第二章 第2話 蝦夷 Ⅱ

文字数 10,356文字

 千方に取っては慌ただしい数日であった。突然、旋風丸(つむじまる)に襲われ、考える間も無く、結果として殺してしまった。己の腕が格段に上であったなら、或いは取り押さえることが出来たかも知れない。しかし、身を守るのが精一杯であった。気が付いたら斬ってしまっていた。だが、旋風(つむじまる)丸は、敵でもなければ盗賊でも無いと千方は思う。郷人(さとびと)のひとりなのだ。向き合って話したかった。腹を裂かれて(うめ)いている声が耳に残り、腹の裂け目から飛び出した腑が目に焼き付いている。
 人ひとりを殺すということは、こんなにも苦しいことだったのか。そう思った。初冠(ういこうぶり)の慌ただしさの中、忘れていた後悔の念が、(とこ)()き暗い屋根裏を見詰めている中で蘇って来た。
『襲われたら、考えること無く殺せ。それが生き残る(すべ)だ』千常はそう言った。確かに、斬らなければ斬られていた。斬ったからこそ自分は今生きている。ならば考えることなど無い筈だ。しかし、この苦しさは何なのだろうか? これから先、一体、何人の人間を殺すことになるのだろうか? それが即ち強くなるということであるならば、耐えるしか無いのだろう。耐え切れなくなれば、臆病者の汚名を着ることになる。経験を重ね、人を殺すことに無感覚になって行くことで、(たけ)(つわもの)と呼ばれるようになるのか…… ?

『はい。麿も兄上のように(たけ)(つわもの)になりとう御座います』
 武蔵から下野(しもつけ)に向かう途上、ほんのお世辞のつもりでそう言った時、兄・千常に殴り倒された。
『麿の話に調子を合わせて勇ましきことを言いおったが、口で言うだけなら、都の長袖(ちょうしゅう)公家(くげ)でも言える』
 千常はそう付け加えた。
『確かに、あの時の吾は何も考えていなかった。こんな気持ちなど想像の端にも無かった』
 朝が来るまで、千方は、暗闇の中で眠れぬまま、鬱々とした夜を過ごした。

 翌朝、秀郷を見送った後、武蔵に帰る者達と、下野(しもつけ)山郷(やまざと)に戻る者達が何組かに分かれて、暫しの間、談笑をしていた。
 久稔(ひさとし)夜叉丸(やしゃまる)達を捕まえて色々と話し掛けているが、(さと)の者以外には千方と朝鳥としか接触したことの無かった千方の新たな郎党達は、戸惑い気味だ。祖真紀と朝鳥は豊地(とよち)と話し込んでいる。多分、千方の幼き頃のことなど聞いているに違いない。
 千方は母と向かい合っていた。
「あまり眠れなかったようですね。そのような顔をしていますよ」
 母はすぐに千方の寝不足を見破っていた。だが、事実を言えば心配を掛けるだけだと千方は思った。それに、母に甘えて泣き言を言うような真似をしたくもなかった。
「はい。興奮したせいでしょうか、あまり眠れませんでした」
と答える。
「ほんの僅か見ぬ間に、すっかり大人らしい体になりましたね。まあ、一番背も伸びる年頃ではあるが…… 元服したのですものね」
と言って露女(つゆめ)が微笑んだ。
「体は育ったが、心はまだまだだと兄上に言われました」
と千方が照れる。
「それなら、心を鍛えなさい。麿から見れば、心もだいぶ大人に成ったように見えるが、千常様がそう言われるなら、まだまだなのでしょう」
「はい、心も強くなるよう心掛けます。また当分お目に掛かれませぬが、お(すこ)やかに」
 千方が露女(つゆめ)に、そう別れの挨拶をした。
「麿のことは案ずるには及びません。それよりも、己に負けてはなりませんぞ」
『相変わらずこの(ひと)は強い』と千方は思った。
「…… あ、はい」
 一瞬口籠った後、そう返事した。


