第一章 第4話 昔語り・阿弖流為の涙

文字数 11,956文字

 朝鳥と祖真紀(そまき)がそんな話をしている間に、着替えた千方(ちかた)が戻って来た。
 茶の貫頭衣(かんとうい)七部丈(しちぶたけ)の半ズボンのような簡易な(はかま)、足には足の裏前半分しかない草鞋(わらじ)という姿だ。色の白さと整った顔立ちを除けば、全く(さと)(わらべ)と変わらないいでたちである。
「どうか? 似合うか」
 なぜか千方(ちかた)は気に入っている様子だ。
「寒うは御座いませぬかな?」
 祖真紀(そまき)が尋ねた。
「大事無い。こう見えても丈夫な(たち)じゃ。だが、(きびす)が、ちと痛いのう。ま、そのうち慣れるか……」
「血豆の二、三回も潰せば、足の裏も丈夫になりましょう」と朝鳥。
他人事(ひとごと)ではないぞ、朝鳥。その方もこれを履くのじゃ」
「生憎と、麿(まろ)の足の裏の皮は、元々厚う御座いましてな」
と朝鳥が返す。
「厚いのは(つら)の皮の方であろう」
と千方が突っ込み、
「言われ申したな。朝鳥殿」
祖真紀(そまき)が笑いを漏らした。

 二人を案内し住まいに戻った祖真紀(そまき)は、千方(ちかた)に正面の熊の毛皮を敷いた席を勧め、昨夜と同じように、朝鳥と向かい合って坐った。昨夜は席を外していた祖真紀(そまき)()が草を煎じた飲み物を椀に入れて運んで来たが、すぐに外に出て行った。
「もう、百五十年近くも昔の話になります。五代前の先祖から語り継がれているこの(さと)の始まりについての伝承で御座います。まずは、お聴き下され」
祖真紀(そまき)が話し出した。
「うむ」と朝鳥は身を乗り出す。
「我等の祖先は、その頃、大和(やまと)との戦いに疲れ果てておりましたそうです。陸奥(みちのく)胆沢(いさわ)という地でのことで御座います」
「百五十年前の陸奥国(むつのくに)胆沢(いさわ)……」
 朝鳥には思い当たることが有るようだ。
「みちのくの胆沢(いさわ)。尤もそれは大和(やまと)風の呼び名で御座います。なんでも『道の奥』が『みちのく』と(なま)ったようですが、我等は”日高見国(ひたかみのくに)”と呼んでおります。言い伝えに寄れば、遠い昔、我等の祖先は、坂東から遠く尾張の方にまで住まいおりました。しかし、大和(やまと)に追われ東へそして北の地へと追い込まれていました」
「坂東には、元々蝦夷(えぞ)が住んでおったのか?」
 千方(ちかた)が驚いた様子で尋ねた。
「はい、左様で。ですが、大和(やまと)がいきなりやって来て、武力で我等の祖を追い払ったと言うことでは御座いません。恐らく、我等の祖と大和(やまと)の民が()み分けて、互いに交流があった時期もあったので御座いましょう。ただ、我等と大和では大きく違うところが有り申した。大和はひとりの大王(おおきみ)(もと)に纏まって行きましたが、我等はそれぞれの(おさ)の許、細かく分かれたままで、崇める神も違えば、祭も衣服も様々でひとつの纏りとなることはありませんでした。言葉さえ違う者達もおったので御座います。それぞれがそれぞれの生き方をしていたので御座います」
大王(おおきみ)とは、(いにしえ)(みかど)のことで御座います」
 朝鳥が千方(ちかた)に説明する。
「大和は人も増え、上からの命令もあり、次第に我等の祖の住む土地を侵すようになったそうです。
 その際『その方達は未開の者共であるから、好き放題に生きておるが、人は秩序をもって生きなければならない。我等は米の作り方や人としての守らねばならぬことを教えるので、(すなお)に従い、礼を身に着ければ、大和(やまと)臣民(しんみん)としてやろう』
 そのようなことを言って来たそうで御座います。誇り高い我等の祖は、当然そんな話には乗らなかったと思います。すると大和(やまと)は、武力を以て我等の祖を追い払おうとして来ました。先ほども申し上げました通り、我等の祖は小さな部族に分かれており、お互いの連携も無かったので、次第に東へ北へと追いやられたのです。
 戦いに敗れ、大和(やまと)に下った者達も多くおりました。しかし、一旦下った者達の多くが、反乱を起こしました。
