第四章 第5話 帝御不例

文字数 4,874文字

 康保四年(九百六十七年)五月十日。高明(たかあきら)は村上帝に接見していた。
「そなたが右大臣に転じたこと、(ちん)は誠に心強く思うておる。即位以来、心に強く念じて来た我が想いにも光明が差して来た。いま少しの辛抱であるな」
 側近の者達も全て下がらせた上での言葉である。(こうべ)を垂れた高明(たかあきら)の上を、爽やかな(みかど)の声が渡って行く。 
「臣が微力なる(ゆえ)を以て、永らく御心(みこころ)(わずら)わせしこと、誠に(おそ)れ多きことと存じております」
 高明の言葉に、(みかど)は目を閉じ、僅かに顔を横に振った。
大儀(たいぎ)と察しておる。じゃが、いま少しのことであろう。力を尽くしてくれ」
「ははっ。(かしこ)まりまして御座います。なれど、これからは、一層、慎重に事を運ぶ必要が御座います。寝ている虎の尾を踏まぬよう、心して事に当たる所存に御座います。晴れ晴れとした御龍顔(ごりゅうがん)を拝する日を楽しみに一層力を尽くします」
 高明の言葉に(みかど)が頷く。
「頼むぞ」
との一言(ひとこと)に、
「ははっ」
と高明は(こうべ)を垂れる。そして、(みかど)が改めて
「右大臣」
と呼びかける。高明は(みかど)の次の言葉を待った。しかし、続く言葉が聞こえて来ない。思わず(おもて)を上げて(みかど)の顔を見ると、僅かに口を開き何かを言おうとしているように見えた。そして、その表情が悲しげに歪んだ。見てはいけないものを見てしまったような感覚に襲われ、高明は慌てて目を伏せた。
 通常、(みかど)が臣下と接見する時は御簾(みす)が降ろされており、臣下から(みかど)の表情を見ることは出来ない。しかし、高明(たかあきら)と二人だけで接見する時に村上帝は、いつも、御簾(みす)を巻き上げさせているのだ。何か言おうとして口だけが動いたように見えた。慌てて(おもて)を伏せた高明の耳に、少しの間を置いて、
「良い。またのことに致そう」
との(みかど)の言葉が聞こえた。頭を下げたままの高明の上を、(みかど)の力無い言葉が通り過ぎて行った。
    
 四日が過ぎた五月十四日。左大臣・実頼(さねより)と共に朝議の結果を(みかど)に奏上し決済を受けた後、高明は先に近衛詰所(このえつめしょ)に戻っていた。あの時、(みかど)は何を言おうとされていたのか。それがずっと気になっていた。考えが有って途中で話す事をやめたのか、或いは体調のせいで言葉に詰まったのか。それが気になって、奏上の際(みかど)の言葉に注意を払っていたが、その日には特に変わった様子は無かった。ひとまず安心という訳だが、何か漠然とした不安が沸き上がって来て、高明は、それを拭い去ることが出来なかった。
 その日のうちに、高明の(もと)蔵人(くろうど)の一人が顔色を変えて現れた。殿上で走ることは禁じられている。どんな緊急な時でもばたばたと足音を立てて走ることは無いのだ。腰を落として摺り足で精一杯急ぐ。そんな訳で、蔵人が姿を現す迄、高明は異変に気が付かなかった。悪い予感が当たってしまった。
「右大臣様。急ぎ清涼殿へお越しを。(みかど)がお倒れになりました」
 蔵人(くろうど)が声を()し殺して高明に告げた。それを聞くなり、高明は無言のまま清涼殿に急ぎ、昼御座(ひのおまし)に至った。東廂(ひがしびさし)御座(ぎょざ)が有り、孫廂(まごびさし)に控えた侍臣(じしん)御簾(みす)越しに接見し、政務を聞いたりする場所だ。しかし、そこに既に(みかど)の姿は無かった。御簾(みす)が荒々しく巻き上げられた跡が有るのみで、御座(ぎょざ)はがらんとしている。
 高明は急いで夜御殿(よるのおとど)に向かう。御簾(みす)の前は取り乱した女達で溢れていた。 
「静かに致せ」
 御簾(みす)の中から、(りん)とした声が響いた。中宮(ちゅうぐう)安子(あんし)は応和四年に既に崩じている。声の(ぬし)女御(にょうご)徽子女王(きしじょうおう)である。重明(しげあきら)親王の第一王女であり、母は藤原忠平の次女・寛子(かんし)朱雀(すざく)朝の伊勢斎宮(いせのいつきのみや)であり、その後、村上天皇の女御(にょうご)と成った。斎宮(いつきのみや)退下(たいげ)の後に女御に召されたことから、斎宮女御(さいぐうにょうご)と称されている。
 他に荘子(そうし)女王、藤原述子(ふじわらのじゅっし)藤原芳子(ふじわらのほうし)という女御(にょうご)達が御簾(みす)の中におり、御簾の外には多数の更衣(こうい)達が(はべ)っている。高明が現れたことに気付き、女達が脇に寄って道を開ける。実頼(さねより)御簾(みす)の直ぐ前に座っていた。
御容体(ごようたい)は?」
と尋ねる高明に、実頼(さねより)は悲痛な表情で大きく首を横に振った。
(いびき)をかいておられる。御意識(みいしき)は無いようだ。僧を手配しておるゆえ、今は唯ご快癒(かいゆ)を祈るのみじゃ」 
 実頼の言う『僧を手配した』と言うのは、死を予期してのことでは無い。病気平癒(へいゆ)の祈祷をする為だ。今で言う脳梗塞と思われる病人を直ぐに動かし、大勢の僧が昼夜を徹して大音量で、枕元で読経するのである。現代の常識からすれば命を縮めるだけのことでしかない。だが、この時代とすれば、それが唯一精一杯のことなのだ。必要な手配りをした後、実頼と高明は一旦清涼殿から下がり、公卿(くぎょう)達を緊急招集した。

