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 そのとき控え室のドアが開かれ、ひとりの男性が部屋に入り込んできた。途端に霧子の表情が重く曇る。

「やあ、入江くん」

 窺うような視線と笑みをたたえ、男性が霧子に歩み寄ってくる。見た目は四十代後半から五十代前半、痩せぎすでひょろりとした体形を白衣で包んでいる。
 後退した生え際から髪を後ろへ撫でつけ、どこか無感動なぎょろりとした眼は猛禽類を思わせた。実際、彼は霧子を研究対象としてしか見ていなかった。

日下(くさか)博士」

 会釈する女性職員の存在を無視して、日下と呼ばれた男は目の前にしゃがみこむなり、ソファに腰かける霧子をまじまじと見つめた。

「今日はスカートに銃はしまってないのか?」
「あんたがいるとわかってたら喜んで持ってきたよ」
「おいおい、随分ご挨拶だな。この恩知らずめ」

 言葉とは裏腹に、日下の声はどこか楽しげだ。嫌悪感もあらわに顔を背ける霧子に頓着している様子もない。
 日下が女性職員に片手を伸ばす。彼女が立ちすくんでいると、彼は立ち上がってもぎ取るように端末を奪った。

「ふぅん……」画面のデータを指先でなぞりながら日下が嘆息する。「血圧、各種機能に異常は無し。当然だろうな! ほかの数値も目立つところはあるが……まあきみたちにしてみれば正常な値か。だが、そうだな。栄養のバランスには気をつけたまえ。鉄分が不足しているぞ。念のため造血剤を処方しておこう」

 日下が端末の画面から視線をあげ、ふたたび霧子を見つめた。その瞳は好奇心をたたえていた……子供が、昆虫の足を面白半分にもぎとるときにあらわれるような好奇心が。

 では、お大事に。そう言い残して嵐のよう去っていく日下の背中に、霧子は手にしたコップを投げつけてやりたい衝動にかられた。それを押さえるそばから、コップを握る手が小刻みに震えてくる。

 霧子は叩きつけるようにコップをソファ脇の小机に置くと、日下から返された端末を胸に抱える職員に言った。

「帰る。荷物を返してくれ」
「いけません。今夜もこちらに泊まっていただく規則ですので」

 日下の来訪を予想していなかったせいだろう、職員は少しうろたえた様子だったが、それでも言葉に淀みはなく、睨むような霧子の視線にも毅然とした態度を崩さなかった。

「わかったよ……」先に折れたのは霧子だった。「わたしのわがままで迷惑をこうむるのは、あなたたちだからな」
「申し訳ありません、こちらの不手際で。まさか日下博士がいらっしゃるとは思ってもみなかったので……」そう言う職員からは、密かに胸を撫でおろしている様子が窺えた。「明日、お帰りになるまで日下博士はできるだけ遠ざけておきますので」
「ああ、頼む。できる範囲で構わないから」

 口調を軟化させてはいたものの、霧子の胸中では不満と怒りがくすぶっていた。
 職員の「できるだけ」という言質にもいまいち信用がおけなかった。

 あの日下博士が研究対象を調べようと行動を起こせば、一介の職員に止められるはずもない。

 いや、職員だけではなく、いったい誰があの男に口出しできるだろう。日下博士こそがこの研究施設の総責任者であり、霧子とトリガーの実質的な持ち主なのだから。

 霧子はふたたびコップを手に取ると、怒りを押し込めるように中身を一気にあおった。
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