 それは、自分達の祭や毎日の行いを認めて貰えず、すべて大和(やまと)風にするよう強制されたばかりでなく、大和(やまと)の民と同じく口分田を与えるので、野蛮な狩りなどせず農作業に専念するようにと言いながら、多くは、痩せて、米どころか桑さえも育たないような土地を与えたからで御座います。 ……いや、申し訳御座いません。大和人(やまとびと)である六郎様や朝鳥殿にはこんな話は面白くは御座いますまい」
 祖真紀(そまき)はそう言って、千方と朝鳥の顔を見た。
「いや、我等が思っていたこととは大分違うが、(みこと)らから見れば、そういうことであったのかのう」
 朝鳥はそう言って頷く。
 これを、大和側から見るとどうなるか、日本書紀にこんな記述がある。
『中でも最も強いのが蝦夷(えみし)である。蝦夷は男と女が雑居して暮し、親子の礼儀を知らない。冬は穴に住み、夏は木の上で暮らしている。(けもの)の皮を着て動物の血を好み、兄弟は仲が悪くて争ってばかりいる。山を登る時は鳥のように速く、獣のように野原を駆けまわっている。人から恩を受けてもすぐに忘れるが、人に恨みを持つと必ず仕返しをする。自分の身を守ったり、仕返しをするためいつも頭の髪に矢を差し、刀を隠し持っている。仲間を集めては、朝廷の国境に侵入して農家の仕事を邪魔し、人を襲っては物を奪ったりして人々を苦しめている』
 これは、景行天皇が蝦夷の平定に向かう息子の日本武尊(やまとたけるのみこと)に語ったとされる有名な言葉である。
 しかし、もちろん、日本武尊は架空の人物だし、この文章自体も、日本書紀編纂に際して、漢籍の記述を引き写したもので、全く架空の描写で蝦夷の実態ではない。蝦夷とはこんなに野蛮な者達だと言うことを強調し、自らを正当化しているに過ぎない。
 蝦夷の方にしてみれば、平和に暮らしていたところに、いきなりやって来て植民を始め、言うことを聞けと言われた訳だから反発しない方がおかしい。
 だが、当時の蝦夷は祖真紀(そまき)の言葉に有る通り、少数の集団が分立している状況だったから、組織立った抵抗運動は出来なかった。
 一方の大和(やまと)王権側も、大部隊を動員して、軍事力で制圧したという訳でもない。植民をするために柵を設け、蝦夷を追い出し、小規模な抵抗を制圧しながら、従うなら許すと説諭を加えて行ったのである。その“説諭”に応じない者達を、“まつろわぬ者”として排除して行く。言わば、緩やかな侵略を古代より繰り返していたのだ。
 朝鳥が「六郎様」と千方(ちかた)に呼び掛けた。
「なんじゃ?」
と千方が答える。
将門(まさかど)をどう思われますかな?」
将門(まさかど)?」
 千方(ちかた)にはなんのことやら分からず、朝鳥と言う男、突然意味の分からぬことを言い出す男だなと思った。
「父上が討った朝敵であろう」
とぶっきらぼうに答える。
「はい、左様で。千晴(ちはる)の殿からの便りに寄れば、京での大殿の評判は、それはそれは大したもので、都を震え上がらせた朝敵を討った大将軍ということで、(わらべ)に至るまで知らぬ者は無いほどだそうで御座います」
 父を褒められて気分が悪い(はず)もない。
()も有ろう」
と満足げに答えた。
「何でも、近江(おうみ)の辺りで大百足(おおむかで)を退治したという話まで、(まこと)しやかに語られているとか」
「父上は近江に行かれたのか?」
 初めて耳にする話に、千方がそう尋ねる。
「いえ、少なくとも将門(まさかど)追討後は、西国(さいごく)、畿内などには足を踏み入れてはおりませぬ。そんな所へ行ったら、それこそ太政官(だじょうかん)の思う壺に御座います。将門(まさかど)の方は都でその首を(さら)されましたので、鬼のような形相をした絵が描かれているそうに御座います。ところが、ところがです。この坂東には、討たれたのは実は影武者で、将門(まさかど)は今も生きていて、山に隠れて世直しの策を練っていると信じている者達もおるのです。下総(しもうさ)常陸(ひたち)武蔵(むさし)足立郡(あだちごおり)辺りには多いと聞きます」
 千方には愉快な話ではない。
「何と、()しからんではないか。そのような者共、何故(なにゆえ)ひっ捕えんのか」
