第一章 第6話 古能代・若き日の葛藤 Ⅰ

文字数 8,417文字

 その頃、古能代(このしろ)は朝鳥を訪ねていた。
「おお、古能代殿か。いかがじゃな、六郎様は?」
と朝鳥が尋ねる。
「いや、まだ、どうのこうのと言う段階では御座いませぬ。遊びのようなもので御座います」
「そうか…… そのような所では話も出来ぬ。ま、上がられよ」
 土間に立ったままの古能代に朝鳥が言った。
「いえ、吾はここで失礼致します…… 少しお疲れのようなので、それだけお伝えしておこうと思いまして」
 無表情で、何とも愛想がない。
「そう言えば朝餉(あさげ)の時も無口でおられたのう。分かり申した。甘い顔を見せる訳には行かぬが、心しておこう」
 言われてみれば、千方の元気が無い事が少し気に掛かってはいたので、そう答えた。
「では、吾はこれで」
 古能代(このしろ)は頭を下げた。
「そうか…… ご苦労で御座った」
 朝鳥は古能代と一度ゆっくりと話をしたいと思っていたが、何とも取っ付きの悪い男だなと感じた。

 舘からの階段を下りながら、古能代は一度、(さと)の風景を見渡した。見慣れた風景ではあるが、そんな中にも色々と思い起こさせる過去が有る。
 古能代にも生まれ故郷を離れた経験が有った。千方とは違い、もう大人になっていた十七歳の頃、古能代は生まれ育ったこの郷を後にした。一人ではなく、弟の支由威手(しゆいて)それに郷の若者三人も一緒だった。
 古能代を除く四人は、いずれも、秀郷(ひでさと)郎等(ろうとう)になれると心弾(はず)ませていた。だが、古能代の心にはそれとは違った思いがあった。父・祖真紀(そまき)と離れられる。この郷から出られる。それが嬉しかった。幼い頃から父との確執が有り、祖真紀を憎んでいた。父から逃れられさえすれば良かったのだ。

 下野国(しもつけのくに)は九郡、(足利郡(あしかがごおり)安蘇郡(あそごおり)梁田郡(やなたごおり)都賀郡(つがごおり)河内郡(かわちごおり)芳賀郡(はがごおり)那須郡(なすごおり)寒川郡(さむかわごおり)塩谷郡(しおやごおり))より成っている。
 秀郷は当時、安蘇郡・佐野に居を構え、国府の有った都賀郡 《つがごおり》(現・栃木市田村町)にも舘を持って、下野少掾(しもつけのしょうじょう)としてその間を行ったり来たりしていた。
 現在、栃木県佐野市の唐沢山(からさわやま)には、藤原秀郷が築いたとされる唐沢山城跡があり観光名所になっているが、この時代、山城を造る者など居なかった。実際には十五世紀後半の戦国時代に、秀郷の後裔である佐野氏が築いたものと思われる。

 延長八年(九百三十年)。臣籍に生まれた唯一の天皇である醍醐(だいご)天皇が九月二十二日に崩御(ほうぎょ)し、十一月に僅か八歳の朱雀(すざく)天皇が即位した年であり、天皇の伯父である藤原(ふじわらの)忠平(ただひら)摂政(せっしょう)として権力を掌握した年でもある。
 翌、延長九年四月二十六日に承平(じょうへい)と改元され、この五年後の承平五年には、あの承平・天慶(てぎょう)の乱が始まる。

