第二章 第9話 残影

文字数 7,133文字

 北国とは言え、じっとしていても汗が噴き出る季節になっていた。
 狐支紀(こしき)を捕えて後、平穏な日々が続いており、千方は夜叉丸(やしゃまる)秋天丸(しゅてんまる)と共に安倍の若者達と、狩や遠乗り、弓や太刀打ちの稽古に明け暮れている。
 そうした日々がそのまま千方に取っては、下野(しもつけ)山郷(やまざと)に居た時以上の鍛練となっており、夜叉丸、秋天丸には、安倍の若い郎等達への対抗心からの負けん気を起こさせていた。

 夜叉丸、秋天丸も背が伸びてはいるが、それ以上に千方の体は成長を続けている。
「もうじき、背だけは六郎様に追い越されそうで御座いますな」
 遠乗りから戻った千方を見て、朝鳥がそう呟いた。耳聡(みみざと)く聞き付けた千方が、
「そのほう、時々(かん)(さわ)る言い方を致すな。『背だけは』とは何か? 見ておれ、そのうち太刀打ちでも五本のうち三本は取って見せるわ」
と朝鳥に絡んだ。
「ほう」
と朝鳥が嬉しそうな笑顔を見せる。
「六郎様がその意気なら、これからは遠慮無く打ち込むことが出来ますな」
 千方がムッとする。
「今までは遠慮していたと申すのか?」
「さて、どうで御座いましょうかな?」
と朝鳥は(かわ)した。
「勝手に致せ!」
 初めて下野の隠れ郷に行った頃のように千方が(むく)れているのが、朝鳥には可笑しかった。

 庭で千方と立ち話をしている朝鳥の視線の先に、対屋(たいのや)で子供達と遊ぶ古能代(このしろ)の姿が映っている。
 障子(しょうじ)(ふすま)で覆い隠されている後の時代の建物とは違い、この時代の建物は、舘とは言っても、屋根と柱と床が有るだけのものだ。()の姿は(ふすま)(これは、衝立(ついたて)のようなもの)に隠れているが、古能代と子らの姿は遠目にも良く見える。
「六郎様」
 朝鳥が言った。
「うん?」
 千方は心も成長していた。以前のようにいつまで()ねてはいない。
「陸奥に来て、古能代は変わったとは思われませぬか?」
 そう朝鳥が聞いて来た。
「うん。あのように(なご)やかな古能代の顔、下野では見たことが無かったな。やはり、子らや()と一緒におるからであろうのう」
と千方も思う。
幾重(いくえ)にも重い物を背負っている男で御座います。下野に戻れば祖真紀(そまき)を継ぎ、ずっしりと重い物をもうひとつ背負い込むことになりましょう。このまま、この地で安穏(あんのん)に過ごさせてやりたい気も致します」
「そうよな」
 そう言った千方だったが、元より古能代の心の闇を知る(よし)も無い。命を賭けた戦いを経験したとは言え、未だ千方の心は恵まれた環境の中に有る少年のそれであり、苦悩という感情とは無縁のところに在った。


(てて)は又居なくなってしまうのか?」
 日高丸(ひたかまる)が不安げに古能代に聞いた。
「うん? いや、もう居なくなったりはせぬぞ。ずっと日高の側におる。ただ、この舘とは別の場所で暮らすことになる」
「別の場所? それはどこ?」
 日高丸が驚いたように聞く。
下野(しもつけ)という所に行く」
(かか)も一緒か?」
「ああ、(かか)も、高巳(たかみ)も一緒だ」
「いつ行くの?」
と日高丸はせっついて古能代に尋ねる。
「…… う~ん。そうよな。今暫くしてかな?」
「子らがおりますゆえ、冬になる前には発たねばなりませぬでしょう」
 子供達を(あお)いでやりながら、()が言った。
「下野に参れば、このような舘に住むことは出来ぬぞ。農夫達のような狭い住まいで、(かしず)く者もおらぬ」
と古能代が()に言った。
「じきに慣れます。吾はそのようなこと、少しも案じてはおりませぬ。それよりも、親子四人で暮らせることが何よりで御座います」
 ()は古能代を見詰めて嬉しげに笑う。
小鷺(こさぎ)、長い間、寂しい想いをさせた。許せ」
 そう言って、古能代が手を取る。
「はい。寂しゅう御座いました。でも、今、その分まで楽しゅう御座いますから、許します…… ふふ」
 小鷺と呼ばれた()が答える。困ったように少し眉根を寄せた古能代だったが、黙って小鷺の手を握り、左手で小鷺の手の甲を(さす)った。小鷺はその手を強く握り返し、古能代を見詰める。蒸し暑い中、一筋の風が吹き抜けた。
「あれ、涼しいこと」
 小鷺が微笑む。高巳丸(たかみまる)が母の膝に座ろうとした為、二人の手は離れた。
(なれ)が初めてここに来た時のことを思い出します」
 高巳丸の頭を撫で、(ひたい)の汗を拭いてやりながら、小鷺が言った。そして古能代も、その頃のことに思いを馳せた。