 ()きになって言った。
「民達が待っているのは将門(まさかど)では御座いません。民達の苦悩を救う、架空の救世主に御座います。将門(まさかど)の乱が成就して(まつりごと)を実際に行っていたとしたら、将門(まさかど)は、あるいは、民たちの怨嗟(えんさ)(まと)になっていたかもしれません。そう思えばこそ、大殿は将門(まさかど)を討ったのです。都には都の思惑があるように、坂東には坂東の思惑が有ります。申し上げたいのは、立場が変われば物の見方も違うと言う事です。まして、大和(やまと)と蝦夷ではものの見方が逆であっても不思議では無いと言うことで御座います」
 朝鳥の言うことは、千方(ちかた)には良く分からなかった。しかし、何やら、草原(かやはら)の祖父が言っていたこととどこか似ていると思った。
「続けられよ、祖真紀(そまき)殿。決して不快とは思うておらん」
 朝鳥は、祖真紀(そまき)に、話を続けるよう促した。
「それでは、お言葉に甘えて続けさせて頂きます」
 祖真紀(そまき)はまた話し始める。
大和(やまと)は我等が祖先の反乱を恐れました。その対策として、恭順した者達を従わぬ者達と戦わせること、反乱の恐れのある者達をばらばらにして、各地に分散させることなど、我等の祖達の力を削ぐことに力を入れ始めたのです。そして、反乱の規模が大きくなると、大軍を以て制する策へと変わって参りました。
 それに対し、(ようや)く我等の祖も、複数の部族が連合して大和に当たるようになって参りました。伊佐西古(いさしこ)諸絞(もろしま)八十島(やそしま)乙代(おとしろ)といった首長達が、徐々に部族を纏め、今までより多くの集団で大和(やまと)に当たるようになりました。
 一旦、大和(やまと)に下った者達が、その扱いに耐え切れず反乱を起こし、我等の祖の(もと)に戻って来たことが、大和(やまと)を知るための貴重な情報源となりました。ですが、やはり、それぞれの立場と思惑があり、(いま)だ、ひとつになったとは言えませんでした。しかし、その後間も無く、皆をひとつに纏めることが出来る偉大な男が現れたのです」
「今も語り継がれるあの男じゃな」
 朝鳥が口を挟んだ。
「はい。大和(やまと)では、賊の首魁(しゅかい)として語り継がれているので御座いましょうが、我等に取っては一大英傑で御座います。その名を阿弖流爲(アテルイ)と申します。阿弖流爲(アテルイ)はある首長の息子でしたが、若い頃から、その武勇を他の部族にも知られる勇者でした。しかし、ただそれだけでは無く、自分の損得を超えて、困っている部族があればこれを助け、自ら出来ないことは他の首長を口説いて助けるよう促す。そして、首長達を積極的に尋ね親交を深め、一致して大和(やまと)に当たることが必要なことを、折に触れて説いて回わったそうです。互いに敵対する部族を仲直りさせようとして、暗殺されかかったこともあったそうで御座います。
 阿弖流爲(アテルイ)の話に耳を傾ける首長が徐々に増え始め、伊佐西古(いさしこ)諸絞(もろしま)ら大物首長達も阿弖流爲の後押しをしてくれるようになり、遂には、阿弖流爲(アテルイ)の父も息子の力を認め、まだ壮年だったにも拘わらず首長の座を阿弖流爲(アテルイ)に譲り補佐に回ったそうです。
 こうして、我等の祖達も、すべてとは行きませんでしたが、(ようや)く日高見の者達が団結して大和(やまと)に対抗するようになったので御座います。
 延暦八年(七百八十九年)六月のことと言われておりますが、阿弖流爲(アテルイ)が最初に指揮を取った巣伏(すふし)の戦いでは、我等の祖、日高見の民が大和(やまと)軍に圧勝しました。
 大和(やまと)は五万の軍を以て押し寄せて参りましたが、衣川(ころもがわ)の辺りに布陣すると、秘かに軍使を送って来たそうに御座います。一人の武者に二人の随員と案内役として、大和に下った男ひとりがやって来たそうで御座いますが、殺してしまえという皆の声を抑えて、『何を言いに来たのか聞いてみようではないか』と阿弖流爲(アテルイ)はその者達と、場所を選び互いの人数を決めて会ったそうです。
 軍使は阿弖流爲(アテルイ)に会うと、尊大な態度でこう切り出しました。
