第七章 第10話 千常の死

文字数 4,420文字

 川底を(さら)って、底に溜まった土砂や塵を取り去る作事は、冬の渇水期に行った。少ない流れを一定距離ごとに縦に区切り、流れの無い部分の底を掘り下げる。終わったら掘り下げた側に水を導き、反対側を掘る。そして、同じようにして次の区間を掘る。
 洪水の原因のひとつは、川底が浅くなって直ぐに溢れてしまうことであるから、これで又、洪水の危険を少し減らすことが出来る。夏場に行った、川のきつい湾曲を是正する工事の際、古い流路を埋め戻す作業を行ったが、新しく掘った水路から出た土だけでは、古い水路を埋め戻すことは出来ない。直線より湾曲の方が、距離が長いから、それは当然のことである。
 足りない土は、耕作には適さない荒れ地の小山を崩して運んだ。そして、埋め戻す際に小石を取り除き、その土に堆肥(たいひ)を混ぜて埋め戻すことを考え付いた。それで、荒れ地から運んだ土も、耕作可能な土に変わる。確かに手間の掛かる作業ではあるが、後々のことを考えれば有益な作業である。

 豊地が来ている。
「松原の件だが……」
 このところいつも来ている直垂(ひたたれ)姿の千方が語り掛ける。
「はい」
「やはり、言うほど簡単でも、良いことずくめでも無さそうだな」
と、千方は苦笑いした。
「と言われますと?」
 豊地が千方の顔を覗き込むように見る。
「まず、種を撒いてちゃんとした苗にする迄に数年は掛かる。植えるとすれば赤松だが、植える地質に問題は無い。だが、最初から密集させると育たぬそうじゃ。根を張るのに十分な間隔を開けてやらねばならぬと言う。又、苗は西陽に弱いそうだから、日除(ひよ)けが必要になる。落ち葉や下草は小まめに取り除かねばならぬ。それは問題無かろう。虫にやられてしまうことが多いので、冬に根元に(こも)を巻いて置く。すると、虫がそこに卵を産み付けるので、春先に外して焼いてしまう必要が有ると言うことじや」
 頷いた豊地が
「良うお調べになりましたな」
と言うと
「なに、この程度のことは、古老に聞けば直ぐに分かる。だが、残念なのは、食糧としては期待出来ぬと言うことじゃ」
「と申されますと?」
「赤松の実は弾けて飛散してしまうらしく、食うほどの量は残らぬらしい。又、(きのこ)が着くようになる迄には二十~三十年掛かるらしく、麿達が生きているうちには無理だな。それも、里山なら兎も角、あのような場所で着くかどうか分からぬと言う。まあ、防風林としては役に立つので、ぼちぼちやるとするか」
「左様で御座いますな。飢饉の時には、いざとなれば、木の皮を剥がして煮て食うことも出来ましょう」
(やに)が多くて食えぬそうだ。ま、そんなことにはならぬようにするのが、麿の務めじゃ」
(おそ)れ入ります。正直、どうしたら年貢を安く出来るかと言うことくらいしか考えておりませんでした」
「なに、そなたの立場であれば無理も無い。人手を残すよう、武蔵守(むさしのかみ)に掛け合うことも出来ぬからな」
「はあ」
「豊地。民の苦痛を和らげる為には、豊かにならねばならぬ。他にも、養蚕(ようさん)機織(はたお)りも、もっと盛んにしたいと思っておる。上野(こうづけ)下野(しもつけ)に及ばぬからな」
「お言葉ながら、武蔵(むさし)はその分、食糧生産に当てられる適地が多いと言うことでは?」
「確かに食糧は大事だ。だから、まずそれを満たさねばならぬことは当然だ。だが、そこで終わってしまっては豊かにはなれぬ。あしぎぬの生産量を増やすことは大事なのだ。あしぎぬは、何とでも替えることが出来る。年貢(ねんぐ)として納められる。贈り物としても使えるし、郎等達の扶持(ふち)としても与えられる。つまり、何にでも替えられる万能の品。それを多く持つことは、すなわち、力を持つと言うことじゃ。桑畑として使えそうな土地の目星は付けてある。人手が足りなければ浮浪人を入れれば良い」