 古能代達は、秀郷の郎等のひとり三輪七郎国時(みわのしちろうくにとき)に連れられて佐野に向かった。だが、案内されたのは、佐野近くの低い山の中に建てられた小屋だった。こんなところも、千方の有様とどこか似ていた。
「ここが、汝等(なんじら)(ねぐら)だ。明日より、盗賊の探索をやって貰う。今日はゆるりと休むが良い」
 そう言い残して国時は帰ってしまった。
「おい、どうゆうことだっぺ。我等は騙されたのか?」
 古能代のひとつ年下の弟、支由威手(しゆいて)が言った。
「何期待しとった。舘に行って郎等の格好をさせて貰えると思っとったのか?」
 古能代は冷静だった。と言うよりも、郷を出られたことに満足していたのだ。郎等に成ることに、さほど期待を持ってはいなかった。
「そういう約束ではねえか。だから(さと)出て来たんだ。秀郷はやっぱり、我等を蝦夷と思うて愚弄しておるんじゃ!」
「何で騙す必要がある。盗賊の探索をする為の人手を出せと言われても、我等、逆らえる立場ではねえっぺ。あんお方、決して甘いお方ではねえと聞いておる。何かお考えがお有りなんだべよ」
 古能代が分かったような事を言っているのに、支由威手(しゆいて)は苛立った。
「兄者は、親父と離れられれば良かんべが、我等はそうは行かね。あんな山ん中で一生過ごし、朽ち果てたくは無かったのよ」
「出られたではねえか、(さと)から」
 古能代はぼそっと言った。
「こことて、同じようなもんだろうが」
 支由威手(しゆいて)(いら)ついている。
「なら、()えれ」
古能代(このしろ)。そう言われても、帰れるものではないと支由威手(しゆいて)も分かっていた。郷の者達の期待が懸かっている。
「秀郷様さ、信じて見るっぺよ」
 威手李裡(いていり)という若者が言った。
「そんだけの働き見せてやるっぺ」
 そう言って支由威手(しゆいて)(なだ)める。

 翌日から、盗賊探索の仕事が始まった。とは言っても戦いに参加する訳では無い。国時がやって来て、その日探索する山を指示する。山中に入り、馬の足跡や奪った荷駄を運んだ(わだち)の跡を探す。焚火(たきび)の跡や人が分け入ったように草がなぎ倒された跡なども手掛かりとする。しかし、一日中山中を探し回っても、何の手掛かりも得られない日も多い。それに、逆に発見されて襲われる危険、賊ばかりでは無く、熊や猪に襲われる危険も有る。しかし、それは、彼等に取っては、むしろ望むところだった。思わぬ所で狩りが出来るかも知れないし、賊とも戦ってみたいという気持ちに心は(はや)っていた。だが、偶然の狩りは兎も角、彼等に命じられていたのは賊の(ねぐら)を探し当てたならば、手を出さず国時に報告することのみだった。
 古能代達の情報に基づき秀郷は兵を繰り出し、群盗討伐の成果を上げて行った。古能代以外の四人には、別の不満も(つの)っていた。

 探索初日のことだ。国時の(もと)に五人が戻って来た時のこと。 
「いやー、なーんにも見つからん。駄目だな今日は」 
 立ったまま支由威手(しゆいて)が国時に言った。 
「吾は殿より(なれ)共の差配を任されている身だ。(しら)せを(もたら)す時は膝を突け」
と国時に言われた。
「はあ~っ? なんて?」
 明らかにムッとして、支由威手(しゆいて)は言葉を返した。
「左膝を突き、右膝を立て右の(こぶし)を地に付けて、まず『申し上げます』と言うのだ。その上で『手前が見て参ったところ、これこれこうで御座いました』と報せを致すのだ」
「何で?」
 支由威手(しゆいて)は挑戦的に応じる。
「殿の郎等に成りたいのではないのか?」
と国時が詰める。
(なれ)の郎等に成りてえ訳ではねぇ」
支由威手(しゆいて)は返す。
 国時は、手に持った(むち)支由威手(しゆいて)を指し、
「上役に仕えることは殿に仕えることと同じだ。そのようなことで殿の御前(おんまえ)に出られるとでも思っておるのか?」
と怒りを表した。支由威手(しゆいて)は、国時を(にら)み付けながら近寄ろうとする。
 その時、「やめねえか!」と古能代が怒鳴った。古能代の制止の声に従い、支由威手はしぶしぶと退いた。
「御差配様に申し上げやす。我等が見て参ったとこでは、何も見つかりませんでした」
 国時に言われた通りの所作を取って、古能代が報告する。
「うむ。左様(さよう)かご苦労であった。…… 『申し上げやす』では無く『申し上げます』だ。分かったか?」
と国時が古能代の言葉遣いの一部をを(たしな)める。
「ああ、分かった」
と古能代が返事したが、
「『ああ』では無い。腹から息を吐きながら『はっ』とひと(こと)申せば良い」
 国時は細かいところまで指摘する。
「はっ」
と古能代は国時の指示の通りに言い直す。
「うんうん、それで良いぞ古能代」
 その後も国時は、言葉使いや所作に付いて、あれこれと口煩(くちうるさ)く言って来た。支由威手(しゆいて)を始めとして四人の若者達は、不満を募らせていた。

