第二章 第4話 貞盛児干を取る Ⅱ

文字数 7,743文字

 貞盛は、恩賞の沙汰の後、権中納言(ごんちゅうなごん)藤原師輔(ふじわらのもろすけ)に呼び出された。
「貞盛、こたびの御沙汰(ごさた)さぞかし不満であったであろうな」
 家司(けいし)も同席していない二人だけの部屋でのことである。師輔(もろすけ)はそう言ってから、(かまち)近くの下座(げざ)に控える貞盛を、閉じた扇で差し招いた。
「近う。もそっと近う参れ」
「ははっ」
と返事をし、貞盛は部屋の中ほどまで進み出た。
「もそっとじゃ。もそっと近う参らねば話せぬことじゃ」
 貞盛は更に近くまで進んだ。そして、
「不満など一切御座いませぬ。身に過ぎたものと、御沙汰には深く感謝致しております」
と言った。
「欲の無い男じゃのう。じゃが、これだけは覚えて置くが良い。我等、そちの働きを秀郷より下と見ている訳では決して無いぞよ。色々と考えが有ってのことじゃ。処遇については、いずれ得心出来るように致す。暫し時を待て。麿が朝堂(ちょうどう)に在る限りは案ずるには及ばぬ。任せておきゃれ」
「ははっ。元より不満などは御座いませんが、権中納言(ごんちゅうなごん)様直々にそのようなお言葉を頂き、この貞盛、只々恐悦至極に存じまする」
 貞盛は大袈裟に身を伏せた。

 そのことを話すと、繁盛の怒りも少しは収まった。
「ふ~ん。そんなことが有ったのか。…… だが兄者、都の公卿(くぎょう)の言うことなど信用出来るのか?」
と聞く。
「分らん。分らんが、そう思うて下さっていることは確かだ。信ずるより他に有るまい」
 貞盛はこの時、繁盛には話さなかったが、実はこの話には続きが有った。

「貞盛。秀郷とは昵懇(じっこん)に致せよ」
と付け足すように師輔(もろすけ)が言った。
「はっ」
と返事はしたが、その真意が読めない。
「親しく付き()うて、見たこと聞いたこと、(すべ)て麿に報せよ。良いな」
と言った師輔の目が鋭く光った。ここに来て師輔が自分を呼んだ意図を、貞盛は初めて悟った。
 立ち上がった師輔が、平伏している貞盛に近付き、その周りを、ゆっくりと廻りながら話し始めた。
「貞盛。位討(くらいう)ちと言うのを知っておるか?」
「はい」
「うん。人には誰しも生まれながらに持った”(ぶん)”と言うものが有る。その” 分”を超えていきなり出世すると、己を見失って自滅するものじゃ。そちは、あせらず、一歩一歩上って参るが良い。その為には、まずは、しっかりと働くことじゃ。期待しておるぞよ」
「ははっ」
 これが、貞盛に取って最大の苦悩の元となった。

 元々貞盛は、要領は良いが、狡賢(ずるがしこ)い人間では無い。若い頃は、明るく爽やかで誰にも好印象を持たれる若者であった。将門を恨んだのも、最後にしつこく追い回されるようになってからである。父・国香(くにか)の死に付いても、将門が意図的に討ったものでは無く、たまたま巻き込まれただけと知ってから暫くは、討とうと言う気さえ無かったのだが、周りの状況から次第にそういう立場に追い込まれて行ったのだ。
 秀郷に助けを求め、秀郷がそれに応じてくれたお陰で、臆病者との汚名を晴らすことが出来た。それには恩義を感じている。秀郷が自分を、将門を射落(いお)とした者と宣言してしまったことに付いては、有り難く思わなければならないのかも知れないが、一方で『()められた』と思わない訳でも無い。何しろ、この秘密に因って、貞盛は一生、秀郷に頭の上がらない立場となってしまったのだ。その秀郷を裏切れというのが、師輔(もろすけ)(めい)である。
 この時から、明るかった貞盛が次第に変貌して行った。苛立(いらだ)ちから、感情を爆発させて部下に当たることも度々有った。ひとの心を読むことが快感だった貞盛の心が、次第に鈍になって行き、己の中に籠るようになってしまったのだ。

 長い間、貞盛は人払いをした部屋でひとり爪を噛んでいた。師輔(もろすけ)には、秀郷の動向についての報せは送り続けていたが、たまに入る秀郷の不穏な動きについての情報は、他から漏れる心配が無ければ、握り潰していた。古能代の印象的な顔が、又あの頃の苦しみを思い起こさせた。