『この度、朝廷は五万の大軍を繰り出して、この地を囲んでおる。これ以上手向かい致さば、女子供を含めてその方らすべての夷賊(いぞく)は根絶やしになるであろう。(おそ)れ多くも(みかど)はこれ以上辛抱ならぬとお怒りなのだ。しかし、我等が総大将・征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)様はお情け深いお方でのう。最後の機会を与えようと申された。依って、麿(まろ)がそのお言葉を伝えに参った。心して承れ。書状を(つか)わされたが、その方ら文字も読めぬであろうから読み聞かせて(つか)わす。良っく承れ』
 そう言って、手紙を取り出して読み始めたのです。
『その方ら蝦夷は、(いにしえ)より此方(このかた)、我が良民を苦しめ、田畑を荒し、馬を奪い、非道を重ねてきた。朝廷よりの慈愛に満ちた説諭にも応じぬまつろわぬ者共をこれ以上許す訳には行かぬ。
 (かしこ)くも(みかど)(めい)により、この道の奥まで討伐に参ったが、特別の温情を以て最後の機会を与えようと思う。
 もし、武器を捨て一旦、(ばく)に付き心を改めるならば、その罪一等を減じ特別の計らいに依って、この地に留まり、安寧(あんねい)な暮らしをすることを差し許す。御法を守り(めい)に従うならば(みかど)臣民(しんみん)として命を永らえることが出来よう。くれぐれも心して思案致せ』
 そして、手紙を巻きながらこう付け加えましたそうで。
『これは内々のことじゃが、もしその方ら素直に恭順の意を示さば、阿弖流爲(アテルイ)には大墓公(たものきみ)、副首・母礼(もれ)には盤具公(いわぐのきみ)と名乗ることを差し許すとのご内意も得ておる。無用な(いくさ)はやめて、我等に下れ。その方が良いぞ』
 軍使が手紙を差し出すと、阿弖流爲(アテルイ)は無言で受け取った後、こう申しました。
『言われる通り、我等は文字は読めぬ。そればかりで無く、大和(やまと)の言葉も難しいことは分からぬ。(なれ)が今言ったこと、難し過ぎて吾には何のことやらさっぱり分からぬわ』
 聞いていた日高見の者達は、始めはクスクスと、やがてはゲラゲラと笑い出しました。
『うぬ、我等を愚弄(ぐろう)するか! 夷族(いぞく)共めが』
 軍使は怒り出しました。阿弖流爲(アテルイ)は黙って手紙を破り捨てたそうに御座います。
(おのれ)、許さぬ!』と軍使の男が太刀に手を掛けた瞬間、日高見(ひたかみ)の者達が襲い掛かり三人の大和(やまと)の者達は、体中を差されて息絶えたそうに御座います。
 ひとり残った案内役の男は『好き好んで、大和(やまと)に従っていた訳ではない。機を見て逃げ出し、もう一度大和(やまと)と戦うつもりでいた。大和(やまと)の者達は我等を人として扱ったりはしない。(だま)されてはならない。吾をここに置いてくれ。きっと役に立って見せる。頼む』と泣き付いたそうです。
 阿弖流爲(アテルイ)は、暫く黙ってその男を見下ろしておりましたが、やがて『大和(やまと)の手先となって何人の日高見の民を殺した?』と尋ねました。
 そして『もしあの男が我等を見下したことを申している間に刺し殺しておれば、ここに残ることを許しただろう。だが、今となっては遅い。同胞(はらから)ゆえ命までは取らぬ。大和の者達のところへ帰れ。そして伝えよ。例え吾ひとりとなっても日高見の民の誇りは守るとな』
 それは、何としても日高見の地と民を守り抜くという、阿弖流爲(アテルイ)の強い決意の籠った言葉だったので御座いましょう。項垂(うなだ)れて男が去った後、阿弖流爲(アテルイ)は申しました。
『奴らは楽をして勝とうと思っておる。ならば、楽に勝てると思わせてやろうではないか』
 案内の男がその後どうなったかは分かりませぬ。当時の胆沢(いさわ)は、稲作も行われ、縦横の道が整えられ、両側には田が広がるそれは豊かな地となっていたそうに御座います。阿弖流爲(アテルイ)は、何としてもこの地での戦いを避けたいと思案を巡らし、日高見川(現・北上川)の東岸に拠点が有るように大和(やまと)軍に思わせることから策を始めたのです。
