第六章 第1話 逆転
文字数 3,800文字
天禄三年(九百七十二年)、伊尹は危篤になり、十月二十一日に辞意を示す上表を行った。
伊尹の家司からの使いが、兼通、兼家両者の舘にそれを知らせる。兄の容体がそんなに悪いのかと言う心配よりも、この二人の頭を過ったのは、どうも、権力への誘惑の方だったらしい。
この年の二月二十九日、兼通は、伊尹の計らいで、漸く参議から権中納言にその地位を進めていた。
『兄上には申し訳無いが、天は遂に麿に微笑んだ。今こそ、憎っくき兼家めを叩きのめす時。弟の分際で麿を見下して来た付けを払わせてやる』
兼通はそう思った。そして、この兼通の自信には裏付けがあった。
翌日、参内すると、案の定兼家も来ていた。顔を合わせぬようにして、素早く帝に拝謁を求める。しかし、兼家も来ていると思うと気忙しく、取り次ぎも待たず清涼殿へと進んで行った。
清涼殿は帝が日常生活を送る建物である。その西南の隅、すなわち裏鬼門の位置に『鬼の間』と呼ばれる部屋がある。大和絵師・飛鳥部常則が康保元年(九百六十四年)、この間に鬼を退治する白澤王像を描いたとされ、その名が有る。この鬼の間に居た円融天皇は、平素から疎んじていた兼通の姿を見ると別の間へ移ろうとした。すると、
「お上、お持ちを」
と兼通から声を掛けられた。
『案内も無く無礼であろう』
そう言いたかった。だが、今でこそ帝の身に在ると言っても、父母とも亡くした帝は、つい数年前まで守平親王として兼通の庇護の許にあったのである。だが、この男を好きには成れなかった。十三歳の帝は他の部屋に移ろうとした。
「奏上したきことが御座います」
兼通は威圧的な声でそう言上し、帝をその座に留まらせた。そこに兼家がやって来た。正月二十四日に権大納言、閏二月二十九日に大納言に転じていた兼家は、
「権中納言、何をしておる」
と、兄である兼通に、官職を笠に着て、こちらも威圧的に迫る。
「帝に奏上したきことが有って参ったのじゃ。余計な口は出すな」
兼通は兼通で、兼家の大納言と言う役職を無視して、弟に対する物言いである。
「無礼な!」
兼家が剥きになる。
帝である自分の目の前で、恐れも畏怖の欠片も無い二人の態度に帝が怒りの言葉を発した。
「やめよ!」
さすがの二人も、若年の帝の言葉にハッとして我に返り、恐れ入った。
「申すが良い」
着座し直した帝が言葉を発した。
「それでは、まず、大納言たる臣から申し上げます」
兼通に先を越されてなるものかとばかり、兼家が先に口を切った。
「摂政たる兄・伊尹が、病の為致仕致しこと、お上にはさぞかしお心細くお思し召されてと拝察致します。なれど、お心易く在られかし。かねてより、兄・伊尹より帝のこと、命に代えてお仕え申すべしと言い遣っておりますゆえ、臣・兼家、身命を賭してお支え申す所存に御座います」
さっきまでの態度はどこへやら、殊更恭しく申し述べる。
「関白の任に就きたいと申すか」
帝は天禄三年(九百七十二年)一月三日に元服を済ませていたが、その直後に伊尹が在職一年余りで薨去することになる。伊尹が存命ならば、摂政から関白に、その名乗りを変えようとする矢先だった。
「御意」
と思惑を隠さない。そこへ、
「お待ちを!」
と兼通が声を上げた。
帝の玉座である御椅子の隣に文杖と言う物が置いてある。帝に直接手紙を渡すのは畏れ多いと言うことで、そこに置くしきたりとなっているのだ。今更、畏れ多いも無いと思うが、兼通は、懐から大事そうに取り出した一通の文を恭しく文杖の上に置いた。ひと呼吸置いて、帝がそれを手に取る。
「亡き太皇太后様の御親筆に御座います」
帝が文を広げるのを待って、兼通がそう言上した。
文には『将来、摂関たること有れば、必ず兄弟の順序に従うべし』と書かれている。『摂関を決める時は兄を先に』と言うことである。
円融帝の母であり伊尹、兼通の妹である安子の生前に、将来のことを考えた兼通が頼んで書いて貰ったものであると言われている。
帝はそれを黙読した。それが真に母の手になるものであるとすれば、長兄・伊尹の次は、次兄・兼通をと言うのが亡き母の遺志であると言える。母の弟である兼家を先と言う訳には行かない。しかし、安子が崩御した時、円融帝は六歳だったのだ。その文が母・安子の親筆かどうか判断することは出来ない。
「何と書かれておるので御座いましょう」
兼家が尋ねた。
これも至って無礼な言い方である。帝が『見よ』とでも言えば別だが、その素振りも無いのに言うべきことでは無い。
「追って沙汰致す」
と帝が結論を下した。兼家も流石に言い返すことは出来ない。
「ははっ」
と兼通が大仰に返事をして、腰を屈めたまま後退りして退室する。
