第一章 第9話 芹菜と露女 Ⅰ

文字数 8,069文字

 千方は古能代(このしろ)に着いてゆっくりと馬の歩を進めている。(さと)から周回路を進んで、山に懸かり進んで行くと、途中一か所だけ分岐する場所がある。普段高速で駆け抜けている道なので気が付かなかったが、ゆっくり進んで行くと、大岩の陰にやや細いが馬一頭が通れるくらいの道が分かれている。曲がるとその先は谷間のようになっており、少し先に柵が見えた。
 一旦馬を降り、古能代が柵を開ける。その先で急角度に道は曲がっている。曲がるとその先には、かなり広い馬草場(まぐさば)が開けていた。そして、数十頭の馬が遊んでいる。
「なんと!」 
 千方が驚きの声を上げた。三方は低い丘に囲まれており、反対側は崖になっているようで柵が組まれている。千方は最初その広さに驚いただけだったが、少しして、或ることを思い出した。

 最初にこの郷に来た日のことだ。
『ご覧なされませ。田は無く、畑も僅かでござる。木の実、草の根、鳥、(けもの)の肉も食しますが、足りません。殿からのお下げ渡しの物が無ければ、この郷の者達は生きて行くことは出来ないのです』
 確かに、祖真紀(そまき)は朝鳥にそう言った。
『しかし、この馬草場をすべて畑にすれば、郷の食料を賄うことも出来るのではないか?』 
 そう思った。蝦夷(えみし)に馬は欠かせないのかも知れない。それは分かるが、しかし、人が生きて行く為の食料と引き換えにしても、これだけの馬を放し飼いにして置く必要はあるのか? 多少の広さを残して、後は畑にすることは考えなかったのだろうか?
 残念ながら、千方には、そのくらいの考えしか浮かばなかった。もし、朝鳥が一緒にいたら、食料を供給する代わりに、秀郷(ひでさと)が、この(さと)を軍事力として確保して来たことに気付いたことだろう。そして、それを千常が引き継いでいる。
「今は左程(さほど)お役には立ってはおりませぬ」という祖真紀の言葉も偽りである。
 それだけの働きをしているから、秀郷、千常はこの郷に食料を供給し続けているのだ。
 (うまや)に繋いで置くよりは、放牧している方が、馬が元気なのは当然のことだ。そしてそれは、即ち戦闘能力の差となる。秀郷も千常も決してお人好しではない。
「この郷にこんなに広い牧が有ったとは知らなかった」
 千方は素直に驚きを口にした。
「じきに(わらべ)達が戻って参りましょう。ここでお待ちなされ」
 鞣革(なめしがわ)の袋を千方に渡すと、柵を閉めて古能代は去ってしまった。 
 梅雨が明け容赦無い日差しが照り付ける中、青く生い茂った草を()んでは時折走り廻っている馬達を見ながら、千方は竹筒の水を口にした。
 心地良い風が吹いている。古能代から受け取った革袋を開けて覗いて見ると、萱束(かやたば)のようなものが、いくつかと木の(へら)のような物、それに、先の(とが)った棒が入っている。もう一本は(くし)のように切り込みを入れたものだ。
 手入れをする為には、まず、(くら)(くつわ)(はず)さなければならないが、取り()えず中のひとつの萱束を取り出して、馬の背から腹にかけて(こす)ってみる。しかし、馬は嫌がってか横に動いてしまう。厩に繋いである馬と違ってどうも勝手が悪い。手綱(たづな)を持って引くと、顔は千方の方に向いたものの、馬体は角度を変えて千方から離れてしまった。その上、千方を見た馬の目がどこと無くしらっとしているように千方には思えた。
 そして、千方が位置を変えて馬体に近付こうとして手綱を放した瞬間、ぶっるるっと鼻息荒く頭を振ったと思うや否や、馬は草を()んでいる仲間達の方に向けて走り去ってしまった。
 呆気(あっけ)に取られた千方だったが、すぐに、追っても無駄と判断し、萱束を革袋に戻し、それを肩に担いで日蔭に向かって歩き始めた。
 その時、(ひづめ)の音がし、(わらべ)達七~八人が牧に入って来た。(わらべ)達は千方に近付くと下馬し、頭を下げた。
「今、古能代様にそこで会って、六郎様に馬の手入れを教えるよう言われました」
 そう言ったのは、犬丸だった。犬丸以外の(わらべ)達の表情には何となく緊張感が漂っている。 
「馬は?」
 秋天丸(しゅてんまる)が聞いた。
