第六章 第8話 兼通と晴明

文字数 4,412文字

「兄と相談する」
と言われては、そんな必要は無いとは言い(にく)かった。日頃、兄を兄とも思わない弟・兼家(かねいえ)のことを()(ざま)に言っている手前、兼通(かねみち)は、『兄を立てると言うこと(もっと)もじゃ』と言わざるを得なかった。

 都から追い払ったとは言え、そう遠く無い摂津(せっつ)満仲(みつなか)が居ると思うと、どうにも落ち着かなかった。兼通は、任命後僅か一年で満仲を越後守(えちごのかみ)に転出させた。都から遠く引き離して置きたかったのだ。後は千方(ちかた)を臣従させれば更に安心である。(かつ)高明(たかあきら)千晴(ちはる)手許(てもと)に置いたように、少しも早く、千方を手の内に抱え込んで置きたいのだ。
 だが、結局高明は、千晴の武力を以て身を守ることは出来ず、摂関家の罠に(はま)ってしまった。しかし兼通に言わせれば、それは、皇族出身の高明が人間的に甘かったからに過ぎない。満仲の裏切りに早めに気付いてさえいれば、先手を取れた(はず)である。
『いざという時、私的な武力は必ず役に立つ』
 兼通はそう思っている。
『千常の返事はまだか』
と度々千方に催促するのも足許を見られるようで具合が悪い。例の文書を返しに来る時を待つしか無いと思った。  
『千方もあの文書の秘匿性(ひとくせい)は十分認識している筈だから、家司(けいし)に預けて帰ってしまうなどと言うことは、よもやするまい。必ず目通りを願い出て来るはずだ。その時、鷹揚(おうよう)に問い(ただ)せば良い。
 千方ばかりでなく、下野藤原(しもつけふじわら)に取ってそれが最善の選択であり、それ以外に生きる道は無いと言うことを分からせてやることだ。そして、それは麿の都合では無く、()くまで、千方や下野藤原を想う麿の好意から出ているものだと思わせる必要がある』
 兼通はそんな風に思案を巡らせていた。だが、『千常が反対しないだろうか』と、ふと思う。 
 しかし、祖父・忠平(ただひら)は、あの無法者であった秀郷(ひでさと)手懐(てなづ)けて、将門(まさかど)を討たせたではないか。祖父に出来て、同じ関白・太政大臣の(くらい)()る自分に出来ぬはずは無い。
 権力さえ有れば、飴と(むち)を上手く使い分ければ何でも出来る。まして、海千山千であった秀郷に比べれば、千常など赤子(あかご)同然。気に()む程のことでは無いと自分に言い聞かせる。

 千方が目通りを願い出ていると家司(けいし)言上(ごんじょう)して来た。待ち()びていた。やっと来たかと思うが、表情には出さない。
「そうか、ならば、明日、(さるの)(こく)に参るよう申し伝えよ」
と、無表情に指示した。
(かしこま)りました」
 家司(けいし)が下がると、さて何と言って来るかと思案を巡らす。

