきます」
「いってらっしゃい」

 見送る叔母を今度は振り返らず、勇三は家を出た。
 おれは最低だ、そう思った。この家に戻ってきてほしいという叔母の気持ちを知りながらもそれに応えず、あまつさえ先延ばしにするような言葉で気をもたせることしかできないのだから。

(なにが『また来ます』だ)

 そんな自分勝手な感情を持つ資格などないと思いながらも、勇三の胸はちくちくと痛んでいた。
 叔母の笑顔には昨日とは違う、悲しげな色が混じっていたのを見たからだった。
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