 当時、大和(やまと)に下った者達の多くが『()を以て()を制す』との大和側の考えに基づき、先頭を切って日高見の者達と戦うよう仕向けられていました。
 その扱いに耐え切れず離反し大和に背く者達も多くなっていましたが、仕方無く大和(やまと)に従いながらも、同朋(はらから)と戦うことに苦しんでいる者達も多く居たので御座います。まずは、そうした者達を通じて、阿弖流爲(アテルイ)の拠点は日高見川の東側に有るという偽りの情報を朝廷軍に流したということで御座います。

 四千人の大和(やまと)軍の精鋭が川を渡り、日高見軍三百人ばかりが迎え撃ちました。ですが、この三百の兵は実は(おとり)でした。少し戦っては退き、また少し戦っては退きと、徐々に大和(やまと)軍を北へ北へと誘って行ったので御座います。
 日高見川(北上川)の東岸は、南の平地は広く北へ行くに従って山が迫り、一旦狭くなっております。大和(やまと)軍は戦いながら進み、再び広くなる辺り、対岸の巣伏(すふし)村(現・岩手県奥州市江刺区、四丑(しうし))から日高見川を渡河して来る別働隊と合流しようとしておりました。しかし、その別働隊は、既に日高見軍に依って、渡河を阻まれていたのです。
 十分に敵を北に誘った後、三百の日高見軍は八百の本軍と合流しました。更に、阿弖流為(アテルイ)は東の山にも手勢を伏せていました。大和軍が通り過ぎた東の山から、四百の日高見軍が現れ、大和軍を挟み撃ちにしたのです。日高見軍は大和軍の大将首二十五を挙げ、多くの兵を弓矢の餌食としたそうに御座います」
「うん。その戦いの記録を読んだ方に伺った話じゃが、弓矢により命を落した者は二百四十五名だが、日高見川に追い落とされ溺死した兵が千人余りに上ったそうだ。(よろい)を脱ぎ捨て何もかも捨てて、裸身にて泳ぎ渡った者のみが助かったと聞いておる」
 朝鳥は感慨深げに腕を組んで頷いた。
「千人も溺れ死んだのか!」
 千方(ちかた)は驚いた。
「はい。この戦いに依って阿弖流爲(アテルイ)の名は陸奥(みちのく)中に鳴り響き、日高見付近の族長達は元より、遠く津軽や渡島(としま)の族長達までもが使いを送って来て、阿弖流爲(アテルイ)は押しも押されもせぬ頭領と成ったので御座います。
 (ようや)く、我等の祖はひとつになる兆しを見せ始めていたので御座いますが、大和(やまと)に支配されぬ日高見国を作るという望には遥か遠いものでした。
 大和(やまと)は、決してそれで諦めたりはしませんでした。この戦いに大勝したことが、果たして良かったのか悪かったのか。今となっては分かりません」
「その阿弖流爲(アテルイ)がこの(さと)と関係有るのか?」
 千方(ちかた)が尋ねた。
「はい、()(てい)に申せば、我等は、その阿弖流爲(アテルイ)の子孫に御座います」
「ふん。それで”亡霊”と申したのか?」
 朝鳥が頷きながら言った。
「五年後の延暦十三年(七百九十四年)には、大和(やまと)は倍の十万の軍を以て攻めて参りました。阿弖流爲(アテルイ)は奇襲を掛け、策を以て対抗し、山に潜み野に伏せて半年ほども戦いましたそうです。そして、遂に撃退したのですが、前回と違い日高見の民も大きな痛手を蒙りました。数多くの戦士が死に、胆沢(いさわ)の地も荒れ果てました。
 前回の失敗に懲りて用心深くなっていたことも確かですが、この戦いでは、大和(やまと)(みかど)側近の若き副将軍、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)という男が前線で直接指揮を執っていたことが、その前の戦いとは大きく違うところでした。田村麿(まろ)は、それ以前の指揮官達と比べ、愚かでも怠慢でもありませんでした。 ……いや、これは口が滑りました。お許しを」
「気にするな。朝廷にも愚かな者は大勢おるわ」
「恐れ要ります。それでは続けさせて頂きます。
 田村麿(たむらまろ)阿弖流爲(アテルイ)の仕掛けた罠にそう簡単に(はま)ることはなかったそうです。そして田村麿(まろ)は、ただ攻めるだけではなく、一方で、大和(やまと)に下った者達を使って、阿弖流爲(アテルイ)に対して、投降を呼びかけることもしていたのです。