 翌日、申刻(さるのこく)(ひさし)に控える家司(けいし)を挟んで、兼通と千方が向かい合っている。
「例の物、持参致しまして御座います」
 挨拶を済ますと早速に、千方がそう言い、書き付けを取り出した。
 膝行(しっこう)で二歩ばかり進み、書き付けを家司(けいし)に渡し、受け取った家司は、向き直って、それを兼通に渡す。
 兼通は、一度開いて中身を確認した後、(ふところ)に仕舞った。
「下がって良いぞ」
 兼通が家司にそう告げた。家司は、今回は戸惑うことも無く、「はっ」と返事をして下がって行く。その様子を見送って、
美濃守(みののかみ)は何と申して来た」
 兼通を私君(しくん)と仰ぐ事を千常が了承したかどうかを千方に尋ねる。
「はっ。一刻も早く、先程の物をお返しすべく、使いの者は、兄の返事を待たず直ぐに戻って参りました。お申し付けの件は(ふみ)(したた)めて渡してあります」
 はぐらかしである。兼通の表情が少し不機嫌そうに変わるのを、千方は見て取った。
『どう攻めて来るのか』と構えている時、兼通が突然「うっ」と(うめ)いて(うずくま)った。
「関白様!」
 驚いた千方が声を上げると、
「騒ぐな。大事無い。人を呼んではならぬ」
 左手を上げ、千方を制するような素振りを見せながら、兼通が、苦しそうな息の下からそう言った。千方は片膝を立て、歩み寄るべきかどうか迷っていた。
 少しの間、(うめ)きながら(うずくま)っていた兼通だったが、やがて起き上がり、二、三度深く呼吸した後、普段の表情に戻った。
「驚かせたな。何、直ぐに収まると分かっておった。近頃、時々有るのじゃ。急に背中が痛み出すことが有るのだが、少し我慢しておれば、直ぐに収まる。大事無い。美濃守(みののかみ)に返事を催促致せ。今日は下がって良い」
 と命じた。
「はっ。お体のこと、(まこと)に大事御座いませぬか」
と千方が兼通の体調を案じる。
「大事無い。それからこのこと、なんびとたりとも漏らしてはならぬ。良いな」
 これは、思いの外重大な事態なのでは無いかと千方は思った。
「ははっ」
と礼をして御前を下がった。

