第三章 第5話 千方に非ず

文字数 6,207文字

 武蔵権守(むさしのごんのかみ)の任を終えて都に戻った満仲(みつなか)を、間も無く災難が襲う。舘が強盗団に襲われたのだ。
 都で評判の(つわもの)である満仲の舘を襲うとは、強盗団も大した度胸だ。屈強な郎等(ろうとう)達が大勢居る満仲の舘を襲えば、多大な犠牲が出る可能性が有るし、下手をすれば頭目(とうもく)自身が捕らえられてしまう可能性も有る。物盗りだけが目的なら、誰も、こんな割に会わない仕事はしないだろう。
 確かに物は盗って行ったが、真の動機は恨みであろうと誰もが思った。多くの郎等達を連れて、満仲が不在だった処を狙われたことも、行きずりの盗賊の仕業(しわざ)などでは無いと見られる理由だ。留守居の郎等達の何人かは傷を負い、多くの財貨が奪われた。満仲の悔しがり方、腹立ちは半端では無かった。

 そんな或る日、郎等のひとりが聞き込んで来た噂に、満仲は目を見張った。
「なに? あの男が都に居ると言うのか」
「はい。確かに藤原千方(ふじわらのちかた)は都におります。兄の千晴(ちはる)殿の舘で見掛けた者が何人かおると言うことです」
荷駄(にだ)(ふところ)の暖かそうな富貴の者では無く、屈強な郎等衆を襲うとは、何とも呆れ果てた大胆な賊で御座いますな』
 武蔵の国衙(こくが)に呼び付けた時、そう言い放った千方の顔を、満仲は思い出した。
「あ奴か。いや、そうに違い無い。くそっ、()めおって。今度こそひっ捕らえて、何もかも吐かせてやる」 
 満仲は、歯を噛み締め(こぶし)を強く握っていた。
「さっそく検非違使(けびいし)に報せて、千方の周辺を探らせましょう」
との郎党の言葉を退け、
「いや、検非違使などに任せて置く訳には行かぬ。あ奴は我等の手で捕らえる。満季(みつすえ)を呼べ」
と命じた。
 満仲、満季、そしてその郎等達を総動員しての探索が始まった。だが、満仲と満季は、間も無く大きく落胆することになる。事件の有った日、千方は、まだ都には入っていなかったのだ。近江におり、伊賀・甲賀(こうか)両郡の郡司・望月兼家(もちづきかねいえ)の舘を訪ね一泊していた。多くの者の目に触れている。
 当てが外れた満仲は落胆したが、だからと言って探索を途中でやめる分けには行かない。
 そんな中、怪しい人物が浮かび上がって来た。倉橋弘重(くらはしひろしげ)という男だ。満仲邸から持ち去られた盗品の中のひとつを持っていた。満仲の舘に出入りしている者のひとりが弘重の知り合いで、弘重が満仲邸で見た物と同じ物を持っているのを見て、自分まで一味と疑われては(たま)らないと思い、慌てて訴え出て来たのだ。
 弘重は、さる公卿(くぎょう)家人(けにん)だったが、不始末を犯し放逐されていた。その際、その公卿邸に出入りしていた満仲が、公卿の依頼で、放逐前に弘重を打ち据えており、弘重はそのことを深く恨んでいた。
 満仲はと言えば、そんなことは余り覚えていない。満仲自身が乗り込み、弘重を捕らえて来て、痛め付けて吐かせた結果、共犯者ふたりが判明した。何と、ひとりは王と言う身分を持つ者であり、もうひとりは、満仲と同じ清和源氏であった。さすがの満仲も、自身で捕らえることは(はばか)られた為、弘重を検非違使に引き渡し、事情を説明した。
 検非違使が弘重を再吟味した結果、ふたりの容疑が固まり、検非違使別当(けびいしのべっとう)(長官)・藤原朝忠(ふじわらのあさただ)に伺いを立てた。従三位(じゅさんみ)・参議でもある朝忠でさえ、即答は出来なかった。
 朝忠は、大納言・高明と左大臣・実頼に相談する。二人の同意を得、太政官の裁可を得た上で、朝忠の指示の(もと)、検非違使が捕縛に向かった。 
 主犯とされたのは、醍醐天皇の第六皇子(みこ)式明親王(しきあきらしんのう)の次男・親繁(ちかしげ)王である。
 母は、光孝(こうこう)天皇の元姫皇子(ひめみこ)で、臣籍降下後、源和子(みなもとのかずこ)として醍醐(だいご)天皇の女御(にょうご)と成って親繁王を生んでいる。さすがに検非違使別当も自身での判断を避け、太政官に(はか)ったと言う訳である。
 強盗の容疑で親繁王を捕縛吟味すると太政官から通告された、式明親王は狼狽した。
 親繁王は痢病(りびょう)(下痢)を患っており、とても吟味には耐えられないと申し立てるが、認められなかった。捜索の結果、親繁王の納戸(なんど)から、満仲邸盗品の殆どが発見された。親繁王は元より、式明親王も『男を進めざる』ゆえを以て罪を科せられた。『男を進めざる』とは、男らしくするよう言い聞かせなかったと言うことか? とすれば、それが罪に問われるとは厳しい。
 もうひとりの共犯者は、満仲と同じ清和天皇の皇孫・源蕃基(みなもとのしげもと)である。蕃基は貞真(さだざね)親王の子で、元は王の身分にあった。自身が臣籍降下した二世源氏であり、満仲の父・経基(つねもと)と同じ立場だ。
 今度こそ千方の尻尾を掴もうと勇み立った満仲だったが、結果を見れば、ひとりは(あるじ)高明(たかあきら)の異母兄の子、もうひとりは父と同じ立場の二世源氏であったのだ。
 特に、蕃基(しげもと)の置かれた立場の厳しさが分かるだけに、満仲といえども、その心境は複雑だった。首謀者三人の内二人は、身分の有る者だ。特に親繁王は親王の子。同じく王と名乗っていても、五世の興世王(おきよおう)などとは訳が違う。なぜ、こんな身分の有る者が強盗など働いたのか? 一口に言ってしまえば、そんな時代だったのだ。
 
