第四章 第6話 摂関復活

文字数 3,737文字

 時は掛かったが、一歩一歩順調に目的に近付いている筈だった。ところが、六十八歳の実頼(さねより)よりも、四十二歳の村上帝が先に逝ってしまった。高明(たかあきら)から見ても十二歳年下である。その結果、皇太子・憲平(のりひら)親王が即位し、村上帝と高明が最も恐れていた摂関(せっかん)の復活が不可避となった。新帝には摂政(せっしょう)が必要なことは、誰が見ても明らかなことであるから、高明も反対は出来ない。『先帝はどうお考えであったのか』と高明は思う。まさか、こんなに早く逝くとは思っていなかったことは確かだ。ならば、どう考えていたのか。早期に退位し、太上天皇(たいじょうてんのう)として自ら支えるつもりでいたのか。心を病んでいる憲平(のりひら)親王を廃嫡(はいちゃく)しようとはしなかった。
 憲平親王は第二皇子(みこ)であった。当時は外祖父・師輔(もろすけ)の力と言われたが、異母兄の広平親王を押し退()けて、生後間もなく立太子(りったいし)されたのだ。やはり可愛いがっていたと言うことであろう。

 結局、摂関復活を許してしまうことになるのだが、高明(たかあきら)は、まだ悲観してはいなかった。摂政(せっしょう)と成っても実頼(さねより)外戚(がいせき)では無いので、強大な権力を手にすると言うことは無い。そう長くは無いであろう今上帝(きんじょうてい)の在位期間だけの辛抱である。
 それ以前に、高齢や(やまい)を理由に実頼が致仕(ちし)(引退)を願い出るか、或いは(こう)じる可能性も有る。そうなった時、高明を飛び越えて摂政を引き継げる者は居ないのだ。
 一方高明は、皇太弟(こうたいてい)に立てられると(もく)されている為平(ためひら)親王に娘を嫁がせている。子はまだだが、男子誕生となれば為平親王即位後は、(みかど)の義父、皇太子の外祖父と言うことになるのだ。

 為平親王の下には守平(もりひら)親王が居る。母が違えば祖父の身分の違いにより、弟が立太子されると言うのは良く有ることだが、二人とも母は同じ安子(あんし)である。また、弟の方が聡明と言う場合も逆転は有り()る。しかし、兄・為平親王は聡明との評判が高い。その上、村上天皇は為平を愛しており、婚礼の時には、村上帝自身が安子と婚礼した際の例に(なら)って、宮中の昭陽舎(しょうようしゃ)で式を行わせるなど、将来の皇位継承候補としての待遇を与えていたのだ。これだけ揃えば、高明に為平親王の立太子を疑う余地は無かった。

 実頼(さねより)の早期致仕(ちし)などを望んでいた高明(たかあきら)だが、認めざるを得ない実頼の摂政就任である。考えように寄っては、扱い(にく)師尹(もろただ)とやって行くよりも、実頼の方がやり易い。高明は、為平親王の立太子を差し(さわ)り無く運ぶ為にも、暫くは実頼の健在を願うことにした。

 村上帝崩御(ほうぎょ)冷泉帝(れいぜいてい)践祚(せんそ)から十日ほど()った六月五日夕刻。
「大納言様がお見えで御座います」
家司(けいし)が、寛いでいる実頼に告げに来た。 
「何? 師尹(もろただ)が参ったと申すか。はて、何であろうか?」
 前触れも無かったし、内裏(だいり)で顔を合わせた時も何も言っていなかった。
伊尹(これまさ)様、兼家様もご一緒で御座います」 
と家司が続けた。三人揃って顔を出すなど、かつて一度も無いことだった。父・忠平の法要の予定でも忘れていたのかな、と実頼(さねより)は考えてみた。だが、当面そんな行事は無い。伊尹(これまさ)と聞いて『(うるさ)い奴』と思った。一人なら追い返すところだが、師尹(もろただ)が一緒となると、そうも行かない。
「分かった。通せ」
と命じた。