 左衛門督(さえもんのかみ)でもある中納言・師氏(もろうじ)に各門の警備の強化を、検非違使の別当(けびいしのべっとう)・参議・藤原朝成(ふじわらのあさなり)に洛中警備の徹底を命じた。左近衛大将(さこんえのたいしょう)は高明自身である。右近衛大将(うこんえのたいしょう)である大納言・師尹(もろただ)と中納言・左兵衛督(さひょうえのかみ)源兼明(みなもとのかねあきら)には、不測の事態に備えるよう命じた。
 公卿(くぎょう)達は徹夜で御所(ごしょ)に詰めることになる。二日目の(うま)の刻頃になると、皆、疲労が限界に達して来ていた。
「麿がおりますゆえ、下がって少しお休み下され。何か有れば直ぐにお報せ致します」
 駆け引きなどでは無く、高齢の実頼を気遣って、高明の本心から出た言葉だった。
「お言葉に甘えさせて貰うことにする。歳には勝てぬな。何、少し休めば大丈夫じゃ」
 疲労の色がありありと見て取れる。御簾(みす)に向かって深々と頭を下げた後、読経の響く中、実頼は下がって行った。

 (みかど)御不例(ごふれい)との噂は、あっという間に都中を駆け巡った。噂から人心が乱れ、不測の事態が起こることを恐れ、太政官は(みかど)不予(ふよ)を公表し、歌舞音玉(かぶおんぎょく)を禁じ、不要な外出を控えるよう通達した。東市からも人の姿が消え、洛中が閑散となり、走り回っているのは検非違使のみである。

 同五月十四日。牛車(ぎゅっしゃ)と共に高明の退庁を待っていた千晴(ちはる)は、変事を聞き、(いち)郎等(ろうとう)にその場を任せ一人内裏(だいり)を離れた。 
 一旦、高明邸に寄り、家司(けいし)に報告をした後、舘の警備に当たっている自らの郎等達を集め、一層注意して警戒に当たるよう訓示した。また、留守居の郎等を廻し、警備を増強する旨伝えた。

 舘に戻ると千晴は、下庁次第(やかた)に来るよう久頼(ひさより)千方(ちかた)(もと)に使いを送った。検非違使らを除いて、下級官人(つかさびと)まで足止めは掛かっていなかった。

(みかど)が倒れられた。こうした時には変事が起き易い。内裏(だいり)の内におられる間はいかんともし難いが、それ以外の場所での高明様をお護りすることが第一。そして、お舘の警備。気が抜けぬ日々が続くことになる。そのほうらの力も借りねばならぬことになろう。心してくれ」
 眉根に(しわ)を寄せて千晴が言った。
「高明様のお立場はいかがなりますでしょう?」
 久頼が尋ねる。
「今、そのようなこと余り論ずべきことでは無いが、先ず、心配は有るまい」
下野(しもつけ)の兄上にも報せて置いた方が宜しいのでは」
 言ったのは千方だ。 
(なれ)に任せる。目立たぬようにな」
(かしこ)まりました」
「分かっておるとは思うが、大勢の郎等を連れて洛中を歩くことの無いように」
「心得ております」

 秋天丸は、目立たぬように単身徒歩で洛中を抜け、近江(おうみ)まで走った。そして甲賀(こうか)(さと)に入り、望月兼家(もちずきかねいえ)に訳を話して馬を借り、下野(しもつけ)へと向かう。兼家は(みかど)御不例(ごふれい)に付いては、既に情報を得ていた。

