第七章 第11話 不意の客

文字数 4,326文字

 葬儀を終えて、郎等達、下野藤原(しもつけふじわら)に繋がる土豪達が寄っている。後嗣(こうし)として葬儀を取り仕切ったのは千方である。その席で千方は、千常(ちつね)の遺命に寄り当主の座に就くことを宣し、同時に一年間、喪に服すことを触れた。
 千方が当主の座に就くことに対する異議は何処からも出なかったが、同時に千方は、自分の跡を継ぐのは文脩(ふみなが)であることを明言した。当主の座は自分の子には継がせず、千常の実子に返すと名言したのだ。

 妻子共々、千方は小山(おやま)に拠点を移し、文脩(ふみなが)とその家族は佐野に移った。
 そして、一年が経ち、喪が明けると共に、千方は、秀郷(ひでさと)千常(ちつね)と引き継がれて来た下野(しもつけの)押領使(おうりょうし)にも任じられる。押領使は私的武力を用いて治安の維持に当たる令外官(りょうげのかん)であるが、秀郷以来、下野藤原家当主に世襲されて来たもので、その権力の裏付けとなって来た職である。特に朝廷から横槍が入ることも無く、押領使と成ることに寄って、千方は下野藤原の武力を掌握した。

 その後、数年は何事も無く過ぎた。永観三年(九百八十五年)になって、都で些細な私的人事が有った。摂津守(せっつのかみ)に復帰していた満仲が、官職そのままに兼家の家司(けいし)と成ったのだ。但し、満仲は当面、摂津(せっつ)に残り、私領の経営に当たりながら右大臣家の家司(けいし)としての権限を行使することを許された。 
 家司(けいし)とは、親王(しんのう)家・内親王(ないしんのう)家および職事(しきじ)三位(さんみ)以上の公卿(くぎょう)などの家に設置された、家政を(つかさど)る職である。本来は律令制で定められた職員であったが、平安時代中期以後は公家(くげ)官人(つかさびと)地下(ぢげ)の中から私的に任用され、国政機関の職員が権門(けんもん)の私的な家政職員である家司(けいし)を兼ねるようになっていたのだ。
 家司(けいし)となると、身は都に()りながら、遥任(ようにん)として地方の受領(ずりょう)を掛け持ち出来る。身内などを目代(もくだい)としてその地に送り、上がりのみを(ふところ)に入れることが出来るのだ。公卿(くぎょう)達も、自分の私的使用人の給与を、己の(ふところ)を痛めること無く、官職に伴う収入で(まかな)ってしまう。

 その満仲が、事もあろうに下野守(しもつけのかみ)に任じられた。勿論、摂津守(せっつのかみ)との兼任であり遥任(ようにん)であるから、本人が赴任して来ることは無い。武蔵守(むさしのかみ)・満政が離任し、やれやれと思っていたところだ。関心は、誰が目代として赴任して来るかであった。満仲の目代(もくだい)は、予想外の満季の郎等・鏑木当麻(かぶらぎとうま)と言う男だった。
「なぜ満仲は、自らの身内や郎等で無く、満季(みつすえ)の郎等を送って来たので御座いましょうか」
 小山武規(こやまたけのり)が尋ねる。
「恐らく、満季に頼まれたのであろう。あの男、兄以上に麿を恨んでおろうからな」
()めおって、目代(もくだい)とは言え、郎等ごときがこの下野藤原(しもつけふじわら)に何か出来ると思っておるのか」
 武規(たけのり)は鼻から荒い息を吐きながら(いきどお)った。
「どう出て来るか。まずは、様子見で御座いますな」
 智通(ともみち)は、そう言った。

 目代(もくだい)鏑木当麻(かぶらぎとうま)は、当面、露骨な嫌がらせをして来ることは無かった。ただ、何か交渉事があっても、聞くだけ聞いて、
国守(くにのかみ)様に確認する」
と言って、後は(なし)(つぶて)、いつまで待っても返事は返って来ない。嫌がらせと言えば、それも嫌がらせなのだろう。しかし、国守は満仲なのだから、千方から直接問い合わせる訳にも行かない。それに、当麻(とうま)が満仲の意を受けて動いているのか、満季(みつすえ)の意を受けて動いているのかも分からない。やり難いには違い無いが、国府と決定的に対立し、(さわ)りが出ると言う程では無かった。