   
 秀郷の許しを得て陸奥に向かった古能代だったが、名取の辺りで国府の役人達に出会った。
 鎮守府将軍に就任した秀郷の木簡を持っていたので、逃げ隠れする必要は無かった。だが、秀郷の(めい)を受けて、何かの目的を持って陸奥に来たものと勘違いした役人が、しきりに多賀城まで案内すると言い張るので困った。
 当時の陸奥守(むつのかみ)は、秀郷より位階の低い、別の人物が勤めていたので、多賀城に行けば秀郷の思惑を知ろうと色々と聞かれるに違いない。後ろ暗いことは何も無いが、公務で来た訳ではない。それを説明しなければならない。しかし、そういう面倒なやり取りは、古能代は苦手だ。面倒になってその場を逃げ出してしまった。
 持って来た蝦夷の装束に着替え山中を進んだのだが、今度は胆沢(いさわ)の手前で、安倍の郎等達に出会った。最初、怪しまれたが、阿弖流爲(アテルイ)の血を引いている者と分かると、途端に態度が変わった。
「ここで暫しお待ちを」
と言い残して、郎等のひとりが舘に走った。 
 暫くしてやって来たのが、当時、雄熊(おぐま)と名乗っていた忠頼だった。
安倍雄熊(あべのおぐま)と申します。父がお会いしたいと申しております。(まこと)(おそ)れ入りますが、舘まで同道頂けますか?」
 高圧的ではない雄熊(おぐま)の態度に、古能代は好感を持った。だが、警戒心を解いた訳では無かった。郎等達や雄熊(おぐま)の様子に細心の注意を払いながら、一行に従って舘の門を潜る。

「さ、上がられよ。父が待っております」
 雄熊(おぐま)に促されて(きざはし)を上がる。広間正面には鋭い目をした都留儀(つるぎ)が座っており、両側には郎等達が居並んでいる。
 突っ立ったまま、古能代は郎等達の顔を見回す。もし一斉に襲い掛かって来られた時、まず誰を倒さねばならないか値踏みしているのだ。
「座るが良い」
 都留儀が静かに言った。古能代は、(かまち)近くにゆっくりと腰を下ろす。この位置なら、もしもの時には外に転がり出すことが出来る。胡坐(あぐら)()き、一応、型通り両の(こぶし)を突いて軽く頭を下げるが、視線は外さない。
「名は?」
 都留儀が尋ねた。
大道古能代(おおみちこのしろ)
 そうぶっきらぼうに答えた。
大道(おおみち)? 胆沢(いさわ)じゃの。阿弖流爲(アテルイ)の血を引いているとは真実(まこと)か?」
「五代の祖・杜木濡(そまきぬ)と言う者が、この胆沢(いさわ)より落ちて参ったと(さと)に伝わっております」
「確かに、阿弖流爲(アテルイ)が、娘と娘婿(むすめむこ)杜木濡(そまきぬ)の一族を逃れさせたという言い伝えは有る。だが、杜木濡(そまきぬ)一族の行方を知る者は居ない。何か(あかし)が有るか?」
「いえ、特に有りません。ただ、大和(やまと)に降る前の晩に、阿弖流爲(アテルイ)が皆を集めて語った言葉は、(さと)の言い伝えとして残っております」
「語ってみよ」
 古能代は、阿弖流爲(アテルイ)の様子、言葉を手短に語り、その後の杜木濡(そまきぬ)一族の逃避行に付いても触れた。
「ふ~ん。吾が祖父より聞いた話と大きく違う処は無いな。…… 古能代殿、祖先の地に良う参られた! 好きなだけ逗留されるが良い」
 厳しい表情を崩し笑顔になった都留儀が、大声で言った。

