第四章 第9話 更なる危機
文字数 4,727文字
千晴は己の考えが間違っていたのかと考えていた。上洛する前に父・秀郷に言われた言葉を思い出した。
『高明様に臣従するのは良いが、他の公卿達とも道を着けて置くように致せ。世の中何が起きるか分からぬからな』
秀郷はそう言った。千晴は、それに対し反論はしなかったが、深刻なことと受け止めてはいなかった。実際には、上洛以来高明一筋で来た。それは、満仲を反面教師と考えたからかも知れない。
『あんなやり方でひとの信頼が得られるものか』と思った。
当初、それにも関わらず、高明が満仲を信頼していることが不思議でもあり、多少苛立ちもした。源氏の血。そんなものなのかと思った。より露骨ではあるが、図らずも満仲の方が千晴よりも秀郷の考えに近い生き方をしていた。逆境の中から己の力ひとつで立ち上がらなければならないと言う立場が、そんな考え方を生む共通項であったのかも知れない。千晴は、既に或る程度の力を持っていた父・秀郷の許で育っていた。
最近になると、高明が千晴を深く信頼しており満仲を軽視している事は、千晴にも感じられた。その限りに於いては、千晴は、自分は間違っていなかったと思っていたし、長年の忠勤が認められたことに喜びを感じていた。高明が躓きさえしなければ、その通りに成る筈だった。しかし、歴史にも人生にも『~たら、~れば』は無い。
都に於ける下野藤原家の拠点を築くと言う目的が頓挫してしまった以上、いつまでも千常の援助を受け続ける訳には行かない。坂東にも帰れない。この上は、己の所領からの上がりだけでやって行かなければならないと千晴は思った。まず、郎等達を集め暇を取りたい者を募った。千晴に見切りを付け離れたい者も居るのではないかと思い、言い出し易い雰囲気を作ってやろうと思ったのだ。
多くは、長年従ってくれている郎等達だ。自分から暇を言い渡すことは気が退けた。申し出た者は、それ程多くは無かった。千晴に見切りを付けた者ばかりではなく、事情を察して自ら身を退いた者も居た。まだ多くの郎等が残っていたので、十人程を残し、後は最後の頼みとして千常に引き取って貰うこととした。自分の舘を持ち別居していた久頼も、舘を処分し同居させることにした。
官職に就くことも考えた。叙爵(五位に上ること)などは、今となっては思うべくも無いが、六位相当の官職に就くことを考えた。力を失ったとは言え、その程度の官職に就けさせることくらいは、高明には出来る筈だ。だが、問題が有る。高明に、千晴までもが見限ったのかと思われることだ。右大臣から左大臣に転じたことで、規定に依り官から付けられる高明の家人は増えた。しかし、多くを占めていた従者達が、櫛の歯が欠けるように減り続けている。彼等は、猟官運動の為、無報酬で高明に仕え、その上、貢物まで贈り続けている地方土豪の子弟達だ。高明が力を失えば、見限るのは当然のことなのだ。
『小藤太までもが』と高明が思うのは間違い無い。例えば、文章生からの叩き上げで公卿に成った在衡であったなら、千晴の懐具合を推し量ることが出来るだろう。だが、皇族や名家出身の多くの公卿に取って、そんなことは思い及ばないことなのだ。何しろ、生まれてから家計の心配などしたことが無いのだから。それは、高明とて例外では無い。見限られたと思うだけだ。
藤原氏が権力を独占するには条件が有る。まず、帝の外戚であること。帝が幼いか自ら政を行うことが難しい状況に在るか、それが行える場合であっても即位した時には既に藤原氏の権力が確立してしまっており、その力を借りて即位したような場合である。
村上帝は成人で即位し、しかも、確固たる意志を持っていた。しかし、朱雀帝の時代に忠平の権力が確立してしまっていた為、忠平の存命中は思うことが出来なかった。忠平の死後、実頼、師輔兄弟とは妥協しながら、後に天暦の治と讃えられる親政を行ったが、実際には形の上だけの親政であり、妥協の産物であった。