 満季(みつすえ)の使いから(みかど)御不例(ごふれい)と報され、満仲は考えていた。異常事態である。異常事態には事が動く。往々にして(まつりごと)の流れが変わる。いや、変える機会だ。今、自分に取って不都合なことが有れば、これを好機として好転させる方法を考える必要が有る。そう思った。
 満仲に取って不都合なこととは、高明が今、頼りにしているのは千晴のみで、満仲自身は都合良く利用されているだけではないかと思われる事。その結果、出世競争に於いて千晴に遥かに遅れを取ると言う(きざ)しが見えて来ていることだ。恐らく(みかど)が回復することは無いと満仲は思った。仮に(みかど)崩御(ほうぎょ)したらどうなる? (みかど)と高明の強い結び付きを考えれば、高明の勢いが弱まる可能性は有る。だが、決定的にと言うことは考えられない。取って代わるべき者が居ないからだ。
 今上帝(きんじょうてい)が崩じれば、次の(みかど)は皇太子・憲平(のりひら)親王である。(まこと)見目麗(みめうるわ)しい(みかど)の誕生となる。まだ十六歳。その上、尋常なお方では無い。
 伊尹(これただ)らが喉から手が出るほど欲しがっている摂政(せっしょう)の座が、摂関家に戻って来ることになる。だが、摂政の座に就くのは実頼(さねより)である。外戚(がいせき)では無い実頼が摂政と成っても大きな力を得ることは出来ないのだ。摂政と言う立場が大きな権力を生む訳ではない。良房、基経(もとつね)、忠平らが大きな権力を持っていたのは、摂関の地位に加えて、(みかど)外戚(がいせき)だったからである。
 実頼は元より、師尹(もろただ)師氏(もろうじ)も外戚には成れなかった。高明も憲平(のりひら)親王の外戚では無いが、その後を継ぐと思われる為平(ためひら)親王の(きさき)として娘を入内(じゅだい)させている。皇太子・憲平親王が帝位に就いたとしても、ごく短い在位期間となるだろうことは誰の目にも明らかだった。そうであれば、高明が絶対的な権力を握るのは、やはりそう遠い日のことでは無い。 
 だが、摂関家にも外戚は居る。伊尹(これまさ)兼通(かねみち)、兼家の兄弟である。憲平(のりひら)親王から見て、伊尹(これまさ)、兼通は母の兄、即ち伯父であり、兼家は母の弟であるから叔父となる。だが、兄弟の身分はまだ低く、摂関には程遠い存在でしか無い。伊尹は参議に列したばかりであり、兼通、兼家は参議にも成っていない。外戚とは言え到底、摂関に手が届く地位には無いのだ。伊尹の出世を待っていたら、高明の権力が確立してしまう。

 高明が権力を掌握する日。本来、満仲はずっとその日を待ち望んでいたはずだった。しかし状況は変わってしまった。今となっては、それは即ち己の敗北の日でしか無いと思えるのだ。血反吐を吐く思いでやって来たことが全て無駄となってしまう。やり方が間違っていたのかと満仲は思う。しかし、やはりこのやり方しか無かったと思い直す。とすれば、負け犬とならない為の方策を、なんとしても考え出さなければならない。長い間、満仲は考え続けていた。出世競争で千晴に勝つ方法をだ。努力だけで出世出来る時代では無かった。人脈や政治の流れに大きく左右される。それを運と言う者は多い。だが満仲は、そう言う者達を、怠け者の上に愚か者であると軽蔑した。己の才覚で出世して見せる。そう強く思っていた。
 一寸先は闇。だから、高明一人に賭けるのでは無く、あらゆる方面に人脈を作って来た。作る為には多くの財を使う必要があった。そして、それは綺麗事では行かないことも分かっていた。何でもやった。その結果、裏目に出たのかも知れない。全て間違っていたのかと満仲は思う。そしてまた、そんな筈は無いと思い直す。どうすれば現状を変えられるか。無駄なことで悩むことはやめて、そのことに集中して考え抜く。それしか無い。満仲は(はら)を決めた。

 十日ほど前に満季(みつすえ)が訪れた。相変わらず蓮茂(れんも)と言う僧のことに付いて、あれこれ話していた。蓮茂が将門と拘わりの有った円恵と同一人物ではないかと疑っており、それを立証する為に、家探しをする口実は無いかと密かに探っているのだ。
 正直少しは期待していたのだが、未だに有力な手掛かりは得られていない。きっと満季の思い込み、何も出て来るまいと満仲は思い、いい加減に聞いていた。その満季も今は、(みかど)御不例(ごふれい)に伴う警備強化に駆り出され、そんな探索どころでは無かった。
 
 五月二十五日。村上天皇が遂に崩御(ほうぎょ)した。倒れてより十一日目のことである。高明よりひとまわり若い、享年四十二歳であった。即日、皇太子が践祚(せんそ)。十六歳である。(ちな)みに、践祚(せんそ)とは天子(てんし)の位を受け継ぐことであり、これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位と言う。
 容姿端麗な若き(みかど)冷泉(れいぜい)天皇の誕生である。だが、この美しき(みかど)は、親王(しんのう)時代から数々の奇行の持ち主でもあった。例えば、足が傷つくのも全く構わず一日中蹴鞠(けまり)を続けたとか、幼い頃、父帝(村上天皇)に手紙の返事として、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送り付けたなど伝えられている。また、清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んでいたことも有り、病気で(とこ)に伏していた時、大声で歌を歌っていたことも有る。

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