第九章 第1話 露女の死
文字数 4,674文字
運命は千方に追い討ちを掛ける。露女 が急逝したのだ。
普段早く起きる露女 だが、その日は起きて来ない。前日、立ち眩 みを起こし早く休んだことも有り暫 く待ったが、やはり、姿を見せない。
朝餉 の時刻ともなったので、侍女が様子を見に行ったところ、安らかに眠っているように見えた。しかし、近寄っても呼吸に寄る微 かな胸の動きも感じられなかったので触れて見ると、既に身体が冷たくなっていた。直ちに千方と侑菜 に知らされた。
何と言うことだろう。余りに急な最期 であった。まるで千方のこれからの行動を予知し、知ることを拒否するかのように逝 ってしまったのだ。他人の手を煩わせずあっさり逝 ってしまうなど、露女 らしいと言えば露女 らしい最期であり、その表情は眠っているかのように安らかだった。前日の立ち眩 みについては、顔色も良いと言うことで、誰もが大したことだとは思っていなかった。
母が死んだことは悲しい。それは当然のことながら、一方で、知らずに逝ってくれたことに、寧 ろ救われた気持ちもあった。『自分の人生なのだから』と口では言っていたが、千方の近況に付いては、実際案じていたに違い無い。悲しい一方で、或る意味安堵している己が居た。
千方の舘は慌ただしくなった。豊地 も駆け付けて来て、葬儀の段取りの話が始まった。
「済まぬが、葬儀の段取りは、そなたが進めてくれ」
と千方に言われた。豊地 は違和感を覚え、千方を意外に冷たい男だと思った。村岡との争いに付いて色々と考えることが有るのだろう。そう理解しようとした。露女は豊地に取っても、慕っており且つ頼りにしていた姉である。全ての段取りは自分がしようと納得し、千方の態度に対する拘りを捨てた。侑菜 はずっと露女の遺体に付き添っていた。千方は居室に籠って心を整理しようと努め、この状況と成っても己のすべきことは変えまいと決めた。
露女の死を知って、弔問の客が続々と詰め掛けて来る。千方は居室から出て、その対応に追われた。
夕刻になって訪れる客も一段落した頃、千方にはやるべきことが有った。そこに思わぬ来客が有った。甲賀の山中国家 である。古能代 の実の弟であり、秀郷 の意向により、望月兼家 の郎等と成ったが、兼家の計らいで甲賀の旧家・山中家を再興させ、今ではその当主に納まっている。嘗 ての名を支由威手 と言った。もちろん、露女 の死は国家 に取って想定外のことであった。用件はさて置き、まずは、露女 の弔問を行う。それが終わって千方の居室に通された。
「遠いところをお越し頂き、痛み入る」
なぜ国家 が来たのか、千方には解 せなかった。
「難題を抱え込まれたと知り、駆け付けました」
国家は、そう来訪の主旨を伝えた。
「何? こんなにも早く」
村岡との諍 いが始まって、そう幾月も経っている訳では無い。
「ははは。今や甲賀の者達はあらゆる国に散っております。武蔵 、下野 で働く者達には、六郎様と大領 (甲賀三郎 兼家 )との特別な関係も伝えてあり、異変あれば直ぐに知らせるよう命じてありました。今までも、順次報せが入っておりましたが、こたびは容易ならざる事態と判断した大領から、直ぐに駆け付けるよう命じられた次第です。我が郎等十五人を率いて来ており、林の中に潜 ませてあります。いずれも手練 れの者達。お役に立てると思います」
千方は望月三郎兼家の情報網に圧倒された。そして僅かな縁を大事にして心配してくれている気持ちに感謝した。
「お邪魔をしても宜しゅう御座いますか?」
そう言って現れたのは、国家 の兄・古能代 である。
「入れ」
と千方が答える。
「兄上、お久しゅう御座います」
古能代 の方に向き直って、国家 が挨拶した。
「支由威手 、いや、今や山中国家 殿か。立派に成ったのう」