 那須(なす)の奥地の(さと)に出掛けた帰りに、千方らは崖崩れに遭遇し危うく命拾いをした。現場を調べた武規(たけのり)智通(ともみち)の二人からの報告は、人為的に起こされた可能性が有ると言うものだったが、誰の仕業(しわざ)か何の証拠も無かった。
 弓で狙われたことが有った。運良く矢を避けて賊を追跡したが、追い着いた時には、賊は国府の兵に寄って斬り捨てられていた。それらの出来事が鏑木当麻(かぶらぎとうま)(めい)に寄って行われたことで、後ろには、満仲若しくは満季が居るという事は十分に推測出来た。
 
 家司(けいし)と成るよう兼家から話が有った時、最初、満仲は辞退していた。摂津(せっつ)の私領の経営に専念したかったのだ。
 結局受けたのには、二つの理由が有った。ひとつには、当面、摂津に留まる事を兼家が認めたことであり、ふたつ目の理由は、満季(みつすえ)からの懇願が有ったことだ。
 満仲が、遙任(ようにん)として下野守(しもつけのかみ)を兼務する内示を受けていることを聞くと、満季は、
「兄者、その話、是非受けて欲しい。その上で、我が郎等を兄者の郎等として目代(もくだい)に任じて欲しいのじゃ。もちろん上がりは全て兄者に渡す。欲から申していることでは無い」
と必死に頼み込んで来た。満仲はじっと満季を見た。
「狙いは千方か?」
と尋ねる。
「そうとも」
 満季は意気込んでそう答える。
「あのような者放って置け。もはや我等の敵では無い。既に都での居場所を失った者ではないか」
 満仲はそう言って、満季の意気込みをいなした。
「あ奴には、郎等(ろうとう)四人を含め、手の者十五人もが殺されているのだぞ。何十年()とうが忘れられるものか。奴が修理亮(しゅりのすけ)の時は、官人(つかさびと)に手を出す訳にも行かんので、悔しい思いをして来たのだ」
 そう言われると満仲も言い返せない。その十五名は、満仲の都合で武蔵(むさし)に呼んだ者達だったのだから負い目が有る。満仲の満季に対する唯一の弱みである。

 満仲は、満季の想いを、隠さずに兼家に伝えた。
「ふふ、面白いではないか。満季の好きなようにやらせてみよ。但し、面倒は麿の(もと)に持ち込むなよ」
 兼家も、下野藤原(しもつけふじわら)を叩く事には乗り気なのだ。
「はっ。御前(ごぜん)のご迷惑になるようなことは決してさせません」
 公卿(くぎょう)達が尤も拘るひと(こと)を、満仲は忘れず兼家に伝える。
「うん。面倒が有ればその方が何とかせよ。良いな」
と。兼家は念押しする。
「ははっ」
 この返事も、心の底から湧き出る言葉のように伝える必要があった。


 満季(みつすえ)鏑木当麻(かぶらぎとうま)共々満仲に呼ばれている。
「鏑木。本日より役目終わるまで、麿の郎等として下野守(しもつけのかみ)目代(もくだい)を務めよ」
 満仲は重々しく、そう言った。
「ははっ」
 (あらかじ)め満季から言われていた事なので、鏑木(かぶらぎ)は型通り受ける。
「相手は仮にも押領使(おうりょうし)だ。国衙(こくが)の兵がそれと争うようなことが有ってはならん」
「はっ」
 そう返事しながら、満季はもっと荒っぽい対応を望んでいる(はず)だと、鏑木(かぶらぎ)は思った。
「仕掛ける時は、絶対に証拠は残すな。無理な時は諦めよ。これらのこと守れぬ時は、責めは己一人で負うことになる。良いな」
『なんだ、責任が降り掛かって来る事を避けたいだけなのか。満仲も案外大した男ではないな』と鏑木(かぶらぎ)は思った。
「ははっ。(きも)に命じまして」
「三郎。無理なことを命じてはならぬぞ。良いな」
 同席していた満季にも、満仲は念を押す。
「分かっております。決して、兄者や御前に迷惑は掛けん」
と神妙に答えているが、本音ではあるまいと思った。
「その言葉忘れるな」
 満仲は本気で揉め事となる事を恐れているのでは無い。責任を取りたく無いだけなのだと鏑木は思う。 

 その後満仲は、下野(しもつけ)のことは満季(みつすえ)に任せ、摂津守(せっつのかみ)の任をこなしながら、多田荘(ただのしょう)の開発に力を入れていた。郎等の数も増え、その中から有力な人材も育ちつつあった。