『仮にこの戦いを(しの)いだとしても、朝廷は決して諦めない。繰り返し大軍を送って来るだろう。そなた達にも理があろう。されど、一人残らず殺されるまで戦うつもりか。愚かなことである。麿(まろ)が指揮を執っている間に降伏すれば、悪いようにはしない。多くの民のために聞き分けよ』
 田村麿(たむらまろ)は、繰り返しそう呼び掛けて来たそうです。しかし、その時は、阿弖流爲(アテルイ)に降伏するつもりは全く無かったのでしょう」
(みかど)は何としても終わらせたかったのじゃ。その年は、都を長岡京から平安京に移すという大事業の年であったからな。
 だからこそ、当時、近衛少将(このえのしょうしょう)であった若き側近の田村磨(たむらまろ)様を副将軍に任じられたのじゃ」 
大和(やまと)軍を追い払ったものの、村々は荒れ果て、多くの者が命を失い、冬を前にして十分な食料を確保することも出来ませんでした。餓死する者も多く出たそうに御座います。しかし、先ほども申しました通り、阿弖流爲(アテルイ)(もと)、皆が力を合わせ、大和(やまと)に支配されぬ日高見国(ひたかみのくに)を作ろうという気概だけは盛り上がっていました。直接(いくさ)に拘わらなかった北方の者達が、胆沢(いさわ)に食料を送って来たりもして、(かつ)て無かった連携が生まれて来ていたのです。
 しかし、それは長く続くものではありませんでした。北の寒い冬。それが二年三年と続くうち、どの部族も自分達が生きることに精一杯となって行き、とても他を助ける余裕など無くなって行きました。そんな中、またもや、大和が大軍を送り込んで来るという噂が聞こえて参ります。
 いずれ来ると覚悟はしていても、それが目前に迫って来ると動揺する者達も出て参ります。あと何度戦ったら安穏(あんのん)な日々が訪れるのか? あと何人死ねば子供達に安らかな日々を与えられるのか? そう思うと、せっかく盛り上がった気運もしぼみがちになります。中には、自分達のみの安寧(あんねい)を願い、大和に通じる者達も出て参りました。
 仕方の無いことだったかも知れません。何しろ、いつまで戦ったら真の勝利が得られるのか誰にも分からない状態だったのですから。そして、日々追いつめられて行く生活は現実のものとして目の前に有る。誰も明日に希望を持つことが出来なくなっておりました。前の(いくさ)で多くの村々を焼き払われた胆沢(いさわ)付近は本当に荒れ果てた状況になっておりました。大和(やまと)の次の侵攻がいよいよ目前に迫ったある日、阿弖流爲(アテルイ)は近郊の部族を集めました。

 (おさ)達が阿弖流爲(アテルイ)を囲み、その後ろには六百人余りの民人(たみびと)が集まっておりました。目を閉じ、暫く黙っていた阿弖流爲(アテルイ)は、やがて小さな、しかし良く通る低い声で話し始めたそうです。
 その声が六百人の民人(たみびと)に伝わるほど皆静まり返っておりました。
『夕べ、垢離武佐(こりむさ)(ばば)が食を絶って死んだ。『吾は大事な(かて)を糞に替えることしか出来ぬ。日高見の民の為に戦う者の(かて)をこんな婆が食らって無駄にすることは出来ぬ』
 そう言って何日も前から一切の食べ物を口にしなくなったそうじゃ。家族の者が何とか食わそうとしても、頑として口を開かなかったそうだ。また、縒蓑手(よりみて)は、生まれたばかりの赤子(やや)を死なせてしまった。十分なものを食えなかった母親の乳が殆ど出なくなっていたのだ』
 そこまで言うと阿弖流爲(アテルイ)は再び黙りました。深い苦悩が精悍であった面立(おもだ)ちを随分とやつれさせていたそうです。暫くの間、誰一人として言葉を発する者はおりませんでした。皆、(うつむ)いてそれぞれ、己の心の中の声と会話しておったのだと思います。
 やがて、阿弖流爲(アテルイ)はゆっくりと立ち上がると皆の方に進み出て、皆を見回しました。それに気付いて皆が見上げると阿弖流爲(アテルイ)は、目で会話するかのように、順にひとりひとりの顔を見ていったそうに御座います。一言も発せず、ひとりひとりと目を合わせて何かを語り次の者へと視線を移す。阿弖流爲(アテルイ)はそれを、長い長い時間を掛けて繰り返しました。その視線を受けたすべての者が、阿弖流爲(アテルイ)何刻(なんどき)掛けても語り尽くせぬほどのことをその視線で語っていたと感じたそうに御座います。