   
 それから三日ほどして、雄熊(おぐま)が、一緒に行って欲しい所が有ると古能代に告げに来た。
 雄熊(おぐま)と一緒に舘前の庭に出向くと、都留儀が待っていた。そして、清楚な感じの娘がもうひとり。誰だろうと気には成ったが、娘に特に引き合わされるでも無く、一行は裏山に向かった。
 頂上近くに洞窟がひとつ。
「おるか?」
 都留儀が声を掛け、暫しの時が経った。やがて、中から一人の老人が姿を現した。痩せこけて、骸骨が衣類を着たような老人だ。だが、身に着けている衣類は小ざっぱりとしていて不潔感は無い。長い杖を突いている。
「これはお舘。このような所へわざわざお運びとは珍しい。いかがなされた?」
と老人が都留儀に尋ねた。
 その細い体のどこに共鳴しているのかと思えるような、か細いのになぜか響きの有る声だ。
「体もだいぶ弱っているようじゃな。意地を張らず、そろそろ舘に移ってはどうじゃ」
 都留儀がそう(さと)す。
「意地を張っている訳では御座いませぬ。吾に取ってはここが何よりの棲家(すみか)。どうぞお構い下さるな」
 老人はそう返した。
「そなたの命を案じておる」
と都留儀。
「もう、既に長く生き過ぎております」
と老人は静かに応じる。
「…… 実はな、今日は引き合わせたい者があって、連れて参った」
 そう言って都留儀は、従っていた古能代が老人の視界に入るように、体を避けた。
 老人は、最初、無表情に古能代を見た。しかし、茫洋と世間を見ているような瞳が、次第に光を増して行く。
 いきなり老人の表情が崩れくしゃくしゃになったと思うと、杖を放り出し、がくっと両膝を突き、両の手を地に突いた。
「頭領! お懐かしゅう御座います。ようこそお帰り下さいました。吾は…… 吾は、長い長い間、ただひたすら、この日の来ることだけを待ち望んでおりました…… お帰りなさいませ…… そして、頭領を(たばか)ったことへのお許しを……」 
 それだけ言うと、老人はそのまま突き伏した。異変を感じた都留儀が、老人の両肩を持って引き起こす。老人は既に事切れていた。その両目には涙が溢れていたが、実に穏やかな死に顔だった。
 古能代には何が起きたのか理解出来ない。
「これは…… ?」
 都留儀の顔を見てそれだけ言った。
「許すとひとこと言ってやってはくれぬか。きっと、この老人には聞こえる筈じゃ」
 都留儀はそう言った。
「どういうことですか。吾には訳が分からん」
「この老人はな、安倍を救ってくれた倶裳射(くもい)と言う男の息子じゃ。我が祖父の祖父・大鹿(おおじか)阿弖流爲(アテルイ)の部下達の仲を取り持ってくれた男の息子なのだ。今の安倍が有るのも、この老人の父・倶裳射(くもい)のお陰と言っても良いかも知れぬ」 
阿弖流爲(アテルイ)の部下?』
「一体、いつの話なのですか?」
 古能代が(いぶか)しがるのも無理は無い。阿弖流爲(アテルイ)が大和に投降したのは、古能代が初めて胆沢(いさわ)を訪れた年より百五十年ほども前のことなのである。阿弖流爲(アテルイ)の部下の子と言う事は、阿弖流為(アテルイ)が投降した時十歳であったとしても、百六十歳前後と言うことになってしまう。
「吾が(わらべ)の頃、この男は既に相当な老人であった。それどころか、驚くことに我が父が童の頃にも老人であったと言うのだ」
「そんな馬鹿な」
 古能代は思わず苦笑いした。
(にわ)かには信ぜられぬことであろうのう。吾とて、童の頃に会うておらなんだなら、恐らく信じまい」
「人とは百年生きることさえ(まれ)に御座います」 
 古能代が都留儀に言う。
(いにしえ)の大和の大王(おおきみ)の中には、何百年も生きた者が何人もおると、大和人(やまとびと)から聞いたことが有る」
 日本書紀や古事記を読んだことは無くとも、そんな話は伝わっている。
「作り話で御座いましょう」
「であろうな。だが、この老人に付いて、吾は作り話をしてはおらぬ」
「お舘が偽りを申されているとは思いませんが、人が百五十年以上生きるとも信じられませぬ」
 嘘とは思わないが、どう理解して良いのか、古能代は混乱していた。
「吾は元より、誰も、古能代殿のことに付いてこの老人に話してはおらぬ。ところが、そなたの顔見た途端『頭領! お懐かしゅう御座います』とこの老人は申した。幼い頃に見た阿弖流爲(アテルイ)の顔とそなたの顔が、そっくりだったのであろう。倶裳射(くもい)は、我が祖・大鹿から得た大和の大規模侵攻に付いての情報を、いち早く阿弖流爲(アテルイ)に伝え大勝利に導いた。そして、大鹿と阿弖流爲(アテルイ)の元部下達の間を取り持ってくれたことで安倍の恩人でもある。
 だが、倶裳射(くもい)は、大鹿から聞いた話だと阿弖流爲(アテルイ)に告げなかったことを、死ぬまで悔やんでいたと言う。恐らくこの老人は、倶裳射(くもい)からその悔いを繰り返し聞かされていたのであろう。それが心に()み着いて、いつか己の想いと区別が付かなくなってしまったのかも知れぬ。父である倶裳射(クモイ)の悔いを通して、父と一体となっていたのではないかな。恐らくそれが、果てしなく生き続ける為の(かて)となっていたのだ。 
 或いは、生き続けることはこの老人に取って苦痛でしか無かったのかも知れぬ。そなたの顔を見た途端その苦痛から解き放たれたのだ。 …… だから、信ぜずとも好い。ひとこと許すと言ってやってくれ」
「名は?」 
 暫く黙っていた古能代が、やがてそう言った。
「分らん。吾は『老人』と呼び掛けていたし、話の中では、裏山の老人と言っておった。父や祖父は恐らく名を知っていたのであろうが、名を呼んだのを聞いたことが無い。郎等達の中では『仙老』と呼ぶ者が多い」
 遺体に歩み寄り、(ひざまづ)いて両手の指を組み、目を閉じて一度項垂(うなだ)れた古能代が、老人を抱き起こす。
「すべて許す。…… だが、そもそも、そこまで悔いるようなことでは無かった。(なれ)の父のお陰で巣伏(すぶし)では勝てたのだ。(なれ)達親子にそこまでの悔いを抱かせた、この阿弖流爲(アテルイ)にこそ罪が有った。許されよ」
 老人の遺体にそう強く語り掛けた。
「良う言うて下された。礼を申す」
 都留儀が古能代に向かって頭を下げた。そして、
「吾と雄熊(おぐま)は所用が有る。郎等共が来るまで、ここに居てやって下され」
 そう言い残すと、忠頼を連れて下山して行った。
 古能代が遺体を寝かせ再び手を合わせると、娘が近寄って来て同じように手を合わせ、(ふところ)から櫛を取り出して老人の髪を整え始めた。
「都留儀殿の娘御(むすめご)か?」
 古能代が聞いた。
 娘は古能代を見て少し微笑み「はい」とだけ答えた。
 古能代は、その後は何を言っていいのか分からず、老人の髪を()き、衣服を整える娘の姿をただ黙って見詰めていた。なぜかしら胸が騒いだ。