 千方は、黙って、草を()んでいる馬達の群れの方を指差した。起きたことを察したのだろう。笑いを噛み殺した(わらべ)が二人ほど居た。だが、笑ってはいけないと、無理に表情を作って笑いを噛み殺している。
 その時、再び馬に飛び乗り「はっ」と軽く声を出して馬の腹を蹴った夜叉丸(やしゃまる)が、馬群の方に向って駆け出して行った。そしてすぐに、千方の馬の手綱を掴んで、引いて戻って来た。身軽に飛び降りると、ちょっと頭を下げ、黙ったまま手綱を千方に手渡した。犬丸のように愛想良くはないが、その行動で、夜叉丸は千方に好感を持たせた。
「済まぬ。失態であった」
 千方は頭を下げた。夜叉丸、それに他の(わらべ)達も戸惑ったように一斉に頭を下げる。郷長(さとおさ)でさえ土下座する殿様の弟が、自分達に頭を下げるなど有ってはならないことであったし、信じられないことだったのだ。何しろ、世間に於いては、もし道で貴人に出会った時は、庶民は道を避け道端に(うずくま)って頭を地面に付け、決して貴人の顔を見てはいけないという時代なのである。
 千方はそこまでの貴人では無いにしても、この(さと)から一歩も出たことの無い(わらべ)達に取って、一番の権力者である郷長が土下座をしなければならない人の弟なのである。その上、父という人は、この下野(しもつけ)ばかりでなく、武蔵(むさし)という国も治め、この郷の者達の祖先の地である陸奥国(むつのくに)まで治めたことのある、とんでもなく偉い人だと言う。(わらべ)達が戸惑うのも無理からぬことなのだ。
 千方が来る数日前「殿の弟君(おとうとぎみ)が、この郷に来て三年ほど我等と共に過ごされることになった」と祖真紀から聞かされた時、歳も十四と聞いて『面倒臭いことになりそうだ』と皆思った。やたら威張り散らされたり、何だかんだと、()き使われたりすることになるのではないかと心配したのだ。正直、来なければ良いと思った。
「特別な扱いは無用と殿は言われている」
 祖真紀はそう言った。しかし、そう言われても(わらべ)達の気は重かった。ところが、実際に来てみると、千方に偉振る様子は見られなかった。その時点で少しはほっとしたのだが、犬丸を除いては、挨拶しただけで、千方と話す機会はそれまで無かったのだ。犬丸から聞いた限りでは、自分達と何ら変わりの無い(わらべ)のように思えて来てはいたのだが、それが今、実感として感じられた。それに、来て間も無く自分達と同じ物を着るようになったことにも好感が持てた。
「馬に嫌われましたか?」
 さらに反応を探って見たくなり、秋天丸(しゅてんまる)が思い切って尋ねた。
「どうも、そのようだ。(こす)り方が良くなかったのかな?」
「この暑い中で(こす)られても、馬は気持ち良くは無いっしょう。水場の方に行きましょう」
と千方を誘う。
「そうか! そう言われればその通りだ。馬の気持ちなど考えもしなかった。済まん、済まん」
 そう言って千方は、馬の横腹をポンポンと平手で二度ばかり軽く叩きながら笑った。
 大岩の陰に水場があり、木も十数本生えていて日蔭を作っている。そして、隅には物置なのか、(かや)()いた小さな三角屋根がひとつ。犬丸がそこに入って行き、沢山の古布を抱えて戻って来た。
 (くら)(くつわ)を外して、それぞれが古布を取って、まずは馬体を丁寧に拭いてやる。千方も見様見真似で同じようにする。それから、萱束のひとつで毛並を逆立てるように、下から上へ掻き上げる。 
 どの萱束を使うのか分からず、他の(わらべ)が使っている萱束と見比べて革袋の中を探っていると、犬丸が寄って来て、革袋の中に手を突っ込み、
「これです」と渡してくれた。
「それに、これも」 
と言って、犬丸は(くし)のような板切れも取り出し、千方に渡した。萱束に着いた(ごみ)(あか)を萱束から掻き落とすのに使うようだ。一旦、上に掻き上げた毛並を、今度は別の萱束を使って上から下に()き下ろす。
 (たてがみ)の手入れをし、四本の脚も同じように手入れした後、脚を曲げて自分の膝の上に置いてやり、先の尖った棒で、(ひずめ)に着いた土を掻き落とし、間に挟まっている小石などを丁寧に取ってやる。その後、布を水に浸し絞って首の辺りに当ててやると、馬は気持ち良さそうに少し首を(よじ)った。それから水辺に引いて行くと、旨そうに水を飲んだ。