 そんな折、右大臣・兼家から呼び出しが掛かったのが、寛和二年六月のことである。さすがの満仲も、事を終えた後、重苦しい想いを抱きながら日々を過ごしていた。何しろ、(みかど)を騙すようにして退位させる片棒を担いだのだ。兼家の、そして藤原摂関家の恐ろしさを改めて感じた。

 高明(たかあきら)()めたのとは訳が違う。皇孫である身がこんなことまでやってしまって良かったのか。天罰が下ることは無いのか。そう考えると恐ろしさに眠れぬ夜さえ有った。だが、そんな気配を他人に悟られることは決して無かった。周りから見た満仲は、相変わらずふてぶてしく自信に満ちていた。

 花山(かざん)帝を出家させる策が成功し、懐仁(やすひと)親王が即位した。数えで七歳の一条天皇である。
 兼家は帝の外戚(がいせき)となり摂政(せっしょう)藤氏(とうし)氏長者(うじのちょうじゃ)と成った。
 (みかど)の外祖父が摂政(せっしょう)に就任するのは、人臣(じんしん)最初の摂政と成った藤原良房(ふじわらのよしふさ)(清和天皇の外祖父)以来であった。ところが、当時右大臣であった兼家の上には、(さきの)関白である太政大臣(だじょうだいじん)・頼忠と左大臣の源雅信(みなもとのまさのぶ)がいた。特に雅信は円融(えんゆう)帝の時代から一上(いちのかみ)の職務を務め、法皇(ほうおう)と成っていた円融の信頼を背景に太政官に大きな影響力を持っていた。頼忠も雅信も皇位継承可能な有力皇族との外戚関係が無かった為に、兼家に取って邪魔な存在ではあっても、その根拠が無い為、逆に謀叛の罪を着せて排斥することが出来なかった。
 そこで兼家は、この年に従一位・准三宮(じゅさんぐう)の待遇を受けるよう自ら工作し、それと共に右大臣を辞したのだ。初めて前職大臣身分(大臣を兼務しない)の摂政と成った。太政大臣、左大臣に次ぐ三番目の官職である右大臣を()えて捨てたのだ。右大臣を辞した兼家は頼忠・雅信(まさのぶ)の下僚の地位を脱却し、准三宮(じゅさんぐう)、即ち太皇太后宮(たいこうたいごうのみや)皇太后宮(こうたいごうのみや)皇后宮(こうごうのみや)の三宮に準じた待遇を受ける者として、他の全ての人臣(じんしん)よりも上位に立つことが出来たと言う訳だ。

 実権を握った兼家は、満仲を都に呼び寄せ、家司(けいし)としての職務を行わせることとした。差し詰め、家司(けいし)兼用心棒といった処だ。既に、多田荘(ただのしょう)の仕切りを任せられる郎等は育っていた。 

 満仲が兼家邸で家司(けいし)を務めるようになった或る日、兼家の従者(ずさ)のひとりが、首を捻りながら話し掛けて来た。
家司(けいし)の殿に申し上げます。只今、門前に妙な老僧が来ておりまして、家司(けいし)の殿にお目に掛かりたいと申しております」
「老僧? はて、誰であろうか」
 満仲には全く心当たりが無かった。
「出家前の俗名、西院(さいいん)小藤太(ことうた)と申せば分かると申しております」
「西院の…… 小藤太」
 満仲がぎろりと目を剥いた。西院とは寺院の名だが、高明(たかあきら)邸の()った地名でもある。そして、“小藤太”とは高明が千晴を呼ぶ時の呼び名であった。
「連れは何人おる?」
 千晴に恨まれている事は当然である。自分を呼び出してどうしようとしているのかと考えた。
「いえ、連れなどおりません。本人のみです」
 腕を組み、満仲は暫し瞑目(めいもく)していた。
「西に有る寺の境内にて待てと伝えよ。その(のち)、戻る振りをして気取(けど)られぬよう跡をつけろ。そして、いっときほど様子を見てから報せに戻るのだ。誰かと繋ぎを取らぬか注意して見張れ。良いな」 
と念入りに申し付ける。
(かしこ)まりました」
「それと、このこと、くれぐれも他言無用じゃ」
「委細承知致しました」
 従者が出て行くと、今度は満仲が腕組みをして、首を捻った。

参考
*下野国の国司
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%87%8E%E5%9B%BD

→『人物』→『国守』

源満仲(985年〈永観3年〉頃)下野守に就任〔尊卑分脈〕

平維衡(998年〈長徳4年〉~1006年〈寛弘3年〉) 〔日本外史〕現地には赴任せず
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