第四章 第2話 火種
文字数 5,276文字
階の上に立っているのは高明、下に控えているのは満仲である。人払いがされており、千晴も近くには居ない。
「申せ」
高明はそう言葉を発するが、視線は満仲の方には注がれておらず、空を見ている。
「はっ。申し上げます。動いているのは伊尹様で御座います。兼家様がこれに従っております。しかしながら、一の守様、権大納言様がこれに耳を貸しておられる様子は御座いません。また、兼通様とのご関係は宜しく無いようで」
視線は彼方に置いた儘、高明がひとつ頷く。
「要は、ばらばらと言うことであるな。だが、用心すべきは伊尹」
「御意」
「引き続き目配り致し、報せよ」
と高明の目は、変わらず満中には注がれない。
「ははっ」
それでも満仲は頭を下げて返事をする。
「そのほうが摂関家にも出入りし、節操無き者のように言われているのは存じておる。そして、それを許している麿を甘いと思っている者も多い。だが、同じ源氏。麿は気にしてはおらんぞ」
言葉では気遣いを見せているが、やはり、目を見て話すことは無い高明を、満仲はこの頃遠く感じる事が有る。
「有り難き仕合わせに存じます」
そう礼の言葉を述べる。
「皇孫である源氏の多くが二代、三代で庶民の身分にまで落ちて行く一方で、初めから臣下の身分であるはずの摂関家の子や孫達が、次々と高位に就いて行く。そう嘆いておった若き日のそのほうの姿を、麿は忘れてはおらぬ。源氏の者達が、それに相応しい働きの場を与えられる日は近いぞ。励め」
高明は、そう力強く言った。
「はは~っ」と満仲が深く頭を垂れる。満仲は右手の拳を地に突いたまま、左手の甲で涙を拭う仕種をしたが、本当に拭ったかどうかは定かでは無い。
「大儀」
そう言い残して、高明は背を向け奥へ消えて行く。面を上げて見送った満仲であるが、白っとした表情を見せる。
数日後、満仲の許に藤原善時が訪ねて来ている。満仲が権守として武蔵に赴任していた時、『介』として補佐してくれていた男だ。官位不足の満仲を軽く見ることも無く、権守として立ててくれ、良く仕えてくれた。
実は、善時自身も官位不足であった。大国・武蔵介の相当官位は正六位上であるが、善時は正六位下。但し、この程度の不相当は良く有ること。満仲のように異例の抜擢では無い。
上下の差は有っても、同じ六位の満仲を善時が軽く見ると言うことは有り得ることだ。しかし善時は、武蔵守であった満仲の義父・藤原敏有に気に入られており、良くして貰っていた。その恩を感じており女婿である満仲に好意的に接していたのだ。
満仲も人の心の動きの機微は分かっている。善時に対し、職権を笠に着て威張ることも無く、寧ろ、武蔵の事情に詳しい善時を頼るような態度で接していた。
京に戻ってから武蔵で例の一件に付いて調べるため郎等を派遣したことがあったが、その時も善時は協力を惜しまなかった。ところが、その後音信が絶えてしまい、満仲も気になっていた。それが、思わぬ所で最近再会したのだ。
善時は左大臣・実頼の従者と成っていた。本人が言いたがらないので、満仲も敢えて聞こうとはしないのだが、何か問題を起こして次の官職に就くことが出来なかったらしい。それで、実頼の従者となって只働きをしながら猟官運動をしていたのだ。苦衷を察して、満仲はそれと無く時々物を与えている。善時は素直にそれを感謝し、時々満仲の舘を訪ねるようになっていた。
「お耳に入れて良いものやら迷いましたが」
善時がそう切り出した。
「何かな。申されよ。もし、誰かが麿の悪口を言っていると言うようなことであれば、聞き慣れておる。臆することは無い」
と言って満仲が笑う。
「小耳に挟んだことなので、確かなこととは申せませんが、新任の右大臣様のことで、満仲殿に関わり有ることでして」
“新任の右大臣”とは高明の事だ。満仲の目が光った。
「聞こう」
と善時の目を見詰める。
「どうやら右大臣様は、千晴殿を将来の家司にとお考えのようで……。叙爵(初めて五位を授けられること)させた後、何か所か国司として地方を回らせ、官位を上げ、遥任と言う形で受領としての実入りを確保させ、家司としてお側に置かれるおつもりなのではないかとの噂が。いえ、噂ですので、真かどうか請け合い兼ねます。お話しすべきかどうか迷ったのですが。右大臣様に従ったのは満仲殿の方が遥かに昔からと聞いておりましたので」
