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文字数 1,283文字

   Ⅵ


 カウンターの上には、持ち主を失った首輪が置かれている。
 テーブルに突っ伏した霧子は自分の腕を枕に、その鈍い輝きを見つめていた。トリガーの行方がわからないことへの不安に押し潰されそうだったが、それ以上に、いまは待つことしかできない無力な自分に苛まれていた。

 霧子とトリガーの関係性は、もはや主従や家族といった枠組みでくくることはできなかった。それは半身とさえ言える親密さであり、お互いでお互いの存在を認識し合っていたと言っても過言ではなかった。
 死がふたりを分かつまで、という言葉があるが、自分たちの場合はその死をもってすら引き裂くことはできない。誇張ではなく、厳然たる事実として霧子はそのことを知っていた。

 それほどの存在が、文字通りいまにも消えかかっている。
 仲間たちからの連絡をただじっと待つというのは、霧子にとって身を焦がすようなものだった。

 眠りに落ちたわけではなかった。身体が置物のように動かなくなったとしても、意識だけは明瞭であると自覚していた。
 しかし……だからだろうか。ある種の瞑想における境地のように、霧子は目の前にある首輪の内奥を見抜き、読み取っていた。

 それは鮮明な白昼夢、あるいは顔も知らぬ開発者が調整器と言った装置にこめられた、トリガーの魂の残響だったのかもしれない。

 そしてそれは同時に夢であり、記憶だった。

 霧子を含め、そこではなにもかもが光に包まれていた。
 風にゆれる草花、虫たちの羽音、動物たちの午後。
 お互いに笑みを投げかけ合うふたりの男女もいた。彼らもまた光に包まれていた……いや、彼らそのものが輝いていた。
 日光や炎に照らされているのでもない。これらはすべて、その内側から生命が輝きを発していたのだ。

 突然、闇が訪れた。

 怒り、憎しみ、悲しみ、恐怖、絶望。
 あらゆる生命体が断末魔の嵐に飲みこまれ、ばらばらにちぎれていく。
 闇は渦を巻き、すべてを永劫の無へと取り込んでゆく。霧子は坂を転がり落ちるかのように、その渦の中心、虚無へと吸いこまれていった。
 そこには意識や自我といった「個」という概念は一切存在せず、ただすべてが静寂の地平に溶けこむだけだった。
 そしてそこには安息があった。死へと隷属することへの、魂を奪う安息が。

 遠くから声がする。声は、少しずつこちらへと近づいていた。
 その反響を耳にしながら、霧子の意識はさきほどとはまた違う光景を見ていた。

 その世界はふたたび光に包まれていた。ただしその輝きは先ほどよりもずっと鈍く、あらゆるものの時間が停止していた。死が訪れることもなければ、生を実感することもできない世界。
 霧子はそんな世界の片隅に立ち、トリガーと向かい合っていた。

(懐かしいな)反響する声がさらに近づくなか、霧子は思った。

 ちっぽけな犬のトリガー。それと同じくらいちっぽけな、自分の姿。
 言葉を交わさないまま向き合うふたりを、明るさを取り戻した光が包んでいく。光に包まれる直前、霧子は反響する声がどんな言葉を発しているかを聞いた。

〝もう、わたしに構うな〟

 耳元でしたその声は、自分のものだった。
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