文字数 1,783文字

   Ⅱ


 午前二時。

 深夜にも関わらず集まった人々によって、現場は騒然としていた。
 もたつくような六月上旬の雨を受けながら、現場となった牛舎が闇の中に浮かびあがっている……ここは<アウターガイア>ではなく、地上だった。

 牛舎が建つ酪農場の出入り口で幾層もの輪を作る人々は、誰もが傘を手に爪先立ち、首を伸ばしては農場の様子を窺おうとしていた。きっと空から見れば、色とりどりの傘が花畑のような彩りを添えていることだろう。
 いまにも近寄ってきそうな野次馬たちを遮っていたのは、酪農場のまわりをぐるりと囲んだ木製の柵だった。
 敷地は広大だった。巡る柵の内側は牛を放牧する一ヘクタールほどの牧草地帯と経営者である酪農家夫妻の家屋、それから売店を併設した小さな加工場と事務所で構成され、それぞれが砂利道で繋がっていた。

 そうした柵と、出入り口に張られた黄色い規制テープの内側では、野次馬と対峙するように揃いの紺色制服の上に白いレインコートを羽織った警察官たちが立っていた。そこから少し離れた砂利道の上では私服姿の刑事がふたり、経営者の夫婦から事情を聴いている。
 思わぬ事件の中心人物にまつりあげられたこの人の好さそうな初老の夫婦は、寝巻きにゴム長靴といういでたちに恐怖や不安を隠すこともできず、傘を持つ手すらおぼつかなかった。

 砂利道の脇にある草むらには一台の黒いヴァンが横づけされている。かすかに開いた窓からは、鑑識官のひとりが降りしきる雨に視線を向けていた。
 本来であれば真っ先に事件現場に足を踏み入れる彼らは、待機を命じられた今夜の事態に手をこまねいている様子だった。

(この雨のなか、ご苦労なことだ)

 そうして官民入り乱れた人々の群れから離れたところで、高岡陽一は静かに嘆息した。

 すでに一〇分はこうして雨の中に立っているだろうか。警察関係者からの敵意と、野次馬たちからの好奇の視線を一身に浴びていると、それが一時間にも感じられる。いまや傘ごしに感じる雨音さえも、高岡を急かしているように思えた。

 そのとき正面の人垣を割ってスーツ姿の女性がひとり、転がり出るように姿をあらわした。
 人ごみをかきわけたせいで傘が満足に用をなさなかったのか、肩口は雨に濡れ、髪もあちこちに乱れている。
 女性は規制テープの手前で大きな肩掛けカバンから取り出した身分証を制服警官たちに見せると、いまにも躓きそうな危なっかしい足取りで砂利道をこちらへと近づいてきた。

「本日付けで第三局に配属になりました、黒川(くろかわ)すみれであります」

 敬礼する黒川は遠目で見るよりだいぶ若かった。二十代後半だろうか。辞令とはいえ、高岡はこの仕事で教育係に抜擢されるのはどうにも気がすすまなかった。

「第三局上級局員の高岡だ」直立の姿勢を崩さない黒川に高岡は応じた。「行くぞ」
「遅くなってしまい、申し訳ありません」踵を返して牛舎へと向かう高岡に黒川が言う。
「異動だってな。ここに来る前はどこに?」
「はい。四局で三年間、情報処理を」
「北条局長のところか……あっちの仕事もやりがいがあったんじゃないのか?」
「はい。ですが、現場勤務は自分たっての希望でして」
 高岡は頷いてみせると、「その前はどこに?」
「と、仰いますと?」
「四局で三年……見たところキャリアはそれだけじゃなさそうなんでな」高岡は黒川が言いよどむのを見逃さなかった。「違うか?」
「ええ……以前は軍に所属しておりました」
「なるほど、引き抜き組か」

 高岡は合点が言った。このしゃちほこばった身振りや口調は新米だからというより、軍隊にいたころの名残りだろう。

<特務管轄課>はこの国の防衛省に籍を置きながら、軍には属していない独立組織である。そのため縦割り行政特有の省庁同士の諍いはなく、<特務管轄課>は軍と袂を分かちつつもほぼ同等の権限を持っていた。故に官民を問わずあらゆる組織に対して行使できる人事権は、特に軍を相手に発揮されることが多かった。
 要するに怪物相手にお国を守るという大義の下、強権を振るうことが可能だった。

 この黒川すみれもそうした経緯で、優秀な人材として軍から引き抜かれたのだろう。
 高岡にとってもっぱらの関心は、そんな組織の仕組みよりも彼女自身の能力に注がれていた。いかなる前歴があろうとも、<特務管轄課>の局員として現場に立つのは今日が初めてだからだ。
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