善時は少し目を伏せ気味にして、満仲の視線を逸した。
「どのような筋からの噂じゃ」
満仲の目に鋭さが増す。
「恐らくは、左大臣様が誰かとお話しになっているのを、左大臣家の家司の殿が耳にされて、それを何かの時に下役の者に漏らされたのではないかと。それが、回り回って麿の耳に入って来たと言う次第で」
と噂を聞いた経緯を説明する。善時は今、左大臣家の従者である。噂とは言え、信憑性は高いと満仲は思った。
「余計なことじゃが、左大臣様は良き家司をお持ちでは無いな。そんな口の軽い家司は直ぐにでも暇を取らせるべきだとご注進申し上げたいくらいじゃ」
噂の出所が家司とすれば、益々確かな事と思われた。
「やはり、お気を悪くされましたか」
良かれと思って注進したが、やはり、満仲を不快にさせただけだったかと、善時は後悔した。
「いや、そう言うことでは無い。話と言うものは人から人へ伝わるうちにどんどん変わって行くものじゃ。風邪を引いたと言う話が、十人目には死んだと言う話に変わっていることすら有る」
満仲は埒も無い話と笑い飛ばしているように見せていた。しかし、その実、動揺していた。何とか五位に辿り着こうと必死になっている己が、只の愚か者に思えた。
善時が帰った後、満仲は他人を遠ざけて居室に籠っていた。腕組みをして思いを巡らす。正直言ってしんどい二十数年であった。気を抜ける日が無い。ただ、家を起こすという一念のみで突っ走って来た。待っていても誰も助けてくれぬ以上己で切り開く以外に無い。全てに於いて無理をしなければ出来ることでは無かった。
財が無ければ何も出来ない。しかし、真面なことをやっていても、財など得られるものではない。何でもやった。時は掛かったが、他人の悪口も余り気にならなくなった。得た財は右から左へ、また公卿達の懐に消えて行く。だから家計はいつも火の車。贅沢などは出来ない。そんな状況で千晴のような仕え方が出来る訳も無かった。負けたという想いが激しく沸き上がって来た。
高明は、源氏を積極的に起用して行くだろう。女婿、参議であり修理大夫でもある源重信が、朝堂に於いて高明の右腕となる最有力候補だ。更に、高明には男子が五人居る。気になるのは、重信が大夫を務める修理職に、千晴の弟・千方を押し込んでいることだ。しかも千方は一年毎に位階が上がり今は従六位下、職も少進と成っている。更に翌年には大進の席が空くことが決っているのだ。
千晴は、一旦五位に上がれば早い出世をするだろう。千方の出世が早いと言うことは、千晴の出世も早いと言うことだ。最終的には四位まで行くかも知れない。善時の話が事実なら、或いは参議となる可能性も有る。それに引き替え、自分は良くて正五位止まり。満仲はそう思った。千晴は高明の構想に入っているが、自分は入っていない。そう感じた。
少進と成った千方は千晴の舘を出ていた。千常に援助して貰い、左京・修理町に有る空き舘を手に入れたのだ。或る下級貴族が後継ぎの無いまま急死し、空き館となっていた物件だ。但し、そこは満仲の舘にごく近い一條通りと二条通りの間に有る。だが、三度目の襲撃以来狙われている兆候も無い。それに、自分の舘近くで襲うような馬鹿な真似は、満仲もしないだろうと思った。
地方の国司であれば、掾も序列三位の権力者として国司舘を与えられ、広々とした舘に住める。だが、都ではそうは行かない。貴族では無い数多い官人の一人でしかないからだ。だから、官舎はやはり手狭なので入居を辞退し、自前の舘を持つことにしたのだ。郎等長屋も有るので、夜叉丸、秋天丸、夜叉丸の妻・雛、鷹丸、鳶丸も舘内に住まわせることになり、朝鳥は別格として対屋に居室を与えることとした。隠れ家は引き払って、祖真紀と犬丸は下野に帰った。
暫く後に、祖真紀の弟で望月兼家の郎等・大道国家が訪ねて来た。祖真紀から文で、何かの時のことを頼まれたとのこと。兼家も引き受けてくれたので、何か有ればいつでも使って欲しいと改めて伝えに来たのだ。
あれから三度、義姉から嫁取りを強く勧められたが、千方は断っていた。鷹丸は女が出来、近く一緒になる手筈になっている。