村上帝の死に依って、全ての状況が変わった。即位したのは精神に病を抱える帝である。村上帝と妥協し、名を捨て実を取った師輔も今は亡い。そして、摂関家は、政敵・高明を死に体とすることに成功した。
まだ有る。皇太弟・守平親王は摂関家のお陰で皇太弟と成ることが出来たのである。亡き母・安子は、伊尹、兼通の妹であり兼家の姉である。そして何よりも、師輔の死後、外戚である摂関家の者が居なくなっていたのだが、伊尹が権大納言に転じたことで、近い将来、外戚として摂関と成り得る者が現れたと言うことになる。おまけに、伊尹は、父・師輔や伯父・実頼よりも権力欲が強い。
摂関家は慌ただしく動き出した。康保四年(九百六十七年)六月二十二日、実頼が関白に就任。九月一日、師尹が皇太弟傅(教育係)と成る。同日、兼家が次兄・兼通に代わって蔵人頭と成り、左近衛中将を兼ねた。また同日、師氏が東宮大夫兼任となる。
十月十一日には、師氏が正二位に上る。そして、十二月十三日には、実頼が太政大臣となり、師尹は右大臣、伊尹が権大納言に転じた。
翌康保五年(九百六十八年)八月十三日。改元され、安和元年となる。この年の十一月二十三日、伊尹は正三位に進んだ。明けて安和二年(九百六十九年)正月二十三日、兼通が参議となり、二月七日に兼家が中納言、二月二十七日には師氏が権大納言に転じた。
安和二年(九百六十九年)二月末時点での太政官主要公卿は、
関白太政大臣・従一位:藤原実頼
左大臣 ・正二位:源高明
右大臣 ・正二位:藤原師尹
大納言 ・従二位:藤原在衡
大納言 ・従二位:源兼明
権大納言 ・正三位:藤原伊尹
中納言 ・正三位:藤原師氏
中納言 ・従三位:橘好古
中納言 ・従三位:藤原頼忠
中納言 ・従三位:藤原兼家
である。
中納言・藤原頼忠は、実頼の次男である。長男・敦敏は天暦元年に流行した疫病に罹って死んでいる。
三月になったが、寒さの緩まぬ年であった。吹き荒ぶ寒風に丸くなりながらも、上気した頬に風が心地良い。満季が満仲の館に飛び込んで行く。
「兄者、やったぞ!」
居室に通るなり、大声で言った。
「騒々しい。何事じゃ」
満仲は眉を潜めた。
「千晴の尻尾を掴んだぞ。夕べ千晴が蓮光寺に現れたのだ。それでな……」
「まあ、少し落ち着け。話を聞くから、腰くらい降ろせ」
満季は興奮の余り、立ったまま話し続けようとしていたのだ。
前日のことである。千晴は、久し振りに蓮光寺で開かれる歌会に顔を出すことになった。叙爵の望みも無くなった今、和歌など学んでみても仕方無いし、そんな気も無くなっていた。しかし、橘繁延や源連が、たまには顔を出すようにと何度も使いを寄越していた。さぞかし気落ちしているであろう千晴を励まそうとしてのことだ。当初、誘いに乗る気にもなれなかった千晴だったが、いつまでくさくさしていても仕方が無い。たまには気晴らしも必要と思って、誘いに乗ることにしたのだ。
「これは千晴殿。皆様、既にお見えで、千晴殿はまだかとお待ち兼ねで御座いますぞ」
蓮茂が満面の笑みで千晴を出迎えてくれた。蓮茂の案内で庫裏に通ると、皆拍手で迎えてくれた。
「やあ、千晴殿、ようこそ見えられた。皆、お待ちしておりましたぞ。さ、さ、こちらに座られよ」
橘繁延が隣の席を勧めてくれる。
「皆様、ご無沙汰致して申し訳も御座いません」
千晴が皆に挨拶をしながら席に着く。
「何の。色々と大変で御座ったな。お察し致す」
源連が言い、更に続けた。
「左大臣様は、我等・源氏の希望の星であった。処が見よ。あっと言う間に、周り中摂関家だらけになってしもうた」
「これ、滅多なことを申すでない」
繁延が嗜めた。
「少輔様とて名門・橘氏。先帝が心血を注いで親政を目指されたのに、気が着けば全てが崩れ去って、又も摂関家がのさばる世になってしまっている。千晴殿で無くとも口惜しいわい」