「ふふ、あの時、吾はどうしていいのか分からず、ただ仙老の衣服や髪を整えておりましたが、段々やることが無くなって来て、郎等達が早く来ぬかとそればかり思っておりました。だって、何も言って下さらないんですもの。女子(おなご)の吾から何を言って良いのかも分りませんでしたから…… そのうち、腹が立って参りました」
 小鷺が古能代にそう語り掛ける。
「吾も何を言って良いのか分からなかったのだ。今だから申すが、ドキドキしておった」
 古能代は照れて困ったような表情をする。
「まあ! でも怒ったような顔をされていました」
 小鷺はこの時とばかり追求する。
「この顔は生まれつきだ」
 古能代が答える。
阿弖流爲(アテルイ)という方は、きっと女子(おなご)にはやさしい方だったと思いますよ」
「吾は阿弖流爲(アテルイ)では無い」
「でも、そっくりなのでしょうね。実際に会ったことの有る仙老がそう思ったのですから」
「その辺りのことは今でも良く分からぬ。命尽きる寸前に、想いが形となって見えたのかも知れぬ。たまたま、そこに吾が居ただけじゃ」
「吾は、(なれ)阿弖流爲(アテルイ)の生まれ変わりと思いとう御座います」
 古能代を見詰めて、小鷺は強く言った。
「首を()ねられることになるのか?」
 何故話がそこにいくのかと、小鷺は少しムッとした。
「もう! そのような意地の悪いことを…… なにゆえ仰のるのですか? 嫌いで御座います」
「済まん。そう怒るな」
 慌てた古能代は、恐らく他の誰にも見せたことの無いような情けない表情を作って、小鷺に詫びた。