 下野(しもつけ)の隠れ郷に戻ってからの千方主従の生活は朝鳥の主導で一変した。
 まず、夜明けと共に夜叉丸達六人が千方の舘に出仕する。そして、揃って千方に挨拶し、今までは郷人(さとびと)達が行っていた舘の内外の掃除をする。裏の作業場で女達がやっている炊事に付いても、薪を揃えたり水汲みなどの手伝いをする。それが終わると、朝鳥が皆を集め、郎等の心構えや立居振舞(たちいふるまい)や言葉遣いなどの指導を始める。ただ、今までと違うのは、今まで面白可笑しくやっていた朝鳥が、急に真面目腐って厳しく指導を始めたことである。
 千方は不安を覚えた。昨日まで遊び回っていた者達に急に厳しい躾をしようとすれば、反発を招くのではないのかと思ったのだ。大和人(やまとびと)であれば、元服して(あるじ)に仕えることになったのだから当然のことと思うだろうし、覚悟も出来るだろう。しかし、夜叉丸達は蝦夷だ。多くの俘囚の反乱が、大和の習俗を強制されることに対する反発がその一因と成っていると言うことは、千方も知っている。朝鳥のやり方が、取り返しの付かない事態を招くのではないかと案じたのだ。
「張り切るのは良いが、急に何もかも変えると、皆も戸惑うのではないか?」 
 そう朝鳥に言ってみた。
「戸惑いましょうな」
と朝鳥は当然のように答える。
「なら、徐々にやってみてはどうか」
と重ねる。
「いずれ、この者達を草原(かやはら)にお連れになることになりましょう。その時に問題が起きては困ります。それ迄に、どこから見ても大和の者と思えるようにして置きたいのです。そうすれば、草原(かやはら)の郎等衆も、殿が付けてくれた郎等で、単に下野(しもつけ)から来た者としか思いますまい」
 笑みを見せながら朝鳥が答える。
「言いたいことは分かる。しかし、皆はどう思っているのか?」
 千方は夜叉丸達の顔を見た。
「あの~、ひとつ聞いてもいいですか?」
秋天丸(しゅてんまる)がおずおずと尋ねる。
「『ひとつ伺っても宜しいでしょうか?』だ」
 秋天丸の言葉を透かさず朝鳥が訂正した。
「朝鳥、今はやめよ。皆が話せ無くなってしまう」
と千方が朝鳥を制する。
何故(なにゆえ)蝦夷と分かってはいけないんですか? 蝦夷は大和人(やまとびと)に嫌われているんですか?」
 秋天丸が朝鳥の方をチラッと見た後、そう続けた。
「そんなことは無い。嫌われている訳では無い。ただ……」
 千方は答に詰まった。そこへ、
「六郎様。宜しいでしょうか?」
と千方に一言断ってから、朝鳥が話し始めた。
「この国には、昔から朝廷に従っている者とそうでない者がおった。従っていなかった者達が蝦夷だ。しかし、朝廷の力が強くなり、蝦夷は敗れた。朝廷は蝦夷を支配しようとしたが、なかなか上手く行かん。着る物も習慣も考え方も違うからだ。お互いの心が分からないから不信の念も湧いて来る。勝った者は抑え付けようとするし、負けた者はそれに反発する。そうして蝦夷の反乱は繰り返されたのだ。そう言う麿も、この(さと)で暮らすようになるまでは、蝦夷とは良う分からん者達で、油断のならぬ者と、正直思うておった。だから、お互いにお互いを嫌う者達もおることは確かだ。この郷にも、大和を嫌う者達がおったそうだ。旋風丸(つむじまる)の父などもそのひとりだった訳だ。
 大和人(やまとびと)の中にも蝦夷を嫌う者は正直多い。しかし、その考えを変えさせるのは難しい。だから、六郎様の郎等と成ったからには、余分な揉め事を起こさぬ為にも、蝦夷と分からぬようにして置く他無いと麿は思う。草原(かやはら)に行った後、(なれ)達に嫌な思いをさせたくないのだ。蝦夷と分からなければ、避けられる事も有る。どうしてもそれが嫌な者がおれば、仕方が無い。麿が殿にお願いして、今のうちに郎等から外して頂く…… 六郎様、それが麿の存念で御座います」 
 朝鳥は千方にそう説明した。
「うん…… 朝鳥。(なれ)の覚悟は分かった。…… 皆はどう思う?」
と千方が皆に聞く。
「吾は何としても六郎様の郎等になりとう御座います! その為にはどんなことでも耐えます」
 いきなり夜叉丸が大声で答えた。しかも、きちんとした言葉遣いである。
 秋天丸が驚いた表情で夜叉丸を見た。口数の少ない男なので皆気付かなかったが、夜叉丸は真剣に朝鳥の言葉を聞き、頭の中でそれを繰り返し、必死で覚えていたのだ。外の世界で自分の力を試してみたいという強い想いが有った。 
 正直、秋天丸には迷いが有った。揉め事を起こさぬ為とは言え、蝦夷と言うことを隠さなければならないということに、何か割り切れぬ想いが有った。ところが、夜叉丸の力強い言葉に触発されて、持ち前の負けず嫌いがむっくりと頭を持ち上げたのだ。
『もし拒否してこの郷に残ったとしたら……』と考え、夜叉丸が千方の郎等として成長して行く姿を想像した時『それは負けになる』と思った。
「吾も同じです」 
と秋天丸は答えた。
「吾も!」
と尻馬に乗ったのは犬丸だ。鷹丸、鳶丸の兄弟も「吾も。吾も」と続いた。
「でも、しんどそうだな……」
 竹丸ひとりが、気負っていない。
「なら、(なれ)はやめておけ。無理をすることは無い」
 透かさず夜叉丸が突っ込む。
「そんな…… 吾ひとり仲間外れにせんでくれ。分かった、やるよ、やる」
と慌てて答える。
「大丈夫か?」 
と秋天丸が聞き、竹丸が頷く。
「ならば、これから泣き言は言うな」
 夜叉丸が釘を差す。
「と言う訳で、皆承知したようで御座います」 
 朝鳥が千方に言った。
「分かった。朝鳥が厳しく言うのも、皆のことを思うてのことと分かってくれたようだな。ならば、励んでくれ」 
 そう言った千方だったが、先への不安が全て拭い切れた訳ではなかった。
 千方は、朝餉(あさげ)の後、折を見付けて、簡単な読み書きを六人に、自身で教え始めた。そんな日々が五日ほど続いた頃、
「名が決まったぞ」
と千方が皆に告げた。