 貞盛から全員が(うたげ)に誘われたが、古能代が辞退し、それに伴って夜叉丸と秋天丸も辞退した。
 千方は、せっかくだから受けるように古能代を説得しようとしたが、ほっとしたのは朝鳥である。千常からの(めい)が有るので、気を緩められないし、万万が一にもそんな事態が起きることは何としても避けたかった。

 (うたげ)の席では、貞盛は、昼間とは打って変わって愛想良く振る舞った。 
 千方に幼少の頃の話を聞いたり、朝鳥とは、秀郷の近況、北山の戦いの昔話などをしたりしながら、陽気に盃を重ねた。
 千方は興味深げに二人の話を聞き、あれこれと質問をしていたが、将門の最期の場面に付いて尋ねた時、ほんの一瞬、貞盛と朝鳥の間に緊張が走ったことには全く気付かなかった。
「千方殿。戦場というのものはな、混乱しておる。皆、極度に緊張し普段とは別人のようになっておるものじゃ。多くの矢が飛び交う中、或いは、将門を殺したのは、麿の矢では無く、流れ矢であったかも知れぬな」
 少し(おど)けた様子で貞盛が言った。
「何の! そのようなことは絶対に御座いませぬ。将門を殺したのは、(たいらの)朝臣(あそん)太郎貞盛様の矢であると、手前主人も見届けておりまする」
 朝鳥が向きになって否定した。
「ふふ。そんなことも有るかも知れぬということよ。…… これは絶対に他言無用じゃが、実は麿は将門が怖くてな。射た瞬間目を瞑ってしまったので、当たったかどうか見ておらんのよ。ふっはっはっは」
 貞盛がいかにも陽気そうに笑った。
お戯(たわむ)れを。陸奥守様がこのように可笑(おか)しきことを申されるお方とは、この朝鳥全く存じませんでした」
 そう言った後、朝鳥は素早く話題を変えた。
「六郎様。手前聞いた処では、今でもそうですが、陸奥守様は若き頃、それはそれは良き男振りで、都に在った頃は、あちらの姫、こちらの姫からの(ふみ)が引きも切らず、昼はお勤め夜は姫様方のお相手で眠る間も無かったとのことで御座います」
 普通であれば、朝鳥がこんな見え透いた機嫌取りをする事など先ず無い。
「これ朝鳥、見て来たようなことを申すな。
 千方殿が本気にするではないか」
 貞盛は素直に照れた。いや、照れて見せたのかも知れない。
(うらや)ましい限りに御座います」
 千方が言った。
「ふん。(らち)も無い。噂じゃ、噂。(たれ)が言い出したものであろうかのう?」
 将門を射た矢の話などまるで気にしていないかのように、貞盛は振舞っている。
他人(ひと)に褒められた時は、何故(なにゆえ)褒めるか考えよ。必ず思惑が有る』
 千方は祖父・久稔(ひさとし)の言葉を思い出した。『とすると、朝鳥の思惑とは何だったのか』そう考えてみたが、分かりはしない。只、朝鳥が、なぜか将門の話題から離れようとしたことにだけは気付いた。
 一方朝鳥は、貞盛が根は真面目で、器用そうに見えて案外不器用なところが有る男だと思った。そして、あの北山の戦いで見た郎等姿の男が古能代であり、将門を殺したのも古能代であると確信した。
 その秘密に貞盛は今も苦しんでおり、秀郷と千常は、例え古能代を殺してでもその秘密を守ろうとしている。
 北山で見た男が古能代であること、なぜか祖真紀親子がそれを隠そうとしていたこと、喉に物が(つか)えたような千常の(めい)の意味、それらが繋がって全てが理解出来た。