 突然、阿弖流爲(アテルイ)が膝を突きました。そして、地べたに両手を突くと(ひたい)を地面に擦り付けたのです。
『頭領、何をする!』と言って周りの者達が起こそうとするのを振り払って、
『吾は田村麿(たむらまろ)の前に膝を屈することにした。大和(やまと)の前に膝を屈することと比べて、これが恥ずかしいことか? 吾が恥じねばならぬことは皆に安息の日を与えられなかったことだ。多くは言わぬが、どれほど詫びても足りるものではない』
 そう訴えました。
『頭領のせいではない! 頭領の(もと)、我等は大和(やまと)をさんざんに懲らしめたではないか。頭領はいつどんな時にも勇敢だった。我等は頭領の(もと)で力を合わせて大和(やまと)と戦うことに誇りを見出(みいだ)したのだ。誰も頭領を恨んだりはしておらん。まだ戦える』
 そう強く申したのは、阿弖流爲(アテルイ)の側近と成っていた若い族長でした。名を杜木濡(そまきぬ)と申しました」
「そまきぬ?」
 繰り返した朝鳥の言葉に、
「はい、その名の一部を代々のこの(さと)(おさ)が継いでおります」
祖真紀(そまき)は答えた。
阿弖流爲(アテルイ)の流れではなく、その杜木濡(そまきぬ)とやらの末裔なのか(おさ)は?」
 千方(ちかた)が身を乗り出して尋ねた。
「ま、もう少しお聞きくださいませ」
 祖真紀(そまき)は先を()かす千方(ちかた)を抑えて、ひとつ大きく息を吸い、そして吐いた。
「『いつまで戦う?』と阿弖流爲(アテルイ)杜木濡(そまきぬ)に尋ねました。
『もとより死ぬるまでだ』と杜木濡(そまきぬ)は答えたそうで御座います。
『日高見の民が一人残らず死ぬるまでか?』と更に阿弖流爲(アテルイ)が尋ねました。
 杜木濡(そまきぬ)はすぐに言葉を出せませんでした。
『我等が皆、滅びて何になる。大和(やまと)を喜ばせるだけではないか。皆ひとりひとりが十人の大和軍(やまとぐん)を殺せるほどの勇者であることは分かっている。しかし、十人殺せば、次に大和(やまと)は百倍の軍を送って来るだろう。百人殺せば千倍の軍を送って来るやも知れぬ。戦い続ければ、いずれ滅びるのは我等の方だ。滅びてはならぬ! 日高見の民は滅びてはならぬのじゃ。誇りを捨てて大和(やまと)に媚びろと言うのではない。ただその誇りは深く心の底に秘めて、例え囚われ人となっても生き抜くのだ。そして、いつかこの日高見の地に、大和(やまと)に支配されぬ我等の国を作って欲しいという我等の想いを、子に孫に曾孫に伝えて行くのだ』
 そう訴える阿弖流為(アテルイ)に、杜木濡(そまきぬ)は反論しました。
『囚われ人となって、誇りを何代も伝えられるものか。いずれ心も奴婢(ぬひ)となってしまう』
と、
『分からぬ。分からぬが、少なくとも我等の血だけは残せる。今となってはそこに望を託すしかないのだ。今度の総大将はあの田村麿(たむらまろ)という男だ。吾の見るところ、あの男、若いが他の者と比べれば相当ましな方だ。もし我等が死に物狂いで抵抗し、田村麿(たむらまろ)を失脚に追い込んだとしたら、それこそ大和(やまと)は、我等を皆殺しにするつもりで、次にはそれに相応(ふさわ)しい男を選んで送り込んで来るであろう。今しかないのだ。吾はあの男に賭けてみようと思う』
 阿弖流為(アテルイ)坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)を認めていた。そして、一族の運命を田村麿に託そうと考えていたのだ。
『吾は、それだけは承服出来ませぬ。吾は他の誰よりも頭領を崇めています。もし頭領が死ねと言うなら、今すぐにでも死にます。ですが、大和(やまと)(くだ)れと言う(めい)だけは、勇者・阿弖流爲(アテルイ)(めい)としては聞けませんのじゃ』
 そう言い切る杜木濡(そまきぬ)阿弖流爲(アテルイ)は、暫く黙っておりましたそうな。そしてこう申しました。