 (さと)の者が名乗る姓は大道(おおみち)駒木(こまき)広表(ひろおもて)広岡(ひろおか)小山(こやま)の五家である。
 平安時代、庶民と雖も大和人(やまとびと)は全て姓を持っていた。しかし、元々蝦夷にそれは無い。だが、降伏し大和朝廷の為に働くようになった蝦夷即ち俘囚には、官位と共に『吉弥侯部(きみこべ)』などの姓が与えられるようになる。

 秀郷は隠れ郷を手に入れた時、郷人(さとびと)達の血を辿って新たに(あざな)を与えた。もちろん、朝廷の許しを得てのことでは無いので正式な(かばね)では無い。勝手に作ったのだ。それが、大道(おおみち)駒木(こまき)広表(ひろおもて)広岡(ひろおか)小山(こやま)の五家だ。
 郷の者達は皆、この五つの姓のいずれかの系統に属する。祖真紀、古能代親子が”おおみちの”と”の”を付けて名乗ることがあるが、賜姓(ちょうせい)では無いので実は僭称となる。
 犬丸は祖真紀、古能代と同じ「大道」血統に属する。夜叉丸は「小山」、秋天丸は「広表」、鷹丸、鳶丸の兄弟は「駒木」、竹丸は「広岡」の血統である。