古能代が懐かしそうに国家に近付き、肩を軽く叩く。
「恐れ入ります」
国家は笑顔を見せ、軽く頭を下げた。
「あの悪たれ餓鬼の支由威手 が変われば変わるもの。うれしいぞ」
『こんなに風に自然な感情を表す姿は、昔の古能代からは想像も付かなかったな』と千方は思った。
「亡き大殿、大領、そして、甲賀に行くことを勧めてくれた兄上のお陰です。三輪国時 様の恩も忘れてはおりません」
「その心、忘れるで無い」
古能代が国家に言った。
「はい」
国家がそう応じる。
二人の会話を聞きながら、千方の心は揺れていた。古能代 ら六人に加えて、国家 が率いて来た手練 れの十五人が居れば、或いは戦えるのではないかと言う想いが沸き上がって来たのだ。
「こちらの話は後のこととして、兄弟のつのる話もあろう。ゆるりと語り合うが良い」
そう言つて、千方は立ち上がった。
「殿、申し訳御座いません」
古能代 が頭を下げる。
「良い」
そう言い残して、千方は居室を出た。そして、母の居室には戻らず、庭に下りた。
耐えたり困難を避けたりするようなことは、本来千方の性分 に会わない。若い頃の千方なら、迷わず村岡に奇襲を掛けていたに違い無い。その結果どう成るかは、その時に成って考える性質 だ。久稔 が『調子者』と評したのは当たっている。父・秀郷 の慎重さは、全く受け継いでいない。だが、この年に成ると、結果が周りに及ぼす影響をさすがに考える。その結果、下野藤原 の当主の座を降り、この度は、草原 をも去る決心をするに至ったのだ。
世間から見れば、都で出世の道を歩み掛けていた千方が、鎮守府将軍を頂点に、その後、一旦は下野藤原 の当主に納まったものの直ぐにその座も降り、隠居した草原 でのんびりと暮らすことさえも出来なくなった。
要は、見る見る落ちぶれて行く男でしかないのだろう。侑菜 の父・昌孝の千方観が、世間を代表する見方と言えるかも知れない。もちろん、千方自身は、己を卑下してはいない。
藤原兼通 と妥協はしても臣従はしなかった。もちろん摂政 ・兼家に膝を屈するなど論外である。その都度、兵 の意地を通しながら、周りにも配慮した結果が今有る。何事も気にせず、心のままに暴れてみたい衝動が沸き上がって来る。その結果死んでも悔いは無いと思う。だが、現実の千方は柵 の中にある。
現実的に、戦って勝ち抜ける道は有るのか? 千方は改めて考えてみた。古能代 ら五人と国家 達十六人。この二十一人が居れば、村岡を奇襲することは出来る。勝算も有る。又、二十人に十数人ずつの郷人を預ければ、寄せ集めの国府軍に勝つことも可能であろうと思える。少人数づつであれば、戦闘経験の無い農夫達でも短期間で訓練することが出来る。千方の郎等達も国家の郎等達も、民を兵として訓練するくらいの能力は持っている筈だと思った。だが、二度や三度勝って見たところで、それで事が収まる訳も無い。満季 を倒すことは可能だろうが、それは朝廷を敵に回すことに他ならない。即ち謀叛だ。
将門の乱が終結して間も無く五十年になる。しかし、坂東には、受領 や朝廷に対する不満は相変わらず満ち満ちている。土豪即ち兵 達は時として国府にも叛く。だが、いつも敗れるのは土豪達の方だ。なぜなら本当に勝つ為には謀叛にまで至る必要が有るからだ。将門以来、そこ迄やった者はいない。
朝廷と戦えるか? 千方は己に問うてみた。答は否 だった。国府を占領したとして、千方に呼応する土豪が居るかと問われれば、殆ど居ないと言う結論しか出て来ない。身内同士の戦いを勝ち続けていた為、常陸 の国府を占領した時点で、既に将門 の不敗神話は出来上がっていた。この男に懸けてみようと思わせるものが有ったのだ。その将門 でさえ結局は破れた。足立郡 を支配し、武蔵 全体に影響力を持っていた武蔵武芝 も滅んだ。相変わらず不満は鬱積しているものの、諦 めが土豪達を支配している。私領を摂関家の荘園として献上する者は日に日に増えている。そんな中で、将門 と違って英雄でも無い千方に懸けようと思う者など居る筈 も無い。己の命は兎も角、多くの犠牲者を出して何も残らないと言う結果しか浮かばない。結局、考えはそこで行き詰まってしまう。千方は大きく溜め息を突いた。