 朝廷は貨幣の普及に失敗していた。基本的には物々交換社会が持続しており、交換の仲介に貨幣代わりに使われていたのが、太くて粗い糸で織られた絹織物、(すなわ)ちあしぎぬである。(ちな)みに、貴族や上流の女達の衣装は、殆ど大陸から輸入した絹糸で織られている。輸入の対価としては、主に銅が使われていた。或いは貴族達も普段着にはあしぎぬを用いていたかも知れない。庶民の衣類は麻が多く用いられており、あしぎぬも用いられた。木綿は、国内栽培が上手く行かず輸入品の為、逆に高価であった。
「しかし、国司に目を付けられるでしょうな」
 千方の考えに関心しながらも、豊地は、実行の難しさを案じる。豊地(とよち)らしい言い方だなと千方は思った。
「だからと言って、摂関家の袖に隠れようなどとは思わんぞ。受領(ずりょう)からの貢物(みつぎもの)として受け取るか、荘園からの上がりとして取るかの違いだけで、いずれ一部は、摂関家を始めとした公卿(くぎょう)達の(ふところ)に入って行くことに変わりは無い。それが全国から集まるのだ。国中の者達が、奴等(やつら)の贅沢の為に働いていると言っても良い。どちらに転んでも、あの者達は損をせぬようになっているのだ」
 事実上、摂関家によって官職を干された千方の怒りが、言葉の端々に感じられた。
「殿! ちとお言葉が……」
 豊地が注意を促す。
「誰も聞いてはおらん。心配するな」
 千方は気にもしていない。
(さきの)相模介(さがみのすけ)(千晴)様の受難をお忘れ無く。同席した者の放言が元で捕らえられましたのですぞ」
 安和(あんな)の変によって下野藤原(しもつけふじわら)は大きな打撃を受けたのだ。千方にはもっと慎重であって欲しいと、豊地は思う。
「昔から良く説教されたな。だがな、我等は(つわもの)じゃ。受領(ずりょう)の言う成りにもならんし、摂関家の前にひれ伏すこともせんと申しておるのじゃ。亡き父上が昔申された。我等の力は未だ蟷螂(とうろう)(おの)だ。力を付けるまでは、利用出来るものは何でも利用しろとな。だが、今の我等は利用するどころか利用されているだけだ。多くの(つわもの)らが摂関家(せっかんけ)の誰かを私君(しくん)として仰いでいる有り様では、百年掛かるか二百年掛かるか。(つわもの)の未来など無い」
 珍しく千方は苛立っていた。
「お気持ちはお察し致します。気晴らしに遠乗りにでも出掛けませんか?」
 豊地は、気晴らしになればと、千方を野駆けに誘った。
「済まぬ。気を遣わせたようだ。そうだな。久し振りに馬を飛ばすとするか」
 そう言った千方は、もう立ち上がっていた。

 千方は次々と新たな考えを打ち出し、草原(かやはら)を豊かにする為の施策を実行して行った。時に国府と対立することも有ったが、一歩も引かず武蔵守・源満政と交渉し、成果を上げた。千方と民の関係も、他の地域とは全く違う形態となっていた。貴人が通る時には、庶民は道を避け、頭を地に付けて通り過ぎるのを待たなければならない時代である。そんな中で千方は、共に汗を流すことに寄って、庶民達とより近い関係を築いたのだ。

 三年が経った。永観元年(九百八十三年)六月半ば、都からの早馬が飛び込んで来た。
 千常(ちつね)の急死を知らせるものであった。半月ほど前の早朝突然倒れ、三日後に息を引き取ったと言う。享年六十七歳であった。
「直ぐに下野(しもつけ)へ。侑菜(ゆな)殿、支度を」
 何事かと玄関に出て来た母・露女(つゆめ)が、素早く指示する。侑菜(ゆな)(ひな)も、直ぐに千方の着替えを用意する。武規(たけのり)が馬を引き出して来る。
 早馬が飛び込んで来た半時後には、千方、武規(たけのり)智通(ともみち)の三人は、既に下野(しもつけ)に向けて駆け出していた。

