第七章 第7話 愁い
文字数 4,399文字
摂関家の者は、一世源氏どころか、帝までも陥れる。それは、この時が初めてと言う訳では無い。実質、藤原王朝なのだから、邪魔な者は帝であろうと廃除するのだ。
最初に兼通に負けてから実に十四年。負け続けた兼家は、遂に最高権力を手にした。しかも、帝の外祖父と言う、摂関としての最強の条件を備えてである。
花山帝の在位は、僅か二年足らずで終った。一条天皇(元・懐仁親王)は七歳であるから、兼家は摂政に就任することになる。
権中納言・藤原義懐が事態を知った時には、既に帝は元慶寺に於いて出家を済ませた後であり、義懐も側近の左衛門権佐兼権左中弁・藤原惟成と共に花山帝の後を追うように元慶寺に於いて出家した。
更に関白・藤原頼忠も摂関の地位を失うことになり、事実上失脚した。
朝廷での権力争いの話が先走ってしまったが、この辺で千方の話に戻ろう。
時は、まだ円融帝の治世であった天元五年(九百八十二年)に遡る。
千方は草原に戻った。身分は散位と言うことになる。
散位は散官とも言い、位階のみ有るが官職に就いていない者のことを言う。公卿らの子弟が蔭位に因り多くの官職を占める為官職が不足し、それで溢れた者も居るが、散位の大半は退職者である。在京の五位以上の散位は散位寮に常勤することになっているが、千方は、帰郷を願い出て許された。地方在住者は現地の国衙に分番で出仕することになる。いわば無役の嘱託である。
千方の日常は、武蔵の草原に生活の拠点を置き、適時、下野の小山に通い、時に武蔵の国衙にも顔を出すことになる。無役の身をのんびりと楽しむ訳にも行かないのだ。
松寿丸は数え六歳になる。活発な子だ。数え年とは、生まれた時を一歳とし、新年になると全員一歳年を重ねると言う数え方である。松寿丸は年の瀬の生まれであるから、年が明けると直ぐに二歳と言うことになる。今の年齢の数え方をすれば、まだ四歳である。物心付いた後、千方とは初対面になる。
千方が草原の舘に戻った時、侑菜に連れられて迎えに出て来た。母の手に掴まって陰に隠れるような童では無かった。一歩前に踏み出して、まじまじと父の顔を見ている。
「父上ですよ。いつもお話してあげている通りの方でしょ。ご挨拶なさい」
と侑菜が促す。
「チチウエ?」
「そうだ。父じゃ。松寿大きく成ったのう」
そう言って千方は松寿丸を抱き上げた。
「お帰りなさいませ。お待ち申し上げておりました」
侑菜が框の手前に両手を突き、深く頭を下げる。その後ろには、小山武規の妻・雛が控えている。京を発つ前、侑菜は、都で雇い入れた女達の中で、坂東に下ることを喜ばない者を募り暇を出した。都で雇われた女達の殆どの女がそれに応じた。そして、草原では数人の女を新たに雇い入れていた。
女達の雇い入れや解雇の権限は侑菜に有る。そんな訳で、竹丸の娘に付いても、千方は文で侑菜に伝え、侑菜の了承を得た上で、先に坂東に送っている。名を篠女と言う。今は草原の舘で下働きをしているが、侑菜は、教育した上で侍女に取り立てようと思っている。
「良う留守を守ってくれ、松寿も逞しく育ててくれた。礼を言う」
千方は居室に入り松寿丸を膝に乗せている。
「いえ、大したことも出来ませんでした。それよりも、母上にも豊地殿にも良くして頂き、草原での暮らし、何とも楽しゅう御座いました」
侑菜は柔らかい笑顔を見せて、そう言った。
「そう言ってくれて安堵した。早速、母上にご挨拶せねばならんな」
松寿丸を膝から降ろすと、松寿丸は、走って母の膝に乗った。
「畑に出ていらっしゃいます」
「そうか、母上らしいな」
千方も笑顔で頷く。
「いつも顔を合わせていると、ついつい言いたいことも出て参りますでしょう。晴れていれば田や畑に出られるのは、麿に対するお気遣いではないでしょうか」
千方は侑菜の気遣いを嬉しく思った。
「考え過ぎだ。元々そう言う方じゃ、母上は」
と言って、侑菜の気を楽にしてやろうとする。
夕刻近くに露女が畑から上がって来た。侍女や雑色、それに奴婢達まで一緒である。その中に篠女も居る。
「殿様がお戻りで御座います」
舘に残っていた侍女が露女に告げる。
「そうかえ。早かったの」
そこへ侑菜と松寿丸を伴って千方が表れた。
「母上、只今立ち戻りまして御座います」
軽く頭を下げて、そう挨拶する。
「変わらず、健やかそうで何よりです」
懐かしさを表情に表し、露女が応じる。
「母上もご健勝そうで安心致しました」
「幸い、どこと言って悪い所も有りません」
「では、後程」
そう挨拶して、母の居室を辞した。
露女が着替えを済ませると、侍女が迎えに来た。千方がひとりで露女の居室に赴く。
「どうですか。散位と成って都落ちした気分は?」
「仕方有りません。ま、暫くのんびりしようかと」
千方は気楽にそう言った。
「暫くのんびりと? 呑気なものですね。これから、どんどん状況が厳しくなる可能性が有るとは思わないのですか?」
そう母に言われ、千方は
「じたばたしても仕方有りません。成るようにしか成らないでしょう」
と、答えた。
「やはり、そなたは甘い。麿の責任です。そなたの父上も爺様も、事の大きさは違いますが、いつもぎりぎりの処で生き残りを掛けて、考えて、考えて、考え抜いていました。そなたには、その緊張感が有りません」
のんびりとしていてくれたかと思っていたが、矢張り母は案じていたのだ。
「これは畏れ入ります。早速のお叱りですか」