「まず、夜叉丸は小山武規(こやまたけのり)、秋天丸は広表智通(ひろおもてともみち)、犬丸は大道和親(おおみちかずちか)、竹丸は広岡大直(ひろおかひろなお)鷹丸(たかまる)駒木元信(こまきもとのぶ)鳶丸(とびまる)は同じく末信(すえのぶ)とする」
 千方が木簡に書いた字を示しながら皆に告げた。
『これは又、大層な名前をお考えになったものじゃ。己の名を書けるようにするだけでも大変なことだわい』
 朝鳥はそう思ったが、まだ、あまり文字の読めない当人達は、ただぽかんとしている。
「ま、今まで通り呼ぶので安心せよ。ただ、覚えておいて、いずれ書けるようにもなって貰う。良いな」
と千方が皆に言い渡した。
「ひろおか……ひ・ろ・な・お? なんか、ややっこしいな……」
と竹丸が呟いた。
(たわ)け! まずは御礼を申し上げろ」  
と朝鳥が叱る。
「有難う御座いました」 
と一応、六人揃って千方に頭を下げた。 
「竹丸。大直(ひろなお)とは大きくて真っ直ぐという意味だ」
 千方が竹丸に告げた。
「では、吾の和親(かずちか)と言うのは?」 
と尋ねたのは犬丸である。
(なご)やかで親しみ易いと言う意味だ。夜叉丸の武規(たけのり)は武によって(ただ)す。秋天丸の智通(ともみち)とは知恵に通じる、元信(もとのぶ)末信(すえのぶ)は信ずるという意味だ。ま、多少こじつけ気味かも知れぬが、麿なりに考えて付けた。不服の有る者はおるか? 気に入らなければ変えても良い」
「いえ、不服など御座いませんが、何か、ぴんと来ません。何やら他人の名のようで。……」
 秋天丸は首を(ひね)っている。
「ま、良い。今は取り敢えず覚えておくだけで十分だ」 
 宿題を片付けた千方は、それに付いては幾分ほっとしていたが、もうひとつ心に掛かっていることが有った。芹菜(せりな)とゆっくりと話す機会を、まだ持てていなかったのだ。

 千方らが郷を離れた日、芹菜は崖上の岩に立って見送っていた。吹く風の冷たさは全く芹菜の意識の中に入って来ない。ただ、千方が郷を出て行く姿が永遠(とわ)の別れのように思えて胸が苦しい。

 千方が旋風丸(つむじまる)に襲われたと知った時は複雑な思いだった。千方が無事だったことも同時に分かったので安心したが、一方で旋風丸の死も知ることとなったからだ。 
 旋風丸と何か有った訳では無いが、気になる存在ではあった。芹菜(せりな)は何度か旋風丸の視線を感じたことが有った。別に話し掛けて来る訳では無いが、気が付くと遠くからこちらを見ている。しかし、気の強い芹菜が視線を合わせると、すっと視線を外してどこかへ消えてしまう。『何なのだ』と思いながらも気になっていたのは事実だ。
 思えば、芹菜(せりな)自身も変わり者として通っていたが、旋風丸(つむじまる)も仲間と余り交わることの無い変わり者だったから、そう言った意味での親近感を感じていたのかも知れない。その旋風丸が千方を襲ったということ自体信じられないことであった。そして斬られて死んだ。哀れと思ったが、千方が無事だったことがその十倍も嬉しかったのは事実だ。そう思う自分に後ろめたさが僅かに残った。

 騒動の後、千方と話す機会は無かった。遠ざかって行く千方ら一行を見送っていると、嫌でもいずれ来る別れのことを考えざるを得ない。ひょっとしたらこのまま帰って来ないのではないか? という不安が(よぎ)り『いや、そんなことは無い。必ず帰って来る』と思い直してみてる。例え帰って来たとしても永遠の別れが必ず来るという事実が胸を押し潰しそうになる。せめて子が欲しい。そう思うのだが、そういった兆候は全く見られない。千方ら一行の影が見えなくなっても、芹菜(せりな)は暫くの間、岩の上に立ち尽くしていた。
 翌日も、芹菜はいつもと全く変わらず働いていた。だが、そう思っていたのは、実は本人だけだった。
「珍しいねぇ。手が止まってるよ」
 ひとりの年嵩(としかさ)の女に注意され、はっとしたが、気が付くとまた物思いに(ふけ)っている。それを見た女達は、もう注意をしなかった。ただ、お互い視線を交わし含み笑いをした。