「何事じゃ。揃いも揃って珍しきこと」
 皮肉交じりに実頼が二人を迎える。
「前祝いに御座います」
 師尹が言った。
「何の?」
 実頼には心当たりが無い。
「新帝のご即位により、関白ご就任と成る前祝いに御座います」
と、愛想良く伊尹(これまさ)が説明する。 実頼は伊尹をぎろりと睨んだ後、師尹(もろただ)の顔を見た。そして、『さては、若造に籠絡(ろうらく)されおったか』と思った。
「まだ、何も決まっておらぬ。先走った真似は慎め」
と一括する。
「新帝に摂関の必要なことは、誰の目にも明らか。決して先帝のご意思に背くものではありません。右大臣様とて反対は致しますまい」
 師尹がそう反論した。
「それはそうだが……」
 実頼(さねより)にはきっぱりと返す言葉が無い。 
「色々と事情の有ることゆえ、兄上に申し上げるのは差し控えて参りましたが、代々引き継がれて来た摂関の座を我等の代で手放したこと、心苦しく、また、亡き父上(忠平)にも申し訳無く思うておりました。この機会にそれを取り戻し、子孫に伝えることは我等の努めとは思われませぬか?」
と師忠に迫られた。
「子孫に伝える? 仮に麿が摂関の地位に就いたとして、その後はどうする?」
と、実頼(さねより)は問い返す。
「麿、伊尹(これまさ)、兼家と引き継いで参ります」
「右大臣がおるではないか。右大臣が外戚(がいせき)と成れば、摂関の座はそのほうらには渡らん」
 実頼が積極的になれない最大の理由はこれなのだ。
「そこで御座います。それには策が御座います。要は、為平(ためひら)親王様が皇太弟に成られることに依って、右大臣様が外戚(がいせき)と成る可能性が出て来る訳ですから、守平(もりひら)親王様に皇太弟と成って頂けば宜しい訳です」
「無理だ。弟君(おとうとぎみ)を立てる理由が無い」
 実頼も考えてはみたものの、無理と判断せざるを得ない関門である。
「無ければ作れば宜しい」
 伊尹がそう言い切った。そして、
「先帝がお倒れになった時、お側に居たのは、左大臣様おひとりと聞いておりますが、間違いは御座いませんか?」
と、続けて念を押した。
「その通りじゃ」
 伊尹の思惑を理解出来ないまま、実頼が返事をする。
「その時、(みかど)が『憲平(のりひら)の次は守平(もりひら)を立てよ』と仰せになったとしたら?」
 実頼の発想からは出て来る可能性の無い大胆な提案を伊尹は当然の事のように言い切る。。
「そんなこと、右大臣が信用する筈が無い」
 己の発想には無い大胆な提案に、本能的に、実頼は拒絶反応を示す。
「事前に漏れれば騒がしいこととなりましょう。しかし、詮議(せんぎ)の席で突然披露し多数が賛成すれば、右大臣様に反論の余地は無くなりましょう。まさか、関白を嘘つき呼ばわりする訳にも参りますまい。万が一、右大臣様がそのようなことを言い出されたとすれば、それこそ思う壺。一挙に(ほうむ)るのみです」
「恐ろしいことを考えおる」
 実頼(さねより)は伊尹に恐怖さえ覚えた。
「全ては摂関家の為。我等には伝統を絶えさせない責任が有ると心得ております」
伊尹(これただ)は当然の事のように言い切る。
「まず兄上が、そして我等が引き継ぎ、無事伊尹(これまさ)らに摂関の座を渡せば、九条流(くじょうりゅう)(師輔(もろすけ)の家系)だけでは無く、我等の子や孫、すなわち小野宮流(おののみやりやゅう)(実頼(さねより)の家系)の者達も等しく引き立てる。熊野牛王(くまのごうおう)誓詞(せいし)を以て誓っても良いとまで申しておるので、麿も伊尹(これまさ)の話に乗ったと言う訳だ。千載一遇の機会とは思わぬか? 兄上。今は、身内の些細な(わだかま)りに(こだわ)っている場合ではあるまい。この機を逃し、摂関の地位から遠退(とうの)くようなことになれば、先祖に対して申し訳無いばかりでなく、子孫にも(そし)られることになるそう思わぬか、兄上」
 師尹(もろただ)にそう説得されると、実頼(さねより)も言い張ることが大人げ無いような気に成って来た。実際、摂関の地位に就かない、或いは就けないことに負い目を感じていたことも事実なのだ。
「そのほうらの申すことは、あい分かった。関白は受ける。だが、立太子(りったいし)に付いては、そのほうらが申すほど簡単なことでは無い。暫し待て」
 伊尹(これただ)は、今日こそ一気に実頼(さねより)を落とす意気込みでいた。しかし、ここに来てまだ迷っている素振りに(いら)ついていた。
「ここまで打ち明けた以上、我等もう後には退けません。左大臣様には、そこのところを十分お考えの上ご決断をお願い申し上げます」
 最早脅しである。実頼は思わず怒鳴り付けたくなった。だが、ぐっと(こら)えた。
「そなたらの意は十分汲んで考えてみることとする。暫し時をくれ」
と、辛うじて感情を抑えて言った。