「大儀」
帝が尚退がらない兼家にひと言発した。
『もう良いから、その方も下がれ』と言う意味である。仕方無く、兼家も礼をして下がる。
帝は、姉の資子内親王と藤原登子を召した。
「兼通が生前の母上から賜ったと申しておる文である。登子。そちは妹ゆえ母上の手になるものかどうか分かるであろう」
「拝読させて頂きます」
登子は、安子の手紙と言われるものを恭しく帝から受け取る。
「太皇太后様のお手に依る文に間違い無いと思われます」
文を読んだ後、そう答えた。
「そうか。朕は十三歳ゆえ、元服したとは言えまだ政は行えぬ。やはり、関白は置かねばならぬのであろうのう」
帝は切なげにそう言った。
「暫しのご辛抱に御座います」
登子がそう宥める。
「だが、伯父君・朱雀の帝の御世では、元服後も忠平がずっと関白として政を行っていたのであろう」
帝は、自分が飾り物にされ、成人した後も何も出来ない状態に置かれるのではないかと案じていた。
「帝。そのようにお考えになられるのはおやめ下さい。摂関をお決めになるのは帝に御座います。御威光をお示しなされませ」
姉である資子内親王がそう励ます。
「威光を示せとは?」
と帝が尋ねる。
「兼通や兼家がどう申したかに囚われること無く、帝としての筋を通されるのです。帝が従われるべき御方は、父帝と太皇太后様を置いては他に御座いません」
姉・資子内親王が答える。
「母上の御遺命に従うと言うことですか、姉上」
「それ以外に御座いますまい。臣下の誰がどう申したかに帝が惑わされてはなりませぬ。なれど、母君の御遺命に従われるのであれば、子として麗しきことに御座ります」
「長幼の序に従うべしと言うのが母上の御遺命であるとすれば、兄・為平親王を差し置いて立太子された朕は、それに背いたことになるのではないか?」
と、帝が懸念を示す。矢張り、心に重く伸し掛かっていることなのである。
「帝。そのようにお考えになってはなりません。母上の御遺命は、飽くまで摂関に付いてのことに御座います。帝の立太子は、父君・先帝の御遺命に因って決められたことに御座います」
姉の言葉に帝は、
「じゃが姉上、それを聞いたのは実頼一人とのことではないか」
と、ある意味触れてはならない事を持ち出した。
「今更詮索しても詮無いこと。先のことをお考えなさりませ」
資子内親王は困惑しながら言った。
「申し上げたきことが御座います」
そう口を開いたのは登子である。
「二人とも我が兄弟に御座りますれば、帝の御心を煩わせしこと、真に申し訳無く思うております。僭越ながらお願いしたき儀が御座います」
「何か?」
と帝が登子を見る。
「関白を置くことは已む無きと存じますが、政は任せるとしても、亡き太皇太后様に代わって、奥から帝をお支えする方が必要と思います。関白に任じる条件として、兄・兼通に、資子内親王様を准三后とすることを約束させて下さいませ。我が兄弟ながら、あの二人の仲の悪さは恥ずかしき限り。まるで、前世では仇同士であったものを、天の手違いで、兄弟として再びこの世に送り出してしまったのではないかと思える程で御座います。いつ何時再び争いを繰り広げぬものとも思えませぬ。禍が帝の御身に及ばぬようお護りするべき方は欠かせぬと思われます」
「年若きこの身に、そのような大役が務まるであろうか」
資子内親王は不安げに答える。
「内親王様。お立場で御座います。お立場は即ち権威。権威が有れば、お若くともそのお言葉の持つ力は増します」
資子内親王が頷く。
「分かりました。それが帝の御為になるのであれば、力を尽くしましょう」
「姉上。宜しく頼み参らせる」
かくして、兼通の関白宣下の方針が決せられた。十一月一日、伊尹が薨じると、二十七日、兼通を内大臣に任じる詔が発せられ、内覧を許し、関白宣下がなされた。守平親王の立太子に際しては、大逆転の勝ち組であった兼家は、兼通の秘策により破れた。前回の大逆転が、摂関家の他氏排斥であったのに対し、今回の大逆転は、摂関家内部の勢力争いである。
この結果に落胆した兼家は、ふて腐れて出仕を怠るようになる。兼家に取って初めての冬の時代が訪れた。
兼家の敗北は、満仲に取っても大打撃であった。満仲の行動規範からすれば、負け犬となった兼家を見限って、さっさと兼通に乗り換えそうなものだが、この度ばかりは違った。嘗て、高明邸の庭で兼通に受けた屈辱を満仲は忘れていなかったし、千常と千方に屈服し、飛んでもない条件で和議を結んだ兼通を許せなかった。計算ずくだけで生きているように見える満仲にも、そんな部分が残っていたのだ。
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