何故(なにゆえ)こうなってしまったのだろうか?』と芹菜(せりな)は思った。(おのこ)など興味が無いと自分では思っていた。だが、そう見せていただけだということを、今では分かっている。
 年頃の他の娘達が(おのこ)のことを話しながら笑い転げているのを見ると、卑猥に思えて何か無性に腹が立った。しかし、考えてみれば、それは、他の娘達のような素直な表現が出来ない自分への腹立ちだったのかも知れない。正直、心惹かれる(おのこ)も居なかったのだ。それに、自分は(おのこ)達にあまり人気が無いということも分かっていた。もし誰かを好きになって打ち明けたとして、断られたらみっともないという強い意識があった。だから、たまにそれらしく話し掛けて来る(おのこ)が居ても、『(なれ)も暇だなあ。吾は忙しいんだ』などと、つい毒口を吐いてしまう。『けっ! 男女(おのこおなご)が……』と捨て台詞(ぜりふ)を残す(おのこ)も、懲りずに、また話し掛けて来る(おのこ)も、本性が見えてしまい、結局嫌いになっていた。

 大和の偉い人の子がこの郷に来る。そう聞いた時『迷惑な話』と思った。犬丸も、扱き使われるのではないかと心配していたから『そんなことされたら、(ねえ)が言ってやるから心配すんな!』と(なだ)めた。 
 小生意気な(わらべ)という想像しか出来なかった。ところが、実際来てみるとそうでもなさそうだった。
『どんな奴か見てやろう』と犬丸を誘って弓の稽古を木陰から見ていた。『やはり、大和の者は下手糞だな』と思って見ていたが、稽古が終わって矢を拾い集めている姿を見ていると、何か微笑ましく思えて来た。
「藪の中にも大分打ち込んだようだな」 
と犬丸に言うと、 
「見付からんだろうから、吾が拾って来るわ」
と言って、藪の中に入って行った。そして、竹の小枝を踏み抜いた千方の足を治療してやることになったのだが、その時は、本当に童としてしか見ていなかった。

『千方を(おのこ)と意識したのはいつからだろうか?』と芹菜(せりな)は思った。それ以来話すことも無かったが、ふと気が付くと、時々見掛ける千方の体が大きくなって来ている。千方の方は芹菜に会いたくて毎日のように作業場を通っていたのだが、当初全く関心の無かった芹菜の方は、振り向きもせず作業をしていたので、そういうことになる。まず、大きくなったという印象が少し残った。それと共に、他の娘達の千方に関する噂話が耳に入って来るようになった。
「手が止まってるぞ。下らんこと言うてないで仕事しろ」
と、毒口を吐いて『相手は童だぞ。何を考えてるんだ。あの女子(おなご)らは』と思ったが、考えてみると歳は幾つも変わらないのだ。そうしているうちに千方は、ただ身長が伸びただけで無く、鍛錬に寄って筋肉も付き、男らしい体付きになって行った。芹菜(せりな)も無意識の中では千方を(おのこ)として見始めていた。そして、千方が自分に関心を持っていることも感じ始めていたのだ。だから、犬丸が『牧で千寿丸様が呼んでいる』と言いに来た時にも、何かを感じ取っていた。
 だが、『済まぬ。忙しいところを呼び立ててしまったかな?』と言われると『どんな用か? 有るなら早く言ってくれ』と言ってしまった。
『傷の手当をして貰ったあの時より、ずっと好ましく思っておった』と言われた時には、既に嬉しいという気持ちを抑えることが難しくなっていた。だが、その意に反して、口から出た言葉は『それで? ……』と冷たい言い方になっていた。不安を打ち消す為に、更に強い言葉が千方の口から出ることを期待していたのかも知れない。そして、更に追い打ちを掛ける言葉が芹菜(せりな)の口から発せられた。だが、期待に反して、やがて千方の口から出た言葉は『分かった。もう良い。忙しいところを呼び立てて済まなかった。許せ。…… 今申したことは忘れてくれ』と言うものだった。
 芹菜は衝撃を受けた。芹菜らしい言い方では有ったのだが、
『何と馬鹿なことを言ってしまったんだろうか。これで終わってしまう。でも、それは嫌だ!』そんな激しい想いが湧き上がって来て、千方を見詰めているうち、突然、芹菜の中で何かが弾けた。
 どうして、あんな大胆な所業に出たのか自分でも分からない。また、もう一度同じことをやれと言われても出来ることではない。だが、考えの入る余裕も無く取ってしまったあの大胆な行動が無ければ、その後の千方とのことは無かった。そういう意味では、良かったと思うほか無いのだが、喜びと共に苦しさが増して行ったことも事実であった。