『ならば、落ちよ。一族を連れて山深く(ひそ)み、木の根、草の根を食ろうても生き延びよ。そして、日高見の民の誇りを代々語り継げ。囚われた者達、落ちた者達、どちらが生き延び、どちらが誇りを語り伝えて行けるか分からぬが、ひとつよりふたつの道が有った方が良いかも知れぬ』
『頭領、その(めい)に従わせて貰います。皆には済まぬが、吾の我儘を許してくれ』
 杜木濡(そまきぬ)が皆に向かって訴えました。少しして、あちこちで黙って頷く姿が見え始めました。
杜木濡(そまきぬ)砺陽菜(れひな)を連れて行ってくれ』
 それは、阿弖流爲(アテルイ)の娘の名でした。杜木濡(そまきぬ)砺陽菜(れひな)は既に深い仲となっておりました。
 誰もがそれは知っており、阿弖流爲(アテルイ)もそれを喜んでいたそうに御座います。
『しかし、あるいは餓死させることになるかも知れないのです。……やはり、それは……』
 杜木濡(そまきぬ)阿弖流為(アテルイ)の娘を同行させる事を躊躇(ためら)いました。
『仮に餓死するような事になったとしても、それは仕方有るまい。一緒に行く(なれ)の一族、全ての者に言えることではないか。砺陽菜(れひな)だけを特別と思うことは許されぬ。砺陽菜(れひな)を含めてすべての者の定めを背負う覚悟無くして出来ることでは無いぞ。(ましら)となっても生き延びよ』
 阿弖流為(アテルイ)の言葉に、
『…… 分かり…… 申した』
 意を決したように、杜木濡(そまきぬ)が答える。その時、一人の男が発言しました。
『皆聞いてくれ。明日の朝、すべての武器を荷車に積んで、杜木濡(そまきぬ)の一族以外の者は大和(やまと)の陣に(まか)り出る。(ばく)に着くのは吾と頭領のふたりだけだ』
 副頭領格の母礼(もれ)という男でした。
『皆は(ばく)に着く必要はない。囚われるであろうが、いずれ解放されるであろう。田村麿(たむらまろ)はそう約束している』
 ひとりの男が立ち上がって叫んだ。
大和(やまと)の言うことなんて信用なんねい。第一、頭領と母礼(もれ)様を犠牲にして、我等だけ生き延びるなんて……』
 母礼(もれ)はこう続けたそうです。
『北に裏切り者が出た。大和(やまと)の軍を翻弄(ほんろう)することくらいまだ出来る。だが、我等の戦法を知り尽くしている者達に背後から襲われては全滅するしかない。分かってくれ。大和(やまと)に下る以上、吾と頭領の役目は既に終わっている。たったふたつの首を差し出すことで六百の命が救えるならそれは我等が出来る最後の大きな仕事なのだ。他の者では出来ぬことであろう。田村麿(たむらまろ)は我等の命も助けると言うておるそうじゃ。だが、それを鵜呑みにしている訳ではない。征夷大将軍などと言う名を貰っていても、大和(やまと)の都には、まだまだ上の者が大勢おると言うことだ。田村麿(まろ)が本気で助けるつもりでいたとしても簡単には行くまい。しかし、それはそれで良いのだ。日高見の者の血を絶やしてはならんのだ。皆聞き分けてはくれぬか。生き残る者の方が遥かに辛い思いをするであろう。それを承知で頼んでおる』
 母礼(もれ)の言葉に、あちこちで大の男が、手の甲で目頭(めがしら)を拭い始めた頃、再び阿弖流爲(アテルイ)が言葉を発しましたそうな。
『皆、いつか又どこかで会おうぞ。我等が支配する日高見国でな。そして、皆で狩りをし、田を耕し、祭を楽しもうではないか』
 未だかつて誰も見たことの無いものが、阿弖流爲(アテルイ)の目に光っておりましたそうです。それがやがて粒となり、一筋、頬を流れ落ちました。頭領はあの世で会おうと言っているのか。皆そう思ったそうで御座います」
 話し終えると、祖真紀は目を閉じ、深く息を吐いた。

 延暦二十一年(八百二年)、十三年に渡る抵抗に終止符を打ち、阿弖流爲(アテルイ)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)率いる朝廷軍に降伏した。その後都に送られ、田村麿(たむらまろ)の除名嘆願も空しく、八月十三日に河内国杜山(かわちのくにもりやま)に於いて母礼(もれ)と共に首討たれた。
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