『暑くて喉が乾いていたのなら、何故(なにゆえ)真っ直ぐにここに走って来ず、草()みに行ったのだろうか?』と千方は思った。そして、『やはり、馬の気持ちは良く分からん』と結論付けた。
 ひと通り手入れを済ませると、(わらべ)達は、衣類を脱ぎ捨て下帯(したおび)((ふんどし))ひとつになって水場に入り、頭から水を被り、お互いに水を掛け合ってはしゃぎ始めた。
 それを見ていた千方だったが、すぐに自分も衣類を脱ぎ捨て、(わらべ)達の輪の中に飛び込んで行った。(わらべ)達は、千方にも遠慮なく水を掛け始めた。と言うよりも、いつの間にか千方ひとりが(わらべ)達の攻撃の(まと)となっていた。(わらべ)達の心から、ひとつの壁が取り払われた瞬間である。
「うわっ! 参った、参った。でも気持ち良いのう」
 暫くはしゃいだ後、千方を含めた(わらべ)達は、水から上がって草の上に思い思いに寝転んだ。
「六郎様」
 そのうち、ひとりの(わらべ)が千方に語り掛けて来た。
「武蔵の草原(かやはら)とは、どんなとこですか?」
 鷹丸(たかまる)である。(さと)(わらべ)達の中では、割と端正な顔立ちをしている。
「うん? そうだなあ、まず、周りに山が無い。それから、北に大きな川が有る。川の(へり)は高台になっていて、家が沢山有る。少し下がった辺りから田が続き、南へ行くと湿地が多い。(かや)が多く生えている。だから、草原(かやはら)と言うのかも知れぬな」
「山は全然無いんですか?」
 山中で生まれ育った(わらべ)達には想像出来ない風景なのだ。
「うん。遠くには見えるが周りには全然無い。冬の晴れた日には富士も良く見えるぞ」
「フジ?」
「そうだ。日本(ひのもと)一の山だ」
「吾も見たことがありますぞ、富士を。尾根に登った時良く見えました」
 そう口を挟んだのは犬丸だった。
「それは、浅間の山ではねえのか?」
 秋天丸(しゅてんまる)が突っ込む。
「いや、富士だ。(てて)がそう言った」
「都も見えるのかな?」
 もっさりとそう言ったのは長身の竹丸だった。
「都までは見えぬな」
と千方が答える。
「都は富士よりも遠いのかな?」
 竹丸が重ねて聞く。
「うん。麿も都に行ったことは無いが、ずっとずっと遠いと聞いておる」
「ところで、六郎様の(てて)様は偉えお人だってこんだが、どんな人だ?」
 聞いて来たのは、鷹丸の弟、鳶丸(とびまる)だった。兄に似て端正な顔立ちだが、顔が少し長い。
「うん? …… 実は、まだお会いしたことが無い。兄上に始めてお会いしたのも、この郷に来るわずか三日前のことだ。だから、分からぬ」
 一瞬、皆沈黙した。(うらや)ましいとしか思っていなかったこの人の人生にも影は有ったのだ。それが、(わらべ)達の思いの公約数であった。それは(わらべ)達に取って、ある意味衝撃であり、同時に(わらべ)達の心をまた少し、千方に近付けることにもなった。
「すいません。余計なことを聞いてしまいました」
 不味い事を聞いてしまったと、鳶丸は悔やんでいた。
「いや、良い。皆にも知って置いてもらいたいのだ。…… 麿は母と祖父に育てられた。この歳まで、一度も会おうとしてくれなかった父上に恨みさえ抱いていた。兄上が尋ねて来るまではな。父親の代わりは、祖父や叔父達が果たしてくれていた。だから、どんな偉い人かは知らぬが、一生会わずとも良いとさえ思うようになった。 …… しかし、兄上に連れられて下野(しもつけ)に来てから、急に会いたくなったのだ。考えて見れば、叔父や叔母達さえも、麿を呼ぶのに『様』を付けるのは、麿が藤原秀郷(ふじわらのひでさと)という人の子なればこそだ。そんな父上とは一体どんな男なのか? 何故(なにゆえ)母や麿をずっと放って置いたのか、直接会って聞いてみたくなったのだ。
 …… この頃、祖父に良く言われる。麿が大事にされるのは、すべて藤原秀郷の子だからだとな。もちろん祖父の言葉は悪い意味で言っていることでは無い。麿が増長するのを心配してのことだというのは分かっている。だが、もし、麿が父上の子で無かったら、己に一体何が残っているのか、それが分からなくなって来たのだ」