 佐野から戻った千方を見掛けた時、元服していることに驚いた。その姿に見惚(みほ)れたことは事実であったが、それと共に何か遠い人のように思えて、出掛けて行った千方とは別人ではないかとさえ感じた。
 現に暫くは話す機会さえ無く、その為に芹菜(せりな)は、その想いを一層強くしていた。それも驚きではあったのだが、犬丸も含めて、供をして行った童達も皆元服を済ませていた。戻った日、犬丸は、家に帰ると、
「どうだ! 吾は六郎様の郎等になったのだ。見てくれ、(てて)(かか)(ねえ)も見てくれよ。どうだ、どうだ、凄いだろう」
と言いながら直垂(ひたたれ)姿を見せびらかし、はしゃいでいた。
「変わったのは着る物だけで、中身は何も変わっておらんな」
 芹菜(せりな)はそう言って茶化した。 
「うん、うん」と嬉しげに頷く父、
「良かったのう。良かったのう」 
と繰り返す母を後目(しりめ)に、芹菜は犬丸に対しては、相変わらずの毒舌を吐いていた。しかし、心の中では、佐野で何が有ったか、犬丸が喋ってくれることを期待していた。  
 どんな些細なことでも知りたかった。その芹菜の期待に(たが)わず、犬丸は、佐野でのこと、宮の二荒山大明神(ふたあらやまただいみょうじん)でのこと、更には草原(かやはら)の人達のことまでも、微に入り細に入り喋り続けてくれた。興味深げに聞き入る両親とは少し離れて、犬丸の話には興味無さげに仕事を始めた芹菜(せりな)だったが、その実、一言も聞き逃すまいと聞き耳を立てていた。

 十日ほどして芹菜(せりな)は、千方とゆっくりと話す機会を得ることが出来た。
 芹菜の不安を他所(よそ)に、千方は以前と同じように接してくれ、初冠(ういこうぶり)の様子など色々と話してくれたので、当面の不安は芹菜の心から払拭された。

 千方主従の日常は特に問題も無く過ぎて行き、郎等達の教育も進められていた。

 一方、古能代が願い出ていた陸奥(むつ)行きの件については、千常からの許しがなかなか届かずにいた。もはや季節も夏と言える頃になって、やっと千常からの使いが来て、佐野に来るようにということであった。古能代は早速佐野に向かい、舘を訪ね千常に会った。
「色々とするべきことがあって小山(おやま)の方に行っておった。今、新たな舘を建てておる。呼んだのは他でもない、兼ねて願い出の有った陸奥へ行きたいとの件だが、六郎を同道して貰おうと思ってな。各方面への段取りに時を要した」
 千常はそう言った。
「六郎様も…… ご一緒に陸奥に行かれるのですか?」
 千常の思惑が読めなかった。
「そうだ。このまま三年の間、(さと)に置くつもりであったが、そのほうが陸奥に行くのであれば、この機会に旅をさせてみるのも良いのではないかと思うてな。六郎同道のこと、承知してくれるか」
と聞いて来た。命令では無い。
「ご下命(かめい)とあれば……」
 余り気は進まなかったが、古能代はそう答えた。千常はふっと笑った。
「迷惑そうな(つら)をしておるのう。ま、良い。これも役目と思うて承知してくれ。そのほうひとりに守りをさせるつもりは無い。朝鳥と他の郎等二人ばかりを連れて行け。さすれば、時に寄ってそのほうひとりで動くことも出来よう」
 それであれば、気儘な行動も可能と思い、古能代は、
(かしこ)まりました」
と返事をした。
陸奥守(むつのかみ)平貞盛(たいらのさだもり)様には、父上から書状を送って頂いた。万事手配は済んでおる。良いな」
 許しが出るまでに時が掛かったのは、千方も行かせる段取りをする為だったのかと納得した。
「はっ」
と返事をする。