鶏鳴の初刻(夜中の一時)に鐘が鳴る。終刻(三時)には御所の大内裏と内裏に通じる小門が開く。『開諸門鼓(諸門を開く太鼓)』の響く頃には貴族達が起床する。だが、千方はまだ夢の中に在る。貴族達には起床後の日課が色々有るが、下級官人である千方には、まだそんなことは無縁だからだ。
七つの太鼓が鳴る平旦の終(五時)頃起き出し、慌てて支度を整える。それでも修理職までは近いので日出(六時)迄には間に合う。
修理職は大内裏の東、大宮通りを挟んで陽明門の南に有った。現在の橋西二丁目、北蟹屋町の南部、荒神町の西南部辺りに当たる。東は猪熊通り、北は出水通り、南は下立売通りに接する。
三度目の襲撃以来危険を感じることも無いし、お互い官人と成っている今、いくら満仲兄弟でも、左京の自分の舘も近い所で千方を襲うなどと言うことは考えられない。だから供は小者一人で良いと千方は何度も言うのだが、夜叉丸、秋天丸の二人は頑として聞き入れない。朝は必ず付いて来るし、退庁時には迎えに来る。
修理識の北には、陽明門を護る左衛門府が有るが、その直ぐ東には、満季が看督長として勤務する検非違使庁が有る。それが、夜叉丸、秋天丸の懸念している理由なのだ。
職掌に付いて言うと、大夫は当然、修理識全体を管理する立場であり、亮はそれを補佐する立場である。それに対して進は、役所内を糺判し、宿直を把握し、公文書の監査・審査を担当する。現場での諸務を実質的に統括しているのは進なのだ。千方が最初に就いた属は、その下で公文書の作成・記録・受付・登録・管理・読み上げなどを担当する職だ。その下に史生と言う下級職員が配属されている。少進二人が大進を補佐する。属が作成した公文書の監査・審査が主な仕事である。様式に合っているか、語句の使い方に間違いは無いかなどの形式的な審査の他、人員の配置は適切か判断したり、資材の在庫と使用状況を突き合わせたりして、この先工事の進捗に問題が出ないかなども判断しなければならない。
机上の審査ばかりに気を取られていると、属の思い込みや怠慢に寄る間違いを見逃してしまう危険が有る。そう思って千方は、出来るだけ現場に足を運ぶようにしている。次いでに、補修が必要な箇所が他に無いかも見て回る。実は、そこ迄やっていると時が足りない。結局、退庁手続きを取った後、そう言ったことをやらなければならなくなっていた。そんな訳で、夜叉丸、秋天丸が修理職の門外で長く待たされることも多い。波乱含みの日々から平凡な官人の日常へと、千方の生活も変わりつつ有るかに見える。
だが、事は千方の知らぬ所で、別の方向へ動き始めていた。
「兄者、三度もしくじったのは申し訳無いし、言い訳も出来ぬが、そろそろほとぼりも覚めた頃。今一度やらせてくれ」
ここは満仲の舘。満季が満仲に話し掛けている。満仲はと言うと、満季の言葉が余り耳に入っていない様子で、何か想いに耽っている。
「兄者、聞いているのか」
反応を示さない満中に満季が突っ込む。
「煩いわ!」
突然、満仲が怒鳴った。満季はぎくりとして、満仲の方へ乗り出し掛けた身を引く。
「いや、済まぬ」
と我に帰ったように満仲が言った。
「良いか三郎。今度こそ仕留めるつもりで言うておるのであろうが、そう度々しくじっておったのでは、いずれ襤褸を出すに決まっている。そうなれば、こっちの命取りに成り兼ねん。今は汝もあの男も官人。まして汝は検非違使の職に在る身ではないか。私闘と判れば罰を受けることになる。そもそもの経緯を突き止められれば終わりじゃ。もう諦めよ」
と満季を諭した。
「だがしかし……」
郎党達を殺された恨みを、簡単に忘れ去ることなど、満季には出来ない。
「言うな! 雑魚などついでに始末すれば良い。もう、勝手に手を出すなよ」
満仲はピシャリと満季の反論を封じる。
「雑魚と言われれば雑魚には違いないが、"ついでに” とは…… 読めたぞ、兄者」
直情的な思考をする満季もハッと気が付いた。
「申すで無い。口に出してはならぬ。我等二人きりと思うて口にすれば、何かの折に、またふと口を突いて出てしまうものじゃ。言葉とはそう言ったもの。だから麿は、大事は、独り言であっても口にせぬ。いずれそのほうの力を借りる時が来る。それまで大人しくしておれ」
満季は黙って頷いた。
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