    
 最初千方主従の挨拶を受けた時古能代の顔を見て、居室に戻った貞盛は苛立っていた。
 爪を噛みながら秀郷の思惑が何なのかあれこれと考えていたが、結論は出ない。
 貞盛はいつの間にか、将門に語り掛けていた。
『小次郎。(なれ)は天下の謀叛人として死に、麿は今、鎮守府将軍、陸奥守の職に在る。(なれ)は敗れ、麿は勝者と成った。
 だが、果たしてどちらが幸せ者なのであろうかな? 本当の麿は、あの時、北山で、(なれ)と共に死んだのかも知れぬ。今の麿は何か仮初(かりそめ)の命を生きているような心持ちなのだ。己が己で無いような不安にいつも(さいな)まれている。そして、時々それに耐えられなくなり、周りの者に、必要以上に厳しく当たってしまうのだ。あれほど他人(ひと)の思惑に気を使っていた麿がだ。
 嫌われておろうな。分かっておる。分かっているがどうにもならぬのだ。都では(なれ)に『他人(ひと)の気持ちを考えろ』と、偉そうに説教もしたな。今思えば、笑えるわ。
 都に在った頃のまま死んだのであれば、(なれ)もさぞかし無念であったろうが、短い間とは言え、(なれ)は、やりたいことをやり、(なれ)らしく生きたではないか。
 (こころざし)(なか)ばで無念の思いで死んだに違い無いとひとは言うが、(みかど)として(まつりごと)を長く行うなどと本気で考えておった訳ではあるまい。
 もし仮に、そんなことに成っていたとしたら、それこそ(なれ)は、今の麿以上に(うつうつ)々とした日々を過ごさねばならなかったろう。
 (まつりごと)とは、腹の探り合い、駆け引きだ。そんなことが出来るような(なれ)ではなかろうが…… 。(なれ)が出来る駆け引きは、戦場での駆け引きだけだ。興世王(おきよおう)辺りに良いように操られるのが関の山だったろうよ。 
 (なれ)(なれ)らしく生き、良い時に死んだのだ。今でも(なれ)の武名は坂東中に鳴り響いており、密かに(なれ)を慕う者も多いと言う。
 人の人生とはその長さでは無いな。生き様だ。麿は未だ悔い多く生き延びておるわ。やれる限りのことをやったのだから、(なれ)に悔いは無かったと麿は思うておる。
 だから、都の公卿(くぎょう)共が、(なれ)の祟りに怯え、やれ祈祷だのやれ供養だのと騒いでいるのを見ていたら、可笑しくて仕方無かったぞ。もちろん外面(そとずら)は神妙を装ってはおったがな。
 (なれ)には、あの時の麿の声が届いておったか? 
(まこと)(なれ)が怨みを残し怨霊となっているのであれば、まず麿を殺せ。将門を射殺(いころ)したのは平貞盛であると世間も言うておるであろう』
 そう言ったのが、(なれ)には届かなかったのか? 麿はまだ生きておるぞ。 
 (もっと)も、(なれ)は己が何故(なにゆえ)死んだのか分かっておらぬかも知れんな。何しろ、確かに麿の放った矢を払い落したと思った瞬間に死んだのだからな。分からぬであろう。だが、分からぬままで良い。(なれ)を殺したのは麿だ。
 麿もいずれそちらに行く。だが、小次郎、もう、追い回わすのはやめてくれよ。(なれ)は本当にしつこいからな。それだけが案じられる。
 それにしても、(なれ)大虚(おおうつ)けじゃ。戦場で(かぶと)を脱ぎ捨てるなどという(うつ)け者は、どこを探してもおらぬぞ。(なれ)がいかに強くとも死ぬに決まっておろうが……。いずれ(まみ)える時には、『大虚(おおうつ)けめが!』と罵ってくれるわ。(なれ)は麿を『臆病者めが!』と罵るであろうな。小次郎。なぜか知らぬが、今、麿は、(なれ)に会いたいぞ。そして、笑って話したい』

 将門に語り掛けているうちに、貞盛の心は落ち着きを取り戻し、ほんの少し、昔の己に戻れたような気分になっていたのだ。そんな訳で、(うたげ)の席に現れた時の貞盛は落ち着いていた。

 翌日千方達は、貞盛の郎等の案内で多賀城内を見て回った。多賀城には実に色々な者達が住んでいる。国府の役人、それらの従者(ずさ)。貞盛の郎等、医生など。鎮兵、元浮浪人などの入植者、自ら進んで入植した坂東の土豪達も居る。職人、蝦夷との交易を生(なりわい)とする者など雑多だ。
 国衙(こくが)国司(くにのつかさ)の住む舘を除いては、建物は殆ど竪穴式住居である。その茅葺屋根(かやぶきやね)(わら)ボッチのように広がっている。