 十日ほど経ったある日のこと。国時が引き上げて行った後の小屋で、四人は車座になってああでもないこうでもないと愚痴っていた。古能代は奥まった辺りで、腕枕をして、彼等に背を向けて横になっている。 
 支由威手(しゆいて)が立ち上がって、「良いか、命じられたら『はっ』とひと(こと)返事をし、ただちに言われたことをやれば良い。余計なことは申すな。分かったか」と国時の口真似をし、八の字(ひげ)をよじる仕草をした。
「はっ、御差配様」
と他の三人が声を合わせて返事をした後、皆で大笑いをする。
「けっ! 何が『はっ』だ、空威張りしおって、そのうち思い知らせてやる」
 支由威手(しゆいて)が吐き捨てるように言った。
「どうしてやっぺいか?」
 と他の一人が応じる。
「そうよな…… ?」
 三人は思案顔で支由威手の方を見ている。その時、
「殺すか」
 こちらに寝返りを打った古能代が、向き直って突然そう言った。
「えっ?」
 古能代の言葉を聞いて、三人は思わず我に帰る。
「あ奴ひとりくらい簡単に殺せるだろう。殺して逃げればいい。(さと)には帰らん。いっそ盗賊にでも成るか。面白可笑しく暮らせるではねえか」
 これが、他の誰かが言ったことなら、憂さ晴らしの冗談と取り、皆悪乗りして、
『そりゃいい。どうせなら、京に上って大盗賊になるっぺ』
などと言葉だけで盛り上がるに違いない。しかし、古能代が滅多に軽口など言う男でないのは、皆良く知っていた。古能代の提案に、誰もが背筋が寒くなるのを覚えた。
「…… けんど、兄やん。郷はどうなる? 我等が、あ奴を殺して逃げたら……」
 支由威手が真剣な顔で尋ねる。
「うん? 焼かれんべよ。郷の(もん)達は皆殺しになるかもな」
 古能代は事も無げに答える。
「本気なのか、古能代」
 そう問い(ただ)したのは、古能代と同い年の沙記室(さきむろ)だ。
(なれ)達がその気なら、やる。嫌か?」
 古能代は動じずに答えたが、他の者達は急に怖気(おじけ)づく。
「郷の(もん)達が皆殺しになると言われてはの……」
 出来もしない事を言って盛り上がり不満を解消していた若者達を、古能代は、行き成り現実に引き戻してしまった。そう言う口先だけの盛り上がりを古能代は嫌う。彼らに覚悟を求めた。
「国時に従うのも嫌、殺して逃げるのも嫌。一体、(なれ)達は何がしてえんだ。このまんま郎等の衣装を着させて貰って舘へ連れてって貰えば満足か? 何が出来る?  まともな口も聞けねえ。郎等としての振舞も出来ねえ。笑われるだけでねえか! 笑われるだけならまだいい。我等が蝦夷と知れたらどうなる? (さげす)みの目が待っているだけだ。そうなりゃ、結局反乱するしか有るめえ。蝦夷の反乱なんぞ、昔から数え切れねえほどある。蝦夷なんて結局そんなもんだってことになる。 …… 支由威手(しゆいて)(なれ)、郎等に成りてえと言ったな。郎等に成るってことは、がんじがらめに縛られるってことだ。口の利き方から立居振舞まで縛られるんだよ。それが嫌なら郷へ帰えれ! だが、(なれ)はそれも嫌だと言ったでねえか。(なれ)達は何がしてえんだ。それも考えられねえほど頭ん中、(から)っぽなのか?」
 無口な古能代がこんなにまくし立てることは珍しい。
(なれ)達は考えもしねえことだろうから、もうひとつ教えてやんべ。我等は試されているのよ。使いものになるかどうかをだ。我等が反乱することなど無いと秀郷様が思っていると思うか? そんな甘いお方ではねえ。反乱を起こすことも有ると思っているに違えねえ。そん時、最初に死ぬのは国時だ。そんなことは計算済みだろうし、国時自身も覚悟している。だから、山ん中で我等五人に囲まれていても恐れずに、ずけずけ言って来る。あの男を見縊(みくび)ってはなんねえ。我等の反乱を恐れて五人も六人も監視を付けたりしたら、我等に仕事をさせる意味がねえべよ。だから、あ奴はそん時は死ぬ覚悟をしておる。それが郎等ってもんだ」
 それだけ言うと、古能代は再び寝返りを打って奥を向いた。もう誰も言葉を発する者は居ない。そのうち、それぞれがこそこそと己の寝場所に行き、黙って横に成り、己の心と向かい合って眠れない夜を過ごすことになった。