    
 小鷺は初婚では無い。十六歳の時、安倍家の有力な郎等の息子と夫婦となった。しかし、その男は間も無く戦いで死んだ。子は授かっていない。その後、都留儀は幾つもの縁談を小鷺に持ち掛けたが、小鷺は首を縦に振らなかった。
 都留儀の娘であり、見目も悪く無く、心持も優しい小鷺を何とかしようという郎等は、数多く居た。しかし、小鷺の心を掴む者は居なかった。
 そうしているうちに、小鷺(かさぎ)も歳を重ね、当時としてはもう乳母桜と見られる歳になっていた。さすが都留儀も諦めて、舘で安穏(あんのん)に一生過ごさせてやろうという気になっていたのだ。

 古能代(こなしろ)が陸奥にやって来たのはそんな頃のことだった。阿弖流爲(アテルイ)の血を引いていると確認した時、安倍が陸奥の蝦夷を統率するに当たって、大きな力になるとは思った。だが、()うに娘盛りを過ぎた小鷺を無理矢理押し付けようとすることはさすがに(はばか)られた。どうせなら、若い妹達の誰かを古能代と(めあわ)せたいと思った。

 普段から仙老の身の回りの世話をしていた小鷺を同行させたのは、なんらかの意図を持ってのことでは無かった。言わば、自然の成り行きである。
 古能代を見た仙老が興奮の余り命を落としたのも、予期せぬ出来事であったのはもちろんのことだ。だが、その事態に至り、仙老の遺体の前に並んだ二人の姿を目にした時、(かす)かな予感が都留儀の脳裏に走った。
「吾と雄熊(おぐま)は所用が有る。郎等共が来るまで、ここに居てやって下され」
 咄嗟(とっさ)に、古能代に言い残してその場を離れた。雄熊(おぐま)に所用など心当たりはなかったが、父が自分に何か用が有るのだろうと思った。
 特に命じずとも、小鷺は仙老の遺体を放ったまま、その場を離れてしまうような女では無い。自然と古能代と共に残ることになった。小鷺が十代の娘の頃であったなら都留儀も、阿弖流爲(アテルイ)の血を引いているとは言え、よそ者の古能代と二人きりで残すようなことはしなかったろう。そうした積み重ねが、古能代と小鷺を近付ける切っ掛けとなったのだ。かと言って、その場で古能代と小鷺が親しくなった訳では無い。古能代は『都留儀殿の娘御(むすめご)か』と聞いただけで、後はしかつめらしい顔をして黙っていただけだし、小鷺は、どうして良いか分からず、郎等達が早く来てくれぬかと思っていただけだ。ふたりが接近するには、その後、暫くの時を要した。一瞬にして燃え上がる恋も有れば、時を掛けて熟成されて行く恋も有る。古能代と小鷺の恋は、自然さを失わぬ速さで熟成されて行った。しかし、その過程をここで追って行くことはしない。
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