「なんか、六郎様の言っとることは難しゅうて良く分からん。けんど、(てて)に会うてみたくなったと言うことだけは分かった。でも、まだ会えておらんのですね」
「そうだ。実はこの郷に連れて来られる日の朝には、父上の舘に行くものだとばかり思っていた。甘かった」
「では、六郎様はここに来たことを悔やんでいるのか?」
 聞いたのは、秋天丸である。
「うん。一日くらいはそんな気持ちが有った。だが、すぐに諦めが付いた。ならぬものは仕方が無い。それよりも、兄上や父上が麿に何を望んでいるか分かった時、それに答えられる男になってから会えば良いと思うようになった。十四年待ったのだ。あと三年待っても良いではないかと思えて来た。 …… つまらぬことを話したな」 
 まるで、自分に語り掛けているような口振りとなっていた。誰も、返すべき言葉を思い着けなかった。少し重い沈黙の時が流れた。
 千方は、何故(なにゆえ)この者達にこんなことを話しているのか、自分でも不思議だと思っていた。こんなこと、今まで誰にも話したことは無い。それどころか、自分でも良く分からず漠然としていた思いが、もやもやが、言葉にして話してしまったことで、自分も『ああ、そう言うことだったのか』と理解出来たのである。郷の(わらべ)達に自分を理解して貰おうとして話したことでは無かった。
「朝鳥様に勝ちましたね!」
 重くなった雰囲気を変えようとしてか、秋天丸が、それまでに無い高い調子で言った。
「うん?」 
 千方は一瞬、面食らった。
太刀打(たちう)ちのことか?」
「はい。朝鳥様から、見事一本取りました。先を越されてしまって、正直、吾は悔しいのです」
何故(なにゆえ)知っておる?」
「見ておりました」
「何? 見ておった? 気付かなかった。この郷は、いつ誰に何を見られておるか分からぬところだな」
 驚くと同時に、少し薄気味悪くもあった。
「はい。それが、この郷の者達の役目ですから……」
と秋天丸は事も無げに言う。
「麿を見張ることが役目だと言うのか?」
 千方が不快さを表す。
「いえ、そういう意味ではなく、この郷の者達は、足音を消して歩くこと、気付かれぬよう跡を着けること、何日も野に伏して見張ることなど、幼い頃より(しつ)けられているのです。それで殿様のお役に立っております。だから、郷の大人達の三分の一ほどが、いつも交代で郷を留守にしております。でも吾は決して、六郎様を見張っていた訳ではありません。あれは、偶然見掛けただけです。ただ、癖で、つい姿を隠して見ていただけです」 
 秋天丸は必死に言い訳をしている。
「そうか? まあ良い。別に隠し立てするようなことも無い。あれは、たまたまじゃ。朝鳥に勝てたのは」
 千方に笑顔が戻った。
「いえ、お見事でした」
「そうか。だが秋天丸。(なれ)の素早さには及ばぬ」
「それしか、無いっすから、吾には ……。ところで、六郎様、本当に隠していることは無いのですか?」
 そう言って、秋天丸がにやりと笑った。それに連れて鷹丸、鳶丸、夜叉丸までもがにやにやし始めた。
「何だ、何だ。隠し事などしておらぬわ!」
 千方は少し()きになった。
「この頃、(さと)(めわらべ)達が、いつもそわそわしています。髪を()で付ける回数も増えとります。六郎様が歩いていると、ひそひそ話したりきゃっきゃと笑ったりしながら、遠くから後に着いて行きます。鳶丸(とびまる)など、想っている()が六郎様に夢中なので、気が気でありません」
「そんなことは無い!」鳶丸が秋天丸に反論した。「吾は(ほたる)のことなど何とも思っておらんわ」 
 剥きになっている鳶丸を見て秋天丸が笑う。
「吾は(ほたる)などと言うておらんぞ。己から白状したようなものだな。はっはっは」
(うるさ)いわ!」
 誂われた鳶丸はぷいと横を向いた。
「確かに、鳶丸は蛍を六郎様に取られるのではないかと心配しておった」 
 そう言ったのは犬丸だ。鳶丸はなにか言いたげに犬丸に近づいたが、言い返す事はやめたようだ。
「まあ待て、麿はそんなことは知らんぞ」