 事の次第は、戻った古能代から、千方と朝鳥に伝えられた。
陸奥(むつ)か! それは面白そうだな。いつ出立する、古能代」
 好奇心の旺盛な千方は大乗り気である。
「その前に、誰を連れて行くか決めねばなりませんな」 
と朝鳥が千方に言った。
「う? そうだな、二人ということであれば、やはり、夜叉丸と秋天丸が良いのではないか」
と千方が答える。
「はい。麿もそう思います。しかし、六郎様。こんな時に何ですが、将来、立派な将になって頂く為に、敢えて申し上げさせて頂きます」
 朝鳥が何か面倒な事を言い出すのではないかと千方は感じた。
「何か?」
と探るように聞いてみる。
「ひとつのことにのみ、心を奪われてはなりません。ひとつのことにのみ心を奪われれば、他のことが(おろそ)かになります。もし、(いくさ)を前にしてのことであったならば、それが命取りになるのです。お分かりか?」
『始まったな』と思った。
「ふむ……」
と曖昧に応じる。
「まず、夜叉丸と秋天丸を選ぶのは妥当と思われますが、他の者達は見捨てられたと思うかも知れません。その不満をどう(なだ)めるか、まず、それをお考えなされ。次に、六郎様も吾も、更には古能代までも居なくなった後、あの者達をどうするか。放って置けば、今まで積み重ねて来たものが失われてしまいます。鍛錬に付いては祖真紀に任せて置けば心配は有りますまいが、郎等としての躾はどうなさいます?」
 旅の話に舞い上がっていた千方だったが、朝鳥の言葉ひとつに寄って、悩ましげな表情に変わり、腕組みをして溜息を吐く有様となってしまった。千方は(しばら)くそのまま考え込んでいた。
「うん。皆には麿が心を尽くして話す。後のことに付いては、兄上の郎等から、誰か適当な者を差し向けて貰う訳には行かんだろうか?」
と、やがて言った。それを受けて朝鳥がにやりとした。
「その程度のお考えでは、(いくさ)なら、まず敗れます。戦の際には、もっとお考えなされ。将の決断ひとつが多くの者の命と運命(さだめ)を変えてしまうのですから、どれほど考えても考え過ぎることは御座いません。ですが、いつまでぐずぐずと考えてばかりと言うのもいけません。機を逸すれば、どんな考えも役に立たなくなります。必要なことを適切な順序で吟味し、後は素早く決断を下す。それが、将に求められることですぞ」
 思わず『ふーっ』と溜め息を付きそうになったが、何か言われると思って堪えた。そして取り敢えず、
「…… 分かった。『心を尽くして』などという曖昧なことで無くどう説得するか、言葉ひとつまで考えよということであろう。暫し時をくれ」
と返事をした。
「はい。お考えください。…… と言うより、今申し上げたようなことを徐々に身に着けて行って頂きたいと言うことで御座います。口幅ったいことを申し上げて水を差し、申し訳も御座いません。後に残る者達のことに付いては、麿に考えが御座います。先日、宮で六郎様もお会いになった国時(くにとき)と言う男、今は隠居し、日頃は大殿のお話し相手などを務めておりますが、大殿にお願いして、残った者達の躾をやって貰おうと思います。あの男は、既にこの郷のことも良く知っておりますし、祖真紀とも親しゅう御座いますので、何とかなると思います」
『なんだ。答えは用意していたのか。いつか自分が居なくなった時思い出して欲しい。そう言うつもりで言っているのだろうな』と千方は思った。
「そうか。三輪国時と言えば、佐野に行った折、迎えに出てくれていた者だな。分かった。宜しく頼む」
と答える。

 残る郎等達の説得は意外と上手く行った。最初は明らかに落胆した彼等だったが、千方の心が通じ、朝鳥と古能代の口添えも有り、最終的には皆快く承知したのだ。それに、彼等自身、千常から二人という指定が有ったのであれば、夜叉丸、秋天丸の二人が選ばれるのはやむを得無いと言うことは皆納得していた。

 郷人(さとびと)総出の見送りを受けて、初夏の或る日、古能代と千方一行は陸奥(むつ)に向けて旅立った。見送りの輪の中には、三輪国時そして芹菜(せりな)の姿も有った。
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