 小山(おやま)の舘に着くと、文脩(ふみなが)が駆け出して来た。こちらにも早馬が来ていた。
「突然のことでさぞ驚いたであろう。心中察する。気を強く持て」
 歩きながら千方が、文脩(ふみなが)にそう声を掛ける。
「有り難う御座います」
 居室に落ち着くと、
「早速じゃが、麿が都へ飛んで、太政官(だじょうかん)への届けを済ませ、ご遺体をお迎えして参る。そなたは葬儀の準備を頼む」
と段取りを指示する。
(かしこ)まりました」
 文脩(ふみなが)は神妙な態度で応じる。
「この季節だ。荼毘(だび)に付して、遺骨を持ち帰ることになる。良いな」
「はい」
 翌日、千方は小山(おやま)から都へ向けて出立した。

 千方が駆け付けた時、千常の亡骸(なきがら)は、久頼に寄って、既に荼毘(だび)に付されていた。
「勝手に申し訳無い。臭いがきつくなり腐敗も始まったので、麿が命じた」
 そう言って久頼は千方に頭を下げた。
「いや、礼を申します」
 千方も丁寧に頭を下げる。気力が無いと千清から聞いて心配していたが、久頼は意外と元気そうだった。
「ひと月ほど前、突然訪ねて来られてな。千清が官職に就けたことに付いての過分な祝の品を頂いておる。変わらずお元気なご様子であったので、亡くなられたと聞いた時には、(にわか)には信じられなんだ」
と、久頼は千常に最後に会った時の様子を語った。 
(まこと)に。今にも、あのドタドタと言う荒々しい足音が聞こえて来そうな気がします。ところで、弱っておられると千清から聞きましたが、義姉上(あねうえ)は如何ですか?」
「いや、実は体の方はさほどでも無いのだが、時々心が離れる」
「心が離れる?」
と千方が問い返す。
「父が居ると思っていたり、その他色々と妙なことを仰ったりすることが有ってな」
 そう言われて義姉(あね)の様子が理解出来た。
「そうですか。一度ご挨拶に伺わせて下さい」
との千方の申し出に、
「そのような状態であることをご理解頂いた上でお願いする」
と久頼は答えた。

 西院(さいいん)の舘を引き払って、千晴の()は、子の久頼や孫達と葛野(かどの)隠棲(いんせい)していた。 
「母上、六郎殿が来てくれましたぞ。お分かりですか?」
 久頼が話し掛ける。
「何を申しておるのですか。ひとを(ほうけ)のように申しおる。親を馬鹿にするで無い。六郎殿。今日はどこまで行って来たのじゃ。千清(ちきよ)は一緒ではなかったのかえ」
 見ると、久頼が黙って頷く。
「殿は今日も遅くなると思います。先に休むが良い」
 義姉(あね)の様子は、確かに久頼から聞かされた通りだった。千方は、敢えて訂正せず、
「はい。そうさせて頂きます。義姉(あね)上」
と言葉を返した。
右馬助(うまのすけ)様の姫子は麗しい上に気立ても良い。そなたには勿体無いお相手です。いい加減に首を縦に振りなされ、六郎殿」
 義姉(あね)が、上洛した頃の自分の姿を見ているのが分かった。
「はい。考えておきます」
 千方は、義姉(あね)にさかんに縁談を勧められ、閉口していた頃を思い出した。
「いつも口先ばかり。本当にしょうがない」
と、義姉は続ける。長くなりそうなので、切り上げる為、
「失礼致します」
と言って、千方は頭を下げた。
「本当ですよ。そなたのことを案じているのです」
 義姉(あね)は、まだ続けようとする。
「有り難う御座います。では」
 そう言って千方は義姉(あね)の前を辞した。
「分かったのは良いのですが、六郎殿が上洛された頃に心が戻ってしまったようです」
 縁を歩きながら、久頼が言った。
「ご心配ですな。兄上が戻って来られるようなことが有れば、或いは良くなられるかも知れませんが。きっと、ご心労が重なってのことで御座ろう」
『矢張り、千晴を探さなければ』と千方は思った。


*注『平安時代には、高野山に【火葬】した骨や遺髪を納めるという「高野納骨」が盛んに行われました』と言う記述が有ります。もちろん、高野山に遺骨を納めたのは一部上流階級だけですが、【火葬】があったと言う傍証になると思います。
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