そう言いながら千方は、母に心配させない為には、どう言えば良いのかと考えている。
「今は独り身では無いし、何よりも、いずれ下野藤原家を背負わねばならぬ立場に立たされていると言うことをお忘れなさいますな。そなたの代で下野藤原が滅びるようなことに成ったら、麿は亡き大殿に合わせる顔が有りません」
母の本音は矢張りそこに有った。
「そのようなことには致しません」
そう言い切るしかなかった。
「そうですか。その言葉信じましょう」
「参った。母上に早速のお叱りを受けた」
自分の居室に戻るなり、千方は侑菜にそう愚痴た。
「まあ、左様ですか? 麿は母上にお叱りを受けたことは殆ど御座いませんが」
侑菜はしらっとそう言った。
「麿は調子者と思われているからな」
と千方は自虐的に言う。
「きっと、母上様から見れば、いくつに成っても童のままなので御座いましょう」
「相当陳ねた童じゃな」
「ほんに」
侑菜は笑った。
「うん? やはり相当陳ねているのか、麿は。そのようなことは無いと言ってくれると思った」
まるで拗ねた子供のように、千方は侑菜に甘えた。
「甘う御座います」
侑菜はそう言い切る。
「そうか。甘いか」
「はい」
侑菜が又笑う。千方も笑ったが、直ぐ真顔に変わった。
「添うた時に申したと思うが、これから苦労を掛けることになる。済まぬな」
侑菜の目を見詰めてそう言ったが、侑菜も毅然として
「覚悟しております」
と答えた。
三日ほどして千方の姿は下野の小山に在った。
「都の情勢はいかがですか」
文脩が千方に尋ねている。
「麿も陸奥におったから詳しい事は分からん」
と千方が答える。
「この先、兼家様が実権を握る可能性は有りましょうか?」
兼家はこの四年前に右大臣に昇り、三年前には正二位に昇叙している。
「東宮(師貞親王)が大納言・為光様の娘御へのご執心並々ならぬと聞く。今上帝の後、師貞親王様が即位されても、兼家様の時代とはなるまい」
そう千方は己の見方を披露する。
「次に実権を握るのは、大納言・為光様と言うことでしょうか」
文脩はそう聞いて来た。
「分からぬ。入内して男子が生まれるかどうかにも寄る。しかし、いずれにしても摂関家の中の争い。さして興味は無い」
文脩が都の政情に強い関心を持っているのが分かったが、千方は関心が無い事を伝える。
「下野藤原の将来を考えるならば、先を読むことも必要ではないでしょうか」
「先を読んでどうする? まさか、摂関家の誰かに仕えるつもりではあるまいな」
懸念を率直に伝えた。
「いけませぬか? 世は既に摂関家のものです。問題はその中で誰が力を持つかと言うだけのことです」
千方は文脩の顔をじっと見た。
「忘れた訳ではあるまいな。千晴兄上、そして主・高明様は誰に嵌められたかを」
浮ついた文脩の気持ちを諌めるつもりで、千方はそう言った。
「父上に申し上げても無駄と思い、何も申しませんでしたが、兄上なら聞く耳を持って頂けると思っておりました。いつ迄、過去に拘っていても仕方無いではありませんか。現実を見るべきです」
千方は千常の言葉を思い出した。文脩には下野藤原を背負って行ける器量が有ると思うと進言した時、千常は『あ奴には兵の気概が無い』と切り捨てた。
『そう言うことだったか』と千方は思った。
「昔、『誰ぞの足許に平伏し、何もかも差し出すならば、命だけは永らえることが出来ようが、それはもはや男子では無い』と言われたことが有る。主とは『この方ならば』と自ら思い選ぶもので、権力にひれ伏すようにして選ぶものでは無い」
それが、譲れない下野藤原家の意志なのだと分かって欲しいと思った。
「そう仰ったのは父上ですね。いかにも仰りそうなことです」
「間違ってはおらぬと麿は思っている」
「左様ですか。分かりました。兄上のお考えに従います」
文脩はあっさりと引き下がった。だが、納得してのことで無いのは明らかだった。千常と文脩の考え方の違いは決定的だ。千方の立場は基本的に千常と同じだが、もし千方が当主を継ぐことになれば、文脩は、より強く自分の考えを主張して来るだろうと思えた。
下野藤原の存続と繁栄を第一とする文脩の考え方も分からなくは無いが、摂関家に仕えることは出来ないし、したくも無い。だが、それを文脩に理解させることが、果たして出来るだろうかと思う。下手をすれば、家を二分するような事態にもなり兼ねない。何としても、それだけは避けなければならない。母の言う通り、今のうちに考え抜かなければならないことだと思った。
十日ほど小山に滞在し、文脩や他の者達から、穀物の作柄や土豪達の動向などを聞き、自身でも歩き回り、顔見知りの者を尋ねて話し込んだりもした。
千方としては昔となんら変わらないつもりで居るのだが、いきなり尋ねて来た千方を見て、土豪達は慌てふためく。散位とは言え、従五位上は下野守より位階が上なのだ。
「無役の身じゃ、気を使わんでくれ」
と言ってみても余り効果は無い。ふらりとあちこち尋ねるのも、相手に気を使わせるとすれば考えものだなと千方は思った。
田舎に住むには、位階など窮屈でしか無い。しかし、これが権威と言うものかと思うと、都に在った時の己は、がんじがらめの状態で、体制の中で生きていたのだと言うことに気付いた。今は、その衣だけが纏わり付いているような気がした。
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