第七章 第4話 企み
文字数 3,470文字
天元三年(九百八十一年)。千常に対して左衛門大夫に任じる旨、報せが有った。これは、左衛門尉と言う、本来六位相当の官職であるが、五位の者が任じられた場合は、左衛門大夫または大夫尉と呼ばれる。
大内裏の外郭のうち、建春門、朔平門・建礼門・宜秋門・より外側で陽明門・殷富門・朱雀門・偉鑒門より内側を警備することが職掌である。即ち内裏の外側、大内裏の内側の内裏以南の東半分である。
「どうされるおつもりですか? 正式に任じられた以上、断ると言う訳にも参りませんでしょう。それに、衛門府は兵に取って名誉な職のひとつでもあります。意地を張らず、お受け下さい」
珍しく文脩が真剣に千常に詰め寄る。
「考えて置く」
千常は不機嫌そうに答える。
「太政官の命に逆らうと言うことは、下野・藤原を窮地に立たせることになるとは思われないのですか」
「調子に乗るな! 肥との戦いでの働き見事であった。それは認めてやる。だが、それでいい気に成って親に説教するか。戯け!」
言葉では叱責しているようだが、本気で腹を立てている様子は無い。
「申し訳御座いません」
文脩は、千常に分からぬように横を向き、小さく溜め息をついた。結局ひと月後、千常は渋々上洛し、取り敢えず千方の舘に入った。
一方、千方であるが、翌、天元四年(九百八十二年)に鎮守府将軍の任が明けると言うのに、なぜか何の沙汰も無い。落ち度が有ったと言う覚えは全く無い。何か嫌な予感がした。
天元四年(九百八十二年)の十月になって、
『諸般の事情に寄り、離任後、暫し待機せよ』との下知が都より届いた。『嵌められたのではないか』との疑念が沸く。
年が明け後任の鎮守府将軍が着任すると、引き継ぎを済ませ解由状を貰って仕方無く、千方は陸奥を離れた。関白・頼忠が、兼家との和睦を図る為、何らかの取引したのではないかと言う疑念が千方の心を支配していた。
一旦、都に戻り、太政官に解由状を提出したが、弁官が事務的に対応したのみで、なんら説明は無い。
舘に戻り、次第を千常に報告する。
「何やら臭いな。麿は坂東の国司にとの希望を出していたのじゃ。下野或るいは武蔵、相模辺りを望んでおったが、いずれも蹴られた。麿の嫌う京官に敢えて押し込んだのではないかと思うておる。
衛門府は武官とは言っても、近頃、検非違使と兼務の者達が幅を効かせておる。そこへ持って来てそなたの扱いじゃ。現職の修理亮が異動する気配は全く無い。つまり、そなたの戻る場所は無いと言うことじゃ」
千常は腕組みをして、眉に皺を寄せた。
「さようですか。やはり兼家様が力を持って来たことと無関係では無いと言うことでしょうか」
千方がそう言うと、
「噂じゃが、満仲が、摂津に戻ることを右大臣・兼家様に働き掛けているらしい」
と、兼家と満仲にまつわる噂を、千方に伝えた。
「あの男が、僅か一年で前関白・兼通様に越後に飛ばされたのは、麿とも関係が有ります」
兼通が、千方を手元に抱え込み、一方では満仲を都から遠ざけようとしていたことは、千方も感じていた。
「臣従するつもりなど全く無かったが、我等に取っては、前関白の方が遥かにましだったと言うことか」
千常にしては珍しい言い方である。
「いずれにせよ。摂関家の者達は我等の仕えるべき相手では御座いません」
「その通りだ」
千方の言葉に、己自身納得したように、千常は大きく頷いた。
「麿は坂東に戻って様子を見ることに致します。舘はご自由にお使い下さい」
「侑菜も待っておろう。そなたが坂東に居てくれれば、麿も安心じゃ。時々は下野も見て貰いたい」
「畏まりました」
千方が頷く。
天元五年(九百八十二年)に頼忠の娘・遵子は中宮に立てられたが、皇子を生むことは無く、世間からは『素腹の后』と揶揄された。逆に、兼家の娘・詮子は懐仁親王を生んでおり、ますます兼家に有利な情勢と成った。
円融帝に寄って一守に任じられた左大臣・源雅信とも兼家とも連携することが出来なかった頼忠の、関白としての政治力は限定的なものとなり、政治権力も円融帝・頼忠・雅信・兼家の四つに割れる中で政局は停滞し『円融院末、朝政甚乱(甚乱:甚だしく乱れる)」として後々まで伝えられる程であった。
天元五年(九百八十二年)一月十日に円融帝は除目と叙位を行ったが、その際に関白の頼忠には決定のみを蔵人・藤原宣孝に報告させたのみで、実際の決定に参加させなかった。