「政庁をご案内します」
 貞盛の郎党が先に立って大路(おおじ)を北に進む。南門は高見に位置しており、角に石を埋め込んだ広い階段を上がって行く。そして南門を潜り、正殿、脇殿を見て回った。国衙の正殿はそれほど大きくは無い。郎等に寄ると、この正殿前の広場では、蝦夷が朝廷に忠誠を誓う儀式が行われるのだと言う。
 陸奥守は(みかど)の代理として正殿内から謁見(えっけん)し、貢物(みつぎもの)を受け、その見返りとして下賜品(かちょうひん)を与える。言わば、儀式化された交易だ。
「冬はさぞかし寒かろうな」
 千方が郎等に尋ねた。
「そりゃもう、この辺りはまだましですが、更に北へ行くと、坂東の冬とは比べ物になりませぬ。雪が積もって、辺り一面埋まります。でも、案外雪の中というのは寒く無いもので御座いましてな。雪穴を掘ってその中に居る方が暖かいので御座るよ。戻った時、坂東の(から)っ風の方が骨身に(こた)えるようになります」
と説明する。
「古能代。胆沢(いさわ)という所はもっと北であろう」
と、千方が古能代に尋ねた。
「はい。山中に出たりすれば、一面真っ白で方向も分からなくなります」
「良くそんな所で生きられるものじゃな」
と千方が感心したように言った。
「人はどんな所ででも生きまする。(けもの)が生きられる限り、人も生きて行けるので御座いますよ」
 そう言ったのは朝鳥だ。
「古能代。胆沢(いさわ)に行くのか?」
と朝鳥が古能代に問う。
「その前に、衣川(ころもがわ)という所に参ります。そこに妻子がおりますゆえ」
衣川(ころもがわ)か…… 古能代も父親なのだな。子は幾つになる?」
「上は七歳、下は五歳になります」
「全く知らなかったな。…… 早く会いたいか?」
「はい」
「親とはそうしたものなのであろうな、本来」
 古能代と朝鳥の会話を聞いていた千方がぽつりと言う。
「本来? …… 大殿もそうであったかどうかとお考えですか?」
 朝鳥が確かめるように千方に言った。
「う? そういう訳ではないが……」
 珍しく、千方が曖昧な態度を見せる。
「親とはそうした者で御座いますよ。大殿もきっとそうだったに違いありません」
「済まぬ。朝鳥は子を失っておったのであったな」
 朝鳥が三人の子を亡くしている事に思い当たって、千方が言った。
「お気遣い頂きまして有難う御座います。ですが、お気遣いには及びません。悲しみは次第に薄れて行くもので御座います。そして、良き思い出のみが心に残っておりますゆえ」
 千方の目を見て朝鳥が言う。 

 丸一日城内を見て回り、千方一行は夕刻、貞盛の舘に戻った。
「いや、本日は(たて)殿にはお忙しい処をわざわざ我等の為に、丸一日潰してご案内を頂き、誠に有難う御座った。下役の者でも良かったのに、一の郎等である(たて)殿にご案内頂いたこと、陸奥守様の格別なご配慮と思うて、我が(あるじ)・千方も感激しております」
 戻り掛けた館諸忠(たてのもろただ)を追って回廊に出た朝鳥が、丁寧に挨拶した。
「何の、(さきの)鎮守府将軍様のご子息とあらば、我が(あるじ)に取っては賓客。当然のことで御座るよ」
館諸忠(たてのもろただ)が答える。
「お心遣い(かたじけな)い。(たて)殿も色々とご苦労の多いことで御座ろうな」
と、朝鳥が気遣いを見せた。
「殿のご機嫌を取りながら色々やって行くのは、中々、骨の折れることでござるよ。ははっは。…… 単に麿の(うつわ)が小さいということでしか無いがな」
 館諸忠(たてのもろただ)はそう言って自嘲気味に笑った。その言い方に、朝鳥は違和感を覚えた。
 朝鳥としてみれば、こんな辺境での勤めは大変だろうと言う意味で言ったのだが、諸忠(もろただ)が答えたのは、貞盛に仕えることの大変さに付いてであったからだ。
『冗談混じりとは言え、赤の他人である自分にそんなことを言うということは、この男、貞盛に対し、相当の不満を持っているか、或いは怨みを抱いているのではないか?』
と直感的に感じたのだ。
『単に、一の郎等の気遣(きづか)いの大変さを、同じような立場にある自分に、冗談めかして同意を求めただけなのだろうか? しかし、己であれば、決してそんな真似(まね)はしない』と思った。
 
 貞盛には異常行動の逸話が有る。陸奥守・鎮守府将軍の任に就く前の丹波守(たんばのかみ)であった頃の説話として、異常な行動が今昔物語集(巻二十九の二十五話 「貞盛朝臣児干を取る」)に収録されている。