「源大尉殿。お気を付けられよ」
蓮茂が心配そうに言った。
「分かった。蓮茂殿、控えておる我等の供の者達を全て使って、寺の周りを警戒させてくれ。その上で、本日は和歌をやめて狂歌の会とでも致そう。何、形に拘ることは無い。千晴殿も色々と心に積もっているものも有ろう。ここだけのこと。要は、それぞれ言いたいことを言おうではないか」
繁延がそう提案した。
「面白う御座いますな」
平貞節がそう応じた。
「分かりました。お供の方々にそのように伝えましょう」
そう言って蓮茂が一旦出て行く。
「今日は皆、心行くまで憂さを晴らすことと致そう」
橘繁延が皆に告げる。
「先帝が崩じられなければ、麿などあっと言う間に千晴殿に追い抜かれていたはずじゃ。千晴殿、決して嫌味で申しておるのではないぞ。千晴殿が出世も蹴って、ひたすら左大臣様に尽くされていたことは、皆、良く存じておる」
「いえ、麿などとても」
気晴らしと思って参加したが、千晴は『やはり来るべきでは無かったのでは』と思った。気を使ってくれているのは分かるのだが、発言が過激過ぎて居心地が悪いのだ。主・高明の立場は、今微妙なのだ。
「起こってしまったことは、申してもせんの無いこと。六位の官人に成ろうかと考えております」
と他意の無い事を強調する。
「ま、それも良いであろう。闇夜ばかりは続かぬ。いずれ、光明が射すことも有ろう」
と慰める者が居る一方、
「そもそも、あの立太子が、何とも胡散臭いでは御座らぬか」
と危険な発言をする者も居る。橘貞節だ。
「貞節殿。それを申してはならぬ」
千晴は貞節を止めようとした。
「皆そう思うておるわ。千晴殿、心配召さるな。周りは警戒しておるし、ここにおる者達は、源氏、平氏、橘氏、皆、摂関家を良く思ってはおらん。千晴殿とて、先祖の左大臣・魚名候が藤原北家に嵌められておるではないか」
止めようとしても、物騒な発言は止まらない。
「いっそのこと、為平親王を奉じて東国に逃れ、壬申の乱の再現でもやらかしますか。ははははは」
そんなことを言い出したのも、貞節だった。
「冗談にも度が過ぎておりますぞ」
千晴は剥きになって止めようとする。
「構わぬ、言うだけじゃ。千晴殿は坂東に基板を持っておる。やってみたら、ひょっとしてひょっとするかも知れぬぞ」
繁延までもが悪乗りを始めてしまった。
結局、和歌も狂歌も一首も作らず、馬鹿話をしたのみで散会した。皆、千晴を励まそうと思って話し始めたのだが、話しているうちに、己の持つ不満をも込め始め、妙に盛り上がってしまったのだ。参加者達がそれぞれ引き揚げ、すっかり静かになった庫裏の床下から這い出して来る男の姿が有った。あの検非違使の密偵である。
話を聞き終わって、満仲は腕組みをした。
「どうだ、兄者。お上を愚弄しただけでも大罪であろう」
埒も無い憂さ晴らしであるとは思った。満季の言う通り、お上を誹謗中傷した罪には問える。だが、そんなことでは面白く無い。どうせなら、これを利用して千晴も千方も一挙に葬り去ってしまえないかと思った。千晴は満仲に取って、もはや真面に相手にするような存在では無い。しかし、一寸先は闇。いつどんなどんでん返しが有るか分からない。叩く時には徹底的に叩かなければならない。水に落ちた犬は徹底的に打ち据えて、溺死させなければならない。さもないと、上がって来て噛みつかれる可能性も有るのだから。
「二、三日、この事は伏せて置け、勝手に動くな。考えが有る」
そう満季に命じた。
「分かった」
帰って行く満季を見送りながら、
『実態など何も無い、取るに足らぬ話をどう謀叛の謀議として作り上げるかだな』
満仲はそう呟いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)