    
『ひとの定めなどというものは分からぬものだ。あの時、もし皆が賛同していたら、吾は今頃、盗人の頭目であったかも知れぬ。元より、この郷など跡形も無く消えていたことだろう。その数知れぬ恨みを背負って、吾は極悪の(やから)と化していたに違いない。いや、とうの昔に殺されていたかも…… どちらでも良かったのだ。郎等だろうが、盗人だろうが。ただ、不満を言うことだけしか出来ぬ奴らに腹が立っただけだ』
 当時を思い出し、古能代はその頃の己の心を思い起こしながら歩いていた。
「あんれ、今日はもう和子(わこ)様のお相手は終わりかの?」
 畑から戻る者達が声を掛けて来た。
「ああ、吾の仕事はな」
と柔らかい表情で答える。
「ご苦労さんで」
 郷人は軽く頭を下げて通り過ぎて行った。

 翌朝、千方は朝鳥に揺り起こされて目覚めた。生来、目覚めは良い方である。しかし、その朝は深い眠りの中にあった。目覚めると同時に体中に痛みを感じた。あらゆる筋肉が痛い。起きるのが億劫だった。しかし、そうもして居られない。何とか起き上がったが、内腿の筋肉の痛みで普通に歩けない。蟹股(がにまた)気味に歩いて土間に降りようとしたが、それもひと苦労。楊枝(ようじ)を使った後、竹樋(ちくひ)から流れ落ちている水で顔を洗う。
 そこまではまだ良かったが、裏に出て川屋(かわや)(厠)に行き、しゃがもうとしたがしゃがめない。痛みをこらえて脂汗を流しながら、やっとのことで用を足した。
 川屋は溝の上に、真ん中を開けて細い丸太を並べて踏み板代わりにしている。舘に引き込んで流れ落ちる流水を排水口から溝に引き込んでおり、少し先に沈殿させる為の深い穴が掘ってある。(ふん)は塊のまま下の川に流れ落ちるのでは無く、一旦、穴の中に流れ込み、穴の中でふやけて細かく分解されてから、浮き上がって来たものが流れ落ちて行く。紙は貴重品で尻を拭くなど、当時としては有り得ないことであるから、籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる細い木の棒で掻き取り、木の葉で拭く。
 やっとのことで排便を済ませた。腕の擦り傷は、まだ赤身の残る瘡蓋(かさぶた)(おお)われている。一応流水で洗ったが、特に手当などはしていない。瘡蓋(かさぶた)が乾き皮膚から浮き上がって剥せるようになるのを待つだけだ。足裏に竹の小枝を差した時、芹菜(せりな)が大袈裟に手当してくれたが、傷口から毒が入るものなら擦り傷とて変わらないのではないかと思った。そう思うと何か可笑しかったが、芹菜の妙に真剣な素振りは、可笑しいというよりも温かさ、嬉しさとして心に残っていた。