 六月十九日の詮議(せんぎ)実頼(さねより)は満場一致で関白に推され、二十二日に(みことのり)が発せられた。
 当初、高明(たかあきら)は、実頼の官職に付いては、摂政(せっしょう)と考えていた。摂政は、幼い(みかど)や、何らかの理由で(みかど)(まつりごと)を行えない場合、又は女帝の場合、(みかど)に代わって(まつりごと)を行う者であり、いわば条件付きの役職である。
 それに比べて関白は、成人の(みかど)を補佐して(まつりごと)を行う官職である。補佐である関白よりは、代行である摂政(せっしょう)の方が権限は大きいように思えるが、この時代、実質的に同じである。
 冷泉(れいぜい)帝は加冠を済ませている(成人している)こと。表向き、(まつりごと)を行えないとするのは(はばか)られることなど勘案して、関白に落ち着いたのだ。 

 九月十三日には、関白の特権として、実頼(さねより)牛車(ぎゅっしゃ)に乗ったまま宮中に入る。また、諸節会(せちえ)に於いて階下に行列せず、(みかど)と共に、殿上より見下ろす立場を認められる。
 十月十一日。高明(たかあきら)師尹(もろただ)の二人が、従二位(じゅにい)から正二位(しょうにい)昇叙(しょうじょ)。十二月十三日には、実頼が太政大臣と成り、これに伴って、高明が左大臣、師尹が右大臣に転じた。他には、源兼明が正三位(しょうさんみ)・中納言から従二位(じゅにい)・大納言へ、従三位(じゅさんみ)権中納言(ごんちゅうなごん)橘好古(たちばなのよしふる)が、位階そのままで、兼明の後任として中納言に昇っている。
 だが、特筆すべきは、前年には正四位下(しょうしいのげ)・参議でしかなく、この年、権中納言に成ったばかりの伊尹(これまさ)が、一挙に従三位(じゅさんみ)権大納言(ごんだいなごん)に躍進したことである。
 その一方、大納言・藤原在衡(ふじわらのありひら)と中納言・師氏(もろうじ)は、位階、官職とも据え置かれ、出世していない。在衡は文章生(もんじょうしょう)上がりの七十六歳であるから、無視されることも有ろうかとは思われるが、師氏(もろうじ)は弟に抜かれ、甥にまで抜かれてしまったのである。高明と摂関家、更には、摂関家の中での様々な駆け引きの結果の人事だった。
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