府中から豊水 が戻り、本家の私市氏尚 、下野 からは文脩 の代理として三輪義時 が弔問に訪れた。豊地 から露女 の生前の逸話などひとしきり聞いていた国家 だったが、それが終わると、三輪義時 の側 に行き丁寧に挨拶をした。
「命 が支由威手 殿で御座るか。いや、父から聞いていた方とは思えぬご貫禄。お見逸 れ致した」
と義時が挨拶を返す。
「いや、若い頃は手の付けられぬ悪たれで御座いましたから、お父上には口で言えぬほどご面倒をお掛け致しました」
国時は義時の中に国時の面影を見、義時は落ち着いた国家の中に、若い頃のやんちゃな支由威手 の姿を想像していた。
「しかし、亡き父は命 のことを妙に気に入っていたようで御座います」
「左様で御座るか。亡くなられた折には弔問にも伺えず。申し訳御座いませんでした」
「何の。近江 は遠い。お気持ちだけで結構で御座るよ」
そう言う義時の言葉に、
「忝 い」
と国家が頭を下げる。
その頃千方は、裏口から出て厩 に向かって歩いていた。厩 の少し手前で辺りを見回す。人影が現れた。五郎左 である。この男、本名は田谷猿彦 と言う。この時代、庶民でも農夫でも皆、苗字が有った。五男として生まれ、若い頃は都に上り、左衛門府 で直丁 として働いていたことが有るので、五男を表す五郎と左衛門府の“左”を合わせて五郎左と呼ばれるようになった。因みに、直丁 とは、仕丁 (雑役夫)のうち、雑役 に奉仕する番に当たった者のことである。
そんな関係で五郎左 は馬の扱いにも馴れている。深夜に密かに舘を出るのに、馬では具合が悪い。そこで五郎左に預け、途中に待たせて置くことにしたのだ。
馬屋に入って行くと、厩番 の男が藁束 に腰掛けていたが、千方を見て慌てて立ち上がった。
「これは殿様」
そう言って頭を下げる。
「馬を、明日 一日この五郎左に預ける。鞍 を置いてくれ」
千方がそう指示する。
「『鞍を』で御座いますか?」
厩番 は、千方の指示をどう理解して良いのか分からない。説明する必要も無いのだが、合点 が行かぬ儘だと、他の者達に聞き回る可能性が有る。
「五郎左 はな、若い頃左衛門府 で直丁 をしておったので、馬の手入れに詳しい。蹄 と蹄鉄 の調整をして貰おうと思っておる。鞍 を置くのは、その上に人と同じ重さの荷を置いて歩かせて見るのだそうだ。足の運び方を観察して、その上で、蹄 と蹄鉄 を調整する。そうだな、五郎左 」
我ながら良くもこんな適当なことが言えるものだなと思いながら、千方は厩番 に言った。。
「あ? はい、左様で」
厩番 はそう答えた。そして、
「ほう。そんなやり方が有るのか。五郎左 、今度、吾にも教えてくれぬか」
千方の話を鵜呑 みにして五郎左 に頼み込んだ。たじろいだのは五郎左 である。
「あ、ああ。又いずれ」
ト誤魔化す。
「このこと他言無用じゃ。良いな」
厩番にそう言い捨てて、千方は馬を引いた五郎左 と馬屋を出た。
「待ち合わせの時刻と場所。間違えるで無いぞ」
歩きながら念を押す。
「へえ、決して。ですが将軍様、ご隠居様が亡くなられた晩と言うのに、どうしてもお出掛けにならねばならないのですか?」
五郎左も、千方の行動の意味を測りかねている。
「内密に会わねばならぬ人が有る。そのほうにのみ話したことだ。他言するでないぞ」
諄 いほど、千方は五郎左に口止めをする。
「そりゃあもう、金輪際 他人に話したりは致しません」
五郎左もそう答えた。