 貞盛は、丹波守在任中に任国で悪性の(かさ)を患った。(かさ)とは 皮膚の出来物、()れ物、又は傷の治り(ぎわ)に出来る瘡蓋(かさぶた)のことを言う。
 さる名医を都から呼び診させた処、胎児の(きも)で作った児干(じかん)という薬でないと治らないと告げられた。しかも、作られてから日が()ったものでは駄目だと言う。医師はそれが矢傷によるものだと見抜いたという。
 児干(じかん)を求めていることを絶対に世間に知られてはならないと貞盛は思った。  
 貞盛自身がそう思っていなくとも、将門の祟りを恐れる都の公卿(くぎょう)達にその噂が伝われば、巻き添えを食うことを恐れて、貞盛の昇進に二の足を踏むという恐れが有るからだ。
 世間に噂が漏れることを恐れた貞盛は、 息子の左衛門尉(さえもんのじょう)(息子達の内の誰なのかは不明)の妻が丁度懐妊していたので、その子をくれと頼む。
 この辺が当時としても異常と思われる部分であったのだろう。左衛門尉は仰天し、茫然としたが、父の(げん)(そむ)くことも出来ず承知する。
 しかし、医師の許を訪ね、泣く泣く子細を語り、良い策は無いものだろうかと相談する。医師も責任を感じ、自分の血を分けた者の(きも)では薬にならないと貞盛に告げてくれた。
 このことからも、胎児の(きも)(内臓)で薬を作ること自体が世間の批判を浴びることでは無かったことが分かる。
 困った貞盛は急いで妊婦を探すよう家来に命じる。炊事女が妊娠していると分かり、早速その腹を割ってみたら女児だった。医師は男の子の(きも)でないと効かないと言うので、それを捨てさせた。何ともおぞましい話だが現代とは感覚が違うのだ。
 そこで、また改めて探し求め、男児の(きも)を得ることが出来、貞盛は命を取り止めたという。それが誰の子だったかということには、作者は全く関心を払っていない。

 そして、この物語の山場はその後に有る。貞盛は、このことが朝廷に知られることを恐れて、医師を待ち伏せて殺すよう、左衛門尉に命じるのだ。
 既に陸奥守の内示を受けていた。矢傷が元で死に掛けていたことを知られると、貞盛の武勇に期待していた朝廷に不安感を与え、取り消されることを恐れたと物語は言う。
 回復したのであれば問題無いと思うのだが、この辺のことは分からない。やはり、作り話で、それらしい理由付けをしただけと考えることも出来る。
 左衛門尉は軽く承知して急いで出掛けたのだが、そのまま医師の所へ行ってそのことを告げた。医師はびっくりして左衛門尉に助けを求める。
 左衛門尉は、医師を送る為に京まで同行する判官代(ほうがんだい)を馬に乗せ、自分は徒歩で山越えをするよう医師にアドバイスし、妻と胎児を助けてもらったので恩を返すことにしたと告げる。医師も手を擦り合わせて涙を流した。
 当時の人はこの(くだり)で感激したのだろうか? この物語の中で、この事件には無関係で何の罪も無い判官代(ほうがんだい)は、実際医師の身代わりに殺されてしまうのだ。何が善で何が悪か、それは絶対的なものでは無く、時代背景に大きく影響される。
 物語の最後で作者は、『貞盛朝臣(さだもりあそん)は、わが子の妻の懐妊している腹を裂いて胎児の(きも)を取ろうと思ったとは、何というこのうえなく残酷な心ではないか』と貞盛を批判している。
 作者が『残酷な心』と言っているのは『胎児の(きも)を取ろうと思った』ことでは無く『“わが子の妻の”胎児の(きも)』だからなのである。
 そして『これは貞盛の第一の郎等の館諸忠(たてのもろただ)の娘が語った話を、聞き継いでこうして世の中に語り伝えていると言うことである』と締め括っている。

 館諸忠(たてのもろただ)が実際見聞きし、それを娘に語ったのであろうか? もしそうだとすれば、諸忠は貞盛に不快感を抱いていたということになる。それとも、架空な話を書いた作者が物語に信憑性を与えるために、一の郎等で在った館諸忠の娘を持ち出したものなのだろうか? いずれにしても、当時の貞盛は、人格高潔な人物とは思われていなかったのではないか。少なくともそう思われる。


 翌日は一日のんびりとした後、四日目の朝、千方一行は、貞盛の見送りを受け衣川(ころもがわ)に向けて旅立った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み