 割って入った千方は、そう言ったが心当たりが有る。この郷に来て間もなくの頃から、ひとりで歩いていると、少し離れて女(わらべ)達が着いて来ることが良く有った。だが、話し掛けて来る訳でもなく、何かきゃっきゃと騒いでいるだけなので、気にはなったが、どういうつもりなのか分からなかった。一度、何か用でも有るのかと、道を引き返してみようとしたら、皆居なくなってしまったことが有る。
『何だ!』と思ったが、正直少しがっかりしたことも確かだ。だが、千方の関心は他に有ったから、それ以上気にすることも無かった。話題の蛍がどの娘かは分からなかったが、どうやら(わらべ)達に一番人気のある娘らしい。多分、あの頬のぷっくらとした娘のことだろうと見当は付いた。
「鳶丸、心配するな。麿は蛍と話したことも無いし、どの娘が蛍なのかも分からぬくらいだ」
「心配はしておりません。大体、吾ひとりのように言うておりますが、秋天丸も旋毛丸(つむじまる)も犬丸も蛍を好いとるんです」
『どうだ違いないだろう』とでも言いたげに、鳶丸は、他の(わらべ)達を見回す。
「ほう、人気が有る娘なのだな」
 千方は、興味が湧いて来た。
「六郎様が好いとるのは芹菜(せりな)ではないのですか?」
 いきなり体を起こして、夜叉丸が言った。
「えっ?」
 先に声を上げたのは芹菜の弟である犬丸の方だった。夜叉丸に続いて犬丸も体を起こし、他の者達もそれぞれに起き上がった。
「違いますか?」 
 夜叉丸(やしゃまる)が畳み掛けた。
「う? あ、いや、何故(なにゆえ)そう思う?」 
 千方は少し狼狽(うろた)えている。
「もし、違っていなければ簡単なこと。この犬丸に手引きさせましょう」
「そんな馬鹿な。あんな(おのこ)女子(おなご)を、六郎様が好いている筈が無い」
 犬丸は本気でそう思っているようだ。 
「犬丸、もし、六郎様が芹菜と夫婦(めおと)になったら、(なれ)は六郎様の弟になれるのだぞ。そうなれば、吾に対して大きな顔が出来るし、吾も殴れなくなる。それでも嫌か?」
 夜叉丸に言われ犬丸は困ったように千方の方を見た。
「嫌とか、そういうことではねえが、…… 本当で御座いますか? 六郎様」
 狼狽えてみっともない姿を晒す訳には行かないと、千方は思った。
『成り行きに(まか)せるしかないか』
 そう思った。
「う? 参ったなあ、誰にも言うておらぬのに、そこまで見透かされては ……。その通りだ」
「あれ、六郎様。芹菜のこと思うて、毎晩、魔羅(まら)おっ立ててるだか?」
 竹丸がそう口を挟んだ。いきなり、夜叉丸が竹丸の頭を拳骨で殴り付ける。
「無礼なことを言うな! アレがでかいだけで、外になんの取り柄も()(なれ)と六郎様を一緒にするな。汝と六郎様は違うんだ!」
「何すんだ。いってえな。何も殴ることはなかっぺ。…… 恰好付けてっけんど、みんな、そうだっぺよ。女子(おなご)んこと思ったら、魔羅(まら)おっ立つっぺよぉ」
「もう一度、殴ってやろうか?」
と夜叉丸が再び拳を振り上げる。
「いい、いい。もうやめてくれ、頼むから。……」
「夜叉丸やめろ! 仲間を殴るでない。(なれ)の強さは、敵と出会った時の為に取っておけ」
「あ、はい、分かりました」
 夜叉丸(やしゃまる)は、多少不服であった。『殴らぬと分からぬ者もおります』と言いたかった。また、吾は口が上手く無いから、つい手が出てしまうとも弁明したかった。しかし、夜叉丸は既に千方を生涯の(あるじ)にしようと決めていたのだ。だから、反論することは無かった。
「よし、決まった。後は犬丸、汝の仕事だ。上手くやれ」 
 秋天丸がそう言って犬丸の背を叩いた。
「どうするんだ? 良う分からんが……」
(うつ)け! 芹菜をここへ連れて来れば良いだけのことだ」
「おい、おい。そう勝手に決めるな。芹菜は麿のことなど何とも思っておらん。(わらべ)としか思っておらんのだ。恥を掻かせる気か」
 千方が自嘲気味に言った。
「ご心配無く。その時は大人だということを分からせてやれば良いだけです。芹菜とて六郎様のことを嫌いな筈は有りません」
 秋天丸は退()かない。千方と犬丸は、それぞれ別の理由で浮かない顔をしている。ふたりはなんと無くお互い顔を見合わせた。
 
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