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文字数 1,184文字

   Ⅵ


 その日の正午前、自宅アパートの前まで帰り着いた勇三はその場で立ち尽くした。
 疲労が原因ではない。実際のところ寝不足ではあったが、実家で一晩過ごしたおかげか疲れをあまり感じていなかった。

 急いで支度をすれば午後からの授業には出れるかもしれない、帰り道ではそんなことを考える余裕も生まれていた。
<アウターガイア>のことなど、念頭には無かった。これからは、ふたたび平凡な日常を生きていこうとさえ思っていた。
 たとえ心にしこりを残すような形であっても、物騒な事にはこれきり関わらないことに決めていたのだ。

 だがその矢先、勇三の決断は大きく揺らいだ。自宅に辿りついた彼を、トリガーが待っていたからだ。

 前脚を揃えてアパートの敷地を一歩入ったところに座っていたトリガーは勇三の気配を感じると、相手の動揺などつゆ知らず、気のない一瞥を向けてきた。

「遅かったな」トリガーは言った。
「どうして……ここにいるんだよ?」ボストンバッグの肩紐に手が伸び、無意識のうちにそれを握り締めてしまう。
「まだおまえの口から直接聞いていなかったからな」
「なにを?」冷静さを手繰るよう、静かに訊ねる。
「<グレイヴァー>を続けるのかどうか、その意志をだ」

 勇三は思わず息を呑んだ。
 こいつは、そんなくだらないことを聞くためだけにわざわざここに来たのか? 傷つき、苦しんだ心を、ふたたびえぐりに来たというのか?

「どうなんだ? 続けるのか? それとももうやめるのか?」
「もう、やめるよ」呟きながら、勇三は自分の口調に驚かされた。まるでこの決別を渋っているような響きを含んでいたからだ。それでも彼は続けた。「化け物退治なんて、おれには無理だったんだ。それに、自分の意志ではじめたわけじゃない。おまえらとは違うんだ」
「ああ、そうだな。おまえはニンフズやおれとは違う、巻き込まれた身だ。そもそも、おまえを引き止める権利なんて無いさ」
「だったらもういいだろう」
「いいや、まだだ」

 家にアパートに戻ろうとする勇三の背中にトリガーが声をかける。

「おまえが<グレイヴァー>でなくなるまえに、もうひとつ言っておきたいことがある。金輪際関わりもないというのなら、余計にな」
「なんだよ……」

 思わず立ち止まった勇三は、文句のひとつでも言われるのではないかと身構えた。
 しかしその予想に反し、トリガーは静かに頭を垂れた。

「すまなかった」

 そのひとことに、勇三は思わず一歩前に進み出た。
 いまさらなにを謝るというのか。この期に及んで謝ったところで、なにが許されるというのか。

「なんだよ、それ……」
「謝っているんだ」トリガーがにべもなく言う。「おまえの心に一生残るような傷を負わせてしまったことを謝る。こんな世界に巻き込んでしまったことを……そしてあのとき、おまえがひとりで仕事に行くのを強く引き止めなかったことを許してほしい」
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