「ならば行け。松明 を二本用意して置いてくれ」
そう最終的な指示をし、五郎左を見送って、千方は踵 を返した。
普段早く起きる
何と言うことだろう。余りに急な
母が死んだことは悲しい。それは当然のことながら、一方で、知らずに逝ってくれたことに、
千方の舘は慌ただしくなった。
「済まぬが、葬儀の段取りは、そなたが進めてくれ」
と千方に言われた。
露女の死を知って、弔問の客が続々と詰め掛けて来る。千方は居室から出て、その対応に追われた。
夕刻になって訪れる客も一段落した頃、千方にはやるべきことが有った。そこに思わぬ来客が有った。甲賀の
「遠いところをお越し頂き、痛み入る」
なぜ
「難題を抱え込まれたと知り、駆け付けました」
国家は、そう来訪の主旨を伝えた。
「何? こんなにも早く」
村岡との
「ははは。今や甲賀の者達はあらゆる国に散っております。
千方は望月三郎兼家の情報網に圧倒された。そして僅かな縁を大事にして心配してくれている気持ちに感謝した。
「お邪魔をしても宜しゅう御座いますか?」
そう言って現れたのは、
「入れ」
と千方が答える。
「兄上、お久しゅう御座います」
「
古能代が懐かしそうに国家に近付き、肩を軽く叩く。
「恐れ入ります」
国家は笑顔を見せ、軽く頭を下げた。
「あの悪たれ餓鬼の
『こんなに風に自然な感情を表す姿は、昔の古能代からは想像も付かなかったな』と千方は思った。
「亡き大殿、大領、そして、甲賀に行くことを勧めてくれた兄上のお陰です。
「その心、忘れるで無い」
古能代が国家に言った。
「はい」
国家がそう応じる。
二人の会話を聞きながら、千方の心は揺れていた。
「こちらの話は後のこととして、兄弟のつのる話もあろう。ゆるりと語り合うが良い」
そう言つて、千方は立ち上がった。
「殿、申し訳御座いません」
「良い」
そう言い残して、千方は居室を出た。そして、母の居室には戻らず、庭に下りた。
耐えたり困難を避けたりするようなことは、本来千方の
世間から見れば、都で出世の道を歩み掛けていた千方が、鎮守府将軍を頂点に、その後、一旦は
要は、見る見る落ちぶれて行く男でしかないのだろう。
現実的に、戦って勝ち抜ける道は有るのか? 千方は改めて考えてみた。
将門の乱が終結して間も無く五十年になる。しかし、坂東には、
朝廷と戦えるか? 千方は己に問うてみた。答は
府中から
「
と義時が挨拶を返す。
「いや、若い頃は手の付けられぬ悪たれで御座いましたから、お父上には口で言えぬほどご面倒をお掛け致しました」
国時は義時の中に国時の面影を見、義時は落ち着いた国家の中に、若い頃のやんちゃな
「しかし、亡き父は
「左様で御座るか。亡くなられた折には弔問にも伺えず。申し訳御座いませんでした」
「何の。
そう言う義時の言葉に、
「
と国家が頭を下げる。
その頃千方は、裏口から出て
そんな関係で
馬屋に入って行くと、
「これは殿様」
そう言って頭を下げる。
「馬を、
千方がそう指示する。
「『鞍を』で御座いますか?」
「
我ながら良くもこんな適当なことが言えるものだなと思いながら、千方は
「あ? はい、左様で」
「ほう。そんなやり方が有るのか。
千方の話を
「あ、ああ。又いずれ」
ト誤魔化す。
「このこと他言無用じゃ。良いな」
厩番にそう言い捨てて、千方は馬を引いた
「待ち合わせの時刻と場所。間違えるで無いぞ」
歩きながら念を押す。
「へえ、決して。ですが将軍様、ご隠居様が亡くなられた晩と言うのに、どうしてもお出掛けにならねばならないのですか?」
五郎左も、千方の行動の意味を測りかねている。
「内密に会わねばならぬ人が有る。そのほうにのみ話したことだ。他言するでないぞ」
「そりゃあもう、
五郎左もそう答えた。
「ならば行け。
そう最終的な指示をし、五郎左を見送って、千方は