頼忠は抗議して欠席したが、帝は、雅信に上卿としてその実施を命じて頼忠の抗議を無視した。
四人の意地の張り合いに寄って、政策は右に左に揺れ動き、全く一貫性が無くなって行く。そんな中、満仲は、噂通り、天元六年(九百八十三年)、摂津守に返り咲く。
永観二年(九百八十四年)七月、事態は動いた。相撲節会を懐仁親王に見せたいと望む円融帝からの参内の求めに、兼家は病と称して応じない。尚も帝から使者を送られた為、兼家は已む無く参内した。すると帝は、兼家に意外なことを告げた。
「朕は在位十六年になる。かねがね位を東宮(師貞親王)に譲りたいと思っていた。その後は懐仁を東宮にするつもりだ。朕の心を知らずに不平を持っているようだが、残念だ」
と諭された。この時兼家は、己を恥じるどころか、甚だ喜んだ。帝は摂関家相手の駆け引きに疲れ果てて、遂に親政の夢を捨てたのだ。
約束通り、同年八月に円融帝は師貞親王に位を譲り、懐仁親王が東宮(皇太子)に立てられた。兼家は関白を望むが、関白・頼忠が依然として在任中であり、しかも、朝政は天皇の外伯父として、急に台頭して来た権中納言・藤原義懐が執るようになった。
師貞親王が即位し花山天皇と成ると、亡き伊尹の五男・義懐は蔵人頭に抜擢され、その年のうちに正三位に昇叙された。翌、寛和元年(九百八十五年)には従二位・権中納言に急速に昇進した。
権中納言の官職自体はそれほど高官では無く、直ちに摂政、関白に就任可能な官職では無いものの、嘗ては、義懐の叔父の兼通が帝の伯父として、権中納言から一気に内覧・内大臣に昇進してそのまま関白に就任した例も有る。義懐もまた次の大臣・摂関の有力候補の一人として躍り出て来たのだ。
兼家は、又も歯噛みすることになる。高明追い落としの時には、小聡明く動き回った兼家も、その後は負け続けの人生である。兼通が恐れた策士としての一面はその影も無く、すっかり、負け犬としての評価が定着してしまった。兼家の台頭を期待して寄って来ていた者達も、徐々に離れて行く始末。千方や千常が抱いた兼家への警戒心も、的外れであったかのようである。
花山天皇(師貞親王)は十七歳で即位した。既に伊尹は亡くなっているので、有力な外戚を持たなかった。関白には藤原頼忠が留任となったのだが、実権を握ったのは、帝の外舅・義懐と乳母子の藤原惟成であった。
花山帝は『内劣りの外めでた』などと評される性格の持ち主で、乱心と思える振る舞いも多く、好色で移り気。情緒不安定な面もあった。その一方で、絵画・建築・和歌など多岐に渡る芸術的才能に恵まれ、独特な発想に基づく創造は度々人の意表を突いた。
この時期政治的には、義懐と惟成によって、荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化などの政治改革が行われた。
手が届きそうになっては、その度にするりと兼家の手を抜けて行く権力と言う魔物。兼家は屈辱感に苛まれていた。そんな頃、花山帝が寵愛していた大納言・為光の次女で女御の藤原忯子が妊娠中に死亡した。帝の哀しみ方は尋常では無い。 忯子霊を弔う為に仏門に入るなどと言い出す始末。
「一時の気紛れとは思いますが、お上にも困ったものです」
蔵人を務める三男・道兼が溜め息混じりに兼家に訴えている。
「この不忠者め!」
いきなり一括されて、道兼は驚いた。見ると、このところずっと鬱々としていた父の目が、爛々と輝いている。
「帝の望まれることは、何であろうと叶える為に全力を尽くすのが、臣下としての努めであろう」
と、道兼を叱り付けた。
「はあ、しかし」
帝の気が遷ろいやすいことをよく知る道兼は、突然の兼家の叱責の意味が分からない。
「まだ分からんのか。戯け。懐仁親王様は己の何に当たる」
皇太子・懐仁親王の母・詮子は兼家の三女であり、道兼の妹である。
「はい。……しかし、いくら何でも」
「麿をこのまま終らせるつもりか!」
道兼は父の言葉の意味するところと覚悟を、その目から読み取った。
「分かりました。帝のお望みを叶える為、全力を尽くします」
道兼は大きく息を吐く。
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