「お体の具合はいかがですかな?」
 舘に戻ると朝鳥が声を掛けて来た。
「うん? …… すこぶる快調だ」
 空元気(からげんき)を見せて千方が答える。
「それは上々。古能代(このしろ)がお待ちしていると思いますので、お支度を急がれた方が宜しいですぞ」
 千方が疲れている事は古能代から聞いていたが、気遣う素振りなど、朝鳥ら見せない。
「分かった。そうしよう」
 千方は声に力を入れてそう答える。相当筋肉痛を起こしていることはすぐに分かったが、千方が弱音を吐かないことが朝鳥には嬉しかった。しかし、その歩き方を見ていると、つい吹き出しそうになるのを朝鳥は(こら)えていた。気付かない振りをして、当然のことのように毎日の日課を千方に(こな)して貰わなければならない。七日から十日も持てば何とかなるだろうと思っていた。

 切り株に腰を降ろして、既に古能代が待っていた。
「済まぬ、遅うなった」
と千方が声を掛ける。
「いえ、左程でも御座いません。では、始めましょうか」
 古能代は普段と変わりなく答えた。右腕は元より体中の筋肉が(きし)んでいたが、それを悟られまいと、千方は自分に鞭打った。そして、後で拾い集めることを考え、前日のように適当に打ち散らすことはやめた。歯を食いしばって痛みに耐えながら引いたが、体が温まって来ると、痛みは嘘のように消えて行った。血行が良くなると鬱血が和らぐ、それで一時的に痛みも和らぐのだが、また体が冷えて来ると痛みも戻る。

 朝の弓の稽古が終わると、朝餉(あさげ)を済ませ、乗馬の稽古となる。日毎に丸太は少しずつ吊り上げられてその高さを増して行った。それに連れて、落ち方も変わって来る。最初は横に落ちていたものが、高さが増すと共に頭から落ちるようになる。頭を(かば)わなければならない訳だが、掌を着いたり肘を曲げたりすると、脱臼や骨折といった大怪我に繋がる。手を伸ばして耳の脇から頭上に伸ばし、親指を内側に向けて開いた掌の下の手首のみを内側に曲げると、肘は曲がらず腕の外側全体が弓のような湾曲を作る。このようにした腕は着地の衝撃で曲がるようなことは無く、頭を(かば)い腕の外側から背中にかけての線を輪のようにして地上で回転することが出来、落馬の衝撃を緩和することが出来るのだ。古能代は、この、言わば”受け身”を千方に徹底的に叩き込んだ。千方も『分かっておる』などとは二度と言わなかった。

 朝鳥との太刀打ちの稽古にも変化が生まれていた。千方の口から『もう良い』と言う言葉が出なくなったのだ。どんなにへとへとになっていても、千方はやめようとしない。これは朝鳥に取っては嬉しい反面きついことでもあった。いかに剛の者とは言え、朝鳥はもう五十の半ばを超しているのだ。体力的には落ちている。それに引き換え千方の方は、諦めないことに寄って日に日に体力を付けて行く。 
「今日はこの辺に致しておきましょう」
 息切れしてみっともないところを見せる前に、朝鳥からそう言い出さざるを得なくなって来ていた。ひと月が過ぎる頃には、千方は木馬を卒業し、例の村を半周する周回路で古能代に着いて早足で馬を駆けさせる程になっていた。