 関白・兼通の私邸を辞すと、千方は、久し振りに安倍晴明(あべのせいめい)を訪ねて見ようと思い立った。
 晴明は在宅していた。
「おお、これはお珍しい。確か今は修理亮(しゅりのすけ)殿で御座ったな。さあさあ、お上がり下さい」
 取り次ぎを頼むと、晴明自身が迎えに出て来てそう言った。六年ほど前に、晴明は天文博士に上っていたが、千方の方は信濃(しなの)での騒動が有り駆け付けることも出来無かったので、祝の品を贈っただけであった。それ以来、無沙汰していた。
「して又、今日はどのようなことで」
 居室で席に着くと、晴明が切り出した。
「いえ、実は関白様にお目通りする為、私邸に参ったのですが、用件が思いの(ほか)早く済んだので、ちょっとお寄りして見ようと思い立ちまして」
と訪問の主旨を伝える。
「ほう。関白様にお目通り。それは名誉なことで。ところでご身辺、何かと大変で御座いましたな」
 晴明は、安和(あんな)の変から信濃での騒動までの事を言っている。
「はあ、信濃でちょっと揉め事が御座いまして、その後、兄が赦免と成りましたのは宜しいのですが、未だに行方(ゆきかた)知れずとなっておりまして」
 千晴が行方知れずだと伝えながら千方は、晴明はどこまで読んでいるのかと考えていた。そこへ、
(さきの)相模介(さがみのすけ)殿は、生きておいでです」
 晴明がそう言った。
(まこと)ですか」
 千方が真剣な目となり、身を乗り出す。
「赦免後、行方(ゆくえ)知れずとの噂を聞き、占ってみました。西国(さいごく)の山中においでになります。ただ、それがどこかまでは、残念ながら特定出来ませんでしたので、お報せしませんでした」
 晴明は、千晴の行く方を占ってくれていたのだ。
「なぜ戻って来ないのでしょうか」
と聞いてみる。 
「さて、そこです。或いは探されることを望んでいないのかも知れません。その念が強い為、麿にも詳しい所在が特定出来ぬのです」
 晴明は、そう説明する。
「なぜ? 都には、妻も子も孫も居るのですぞ」
 千晴自身の考えで身を隠したのだと言う晴明の説明に納得行かない千方が、そう聞いた。
「信じていたものすべてが、失われたのです。人は、何かを強く信じることで力も湧き、日々の充実感も得られるものです。そんな時は、疲れも苦になりませんし、困難が起きても敢然と立ち向かって行けるものです。しかし、信じていたものすべてが、突然無くなってしまったとしたら、どうなるでしょう。それ迄の想いが強ければ強いほど、落ち込む闇は深くなります。恐らく兄上は、呆然自失の状態で島での暮らしを始められたのではないでしょうか。その後何が有り、どう言う心境の変化が有ったかは分かりませんが、放免後姿を消されたのは、ご自身の意思に基づくものだと思われます」
 晴明は、そう繰り返した。
「探すなと言うことですか?」
と念を押す。
「ご家族にすれば、そう言う訳にも参りませんでしょうがな」
 千方は唇を噛み、暫く想いに(ふけ)っていた。そして、
「考えてみましょう」
とぽつんと言った。
「ところで、大きな声では言えませんが、関白様のご様子に何かお変わりは御座いませんでしたか」
 突然話題を変えて、晴明がそんな事を聞いて来た。
「いや、別に気付いたことは有りませんが」
 口外しないと言う約束が有るから、そう惚けるしか無い。
「例えば、急に背中の痛みを訴えるとか」
 晴明にそう言われ、千方ははっとした。自分はそんなことを匂わせてもいないのだ。『晴明には本当に霊力が有るのだろうか』そう思った。
「気付いたことは無いと言われた時、麿は、(みこと)の表情を観察しておりました。その時一瞬、瞳が落ち着き無く動きました」
 晴明がそう言った。千方としては、平然と(しら)を切ったつもりでいた。目が動いたなどと言う意識は全く無い。 
「しかし、なぜ背中の痛みと言われた」
 千方は、晴明にそう聞いてみた。
「関白様が人前で発作を起こされたのは始めてではありません。身近な者は元より、何人かの来客が目撃しております。その都度(つど)口止めをしておるようですが、それで漏れないと言うことにはなりません。既に何人かの公卿(くぎょう)の耳には入っておりますので、今更秘匿する意味は有りません」
『そうか。一部の公卿達の間では、関白の(やまい)は、既に公然の秘密となっていたのか』晴明に指摘され、状況が理解出来た。
「一時的な痛みであれば良いが、場合に寄っては政局に関わること」
 千方が言った。
「仰せの通り。そして、これは一時的な痛みなどでは御座いませんな」
 晴明はそう断言した。
「と言うと?」
 千方は、晴明が断言する根拠が、知りたいと思った。 
「打ち身や(ひね)って痛めたものであれば、最初痛みは強く、日が()つに連れて薄らいで行くもので御座います。又、体を動かした拍子に強く痛むことは有りましょうが、動いていないのに突然激痛が走り、暫くすると嘘のように痛みが去ると言うのは、打ち身や捻ったことに由来するものではありません。腑(内臓)に由来するものと見て間違い御座いませんでしょう」
 云われてみれば、晴明の見方は理に(かな)っている。
「となれば、事は重大」
と言って、晴明の顔を見る。
「左様。ご自身の身の振り方に悩まれているのなら、その事、十分に配慮される必要が御座います」
 晴明は、既に千方の心も読んでいた。
「ご助言、(かたじけ)ない。お訪ねして良かった。兄が生きていると晴明殿に仰って頂けたことで気が楽になりましたし、身の処し方に付いての迷いも吹っ切れました。有り難う御座います」
 眼の前が開けた。そんな想いで、千方は晴明に礼を述べた。
「何の。特別なことは申し上げておりません。これからも何かと難題に向き合われることと思いますが、(みこと)は父上の霊に守られておる。後ろをご覧なさいませ」
 そう言われて千方が振り向くと、薄暗くなった部屋の隅に火の玉がひとつ揺れて浮かんでいる。驚くこと無く、千方は微笑んだ。
座興(ざきょう)で御座る」
 ニンマリしながら、晴明が言う。
「世に言う式神(しきがみ)仕業(しわざ)ですな」
 千方も笑いながら言った。
「世の為と思える考えが有っても、身分の低い麿などの言うことを公卿(くぎょう)方に聞いて貰うことは出来ません。大納言や大臣に成れる身分ではありませんが、占いやお告げと言う事にすれば、時には、想いを(まつりごと)に取り入れて貰うことも出来る。その為の方便(ほうべん)と思って下され。他人(ひと)には絶対に漏らせぬことですが、ご無礼ながら我が弟子同然の(みこと)ゆえお話出来ることです」
 晴明が、何故そこまで信用してくれるのか千方には分からなかったが、嬉しかった。 
『晴明は、もし良家に生まれていれば、きっと朝堂(ちょうどう)に登りたかったのだ』
 千方はそう思った。
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