 弓についても筋肉痛の地獄を乗り越え、矢の行方が徐々に安定して来ている。千方は稀に見る質の良い筋肉の持ち主であった。それに加えて、甘やかされた環境で眠っていた負けん気が目を覚ましつつあった。それらが相乗効果を発揮し、朝鳥ばかりか古能代までもが内心舌を巻くほどの上達振りを千方は見せていたのだ。
 三月(みつき)目も半ばになると、明らかに千方の外見に変化が認められるようになっていた。腕や胸の筋肉が付き、色白だっただけに日焼けも早く、郷の(わらべ)達よりもむしろ黒いほどになっていた。背も少し伸びたようだ。

 そんな或る日、いつものように切り替えしの面打ちに来る朝鳥の左面打ちを頭の横で受けず、千方は、左足を退きながら自分の正中線沿いに真直ぐに打ち下ろした。結果、朝鳥の体勢は右に崩れ、千方の棒に抑え込まれた切っ先は外側に向くことになる。比べて千方の棒は、(へそ)の前から真直ぐ前に伸びており、右足に体重を掛け少し体を右に捻りそのまま突き込んだ。思わず仰反(のけぞ)った朝鳥だったが、千方の棒の切っ先はそれ以上伸びて来ず、胸の前でぴたりと止まっていた。
「お見事。…… 負け申した」
 初めて朝鳥が千方を褒め、負けを認めた。しかし、これで千方の実力が朝鳥を上回ったという訳ではない。切り替えしによる連続面打ちは、千方の持久力を付けさせるため、半ば機械的に繰り返していた攻撃であり、真剣に打ち据えようとしてのものではない。単に千方が少し成長し、一歩、朝鳥に近付いたと言うに過ぎないのだ。かつての、古能代と祖真紀の狂気じみた稽古には比べようも無いが、それからの千方と朝鳥の稽古は、より実践的な緊張感を増して行くことになった。

 小雨くらいでは稽古が休みとなることは無いが、大雨の日は休みとなった。そこで舘の中で矢作りの作業を教わり、千方は、自ら自分の矢を作るようになっていった。大雨の日は千方の疲労した筋肉に取っては格好の休息の日ともなった。しかし、小雨の日の稽古の後は十分な注意が必要だった。急いで舘に戻るとすぐに衣類を全て脱ぎ捨て、乾いた布で体中を擦る。この時代、風邪をひくことは命に係わることだったのだ。

 季節は既に梅雨を迎えていた。芹菜(せりな)のことに関しては何の進展も無い。千方は、表の階段を使うよりも裏の急な斜面を登り降りする方が鍛錬になるなどと理屈を付けて舘の裏へ回るのだが、そこにいつも芹菜が居る訳ではない。例え居たとしても、ちらっと見て通り過ぎるだけで、他の女達は声を掛けて来るが、当の芹菜は全く反応して来ない。そこで千方は、なんやかやと言っては犬丸を呼び出す。
 幸いと言うか、この時点で千方は犬丸以外の童達とはほとんど接点を持っていない。その気さくな性格もあって、犬丸は千方がこの郷に来て得た初めての友となった。しかし、千方の心の中では、芹菜のことで犬丸を利用しているという後ろめたさが付き纏っていたが、芹菜に近付くことに犬丸が役に立ったかと言うと、実際には、それはほとんど無かった。

 風の日には、古能代は、風に直角に矢を射ることも千方に求めた。風に寄って矢がどのくらい流されるかを、身を以て覚えさせる為だ。
 乗馬に於いては、千方の前を行く古能代の馬の速度は徐々に早くなり、しまいには全速力で馬を飛ばすのだが、そうなるとさすがに千方の馬との距離は見る見る離れて行く。だがそれは、馬の差ではない。千方は、武蔵から乗って来た小振りな馬では無く、既に大馬(たいば)を乗りこなしている。これは驚くべき進歩なのだが、古能代との腕の差は比すべくも無い。

 先に広場に戻った古能代は、馬から飛び降り、千方が戻って来るのを待っていた。しかし、まさか秀郷の子に馬や弓を教えることになろうとは、若き日の古能代は想像もしていなかった。結局、盗賊にも成らなかったし、郎等にも成らなかった。
『もし、あの出来事が無かったなら、郷に戻ることも無かったろう』と思う。

 
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