 飛鳥(あすか)から奈良時代に掛けての天武系皇統は、男子の皇位継承者が生まれなかったり、生まれても、幼くして死亡してしまったりした為、中継ぎとして何人もの女帝が起つことになった。天武系最後の女帝は、未婚のまま皇太子となり帝位に就いた孝謙(こうけん)称徳(しょうとく)天皇である。宇佐八幡(うさはちまん)神の御託宣(ごたくせん)に因り、僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に帝位を譲ろうとした。御託宣の真偽を確かめに宇佐に行った和気清麻呂(わけのきよまろ)に寄って、御託宣は覆されて混乱が生じる。混乱の中、孝謙・称徳女帝が崩御(ほうぎょ)し、天武系皇統は終焉を迎えたのだ。
 それを教訓として、天智(てんじ)系では兎に角多くの子を設けることが奨励された。皇后(こうごう)中宮(ちゅうぐう)と呼ばれる正室の他に、源氏物語の表現を借りれば『女御(にょうご)}更衣(こうい)あまたさぶらいける』と言う状況になって行くのだ。
 元気な(みかど)は、数十人の子を設ける。その子がまた数十人の子を設けると言うことになれば、鼠算式に皇族が増えて行くことになる。五代までは皇族としての扱いを受け、王と名乗ることが出来る。その数はとんでもなく多くなり、彼等を養う為の予算は膨大な額になってしまった。 
 遷都(せんと)蝦夷(えみし)討伐と併せて出費は(かさ)む一方で、荘園が増え、本来国に入るべき税収が、公卿(くぎょう)や寺社の懐に入ってしまう為、朝廷は財政破綻一歩手前まで追い詰められる。
 桓武(かんむ)天皇は、蝦夷討伐に区切りを付け、辺境を除いてそれ以外の国軍を廃止した。そして、桓武系三代目・(光仁(こうにん)天皇から数えれば四代目)の嵯峨(さが)天皇の時から、臣籍降下(しんせきこうか)が行われるようになった。 

 高明(たかあきら)のように、臣籍降下後も政治的に重要な地位に()り続けることが出来る者は、ごく少数でしか無い。大方(おおかた)は、数代のうちに身分が急降下して行くのだ。

 親繁(ちかしげ)王は次男である為、臣籍降下の沙汰がいつ来るかと怯えていた。向こう気だけは強いが、内心は弱い。不安を忘れようと遊び回り、仲間を募り乱行を重ねていた。遊び仲間の一人が源蕃基(みなもとのしげもと)であり、その蕃基が仲間に誘い込んだのが倉橋弘重である。
「面白い。その怨み、麿が晴らして(つか)わす」
 弘重の満仲への恨み言を聞くと、親繁王はそう言って胸を張った。
不浄(ふじょう)の身を(かえり)みず、饅頭(まんじゅう)めが都大路(みやこおおじ)を大手を振って歩いているのを、兼ね兼ね不快に思うておった。吠え(づら)かかせて見せよう。弘重! 手引き致せ。天罰を下してくれようぞ」 
 これは、親繁王に取っても痛快極まりない憂さ晴らしであった。他に七人のならず者を雇って、犯行は実行された。

 犯行の行われた当日、千方の姿は近江(おうみ)《現・滋賀県》の甲賀(こうか)()った。晩年の父・秀郷から『上洛する際には、その前に甲賀を訪ねよ』と言われていた。
 秀郷の知己(ちき)・甲賀三郎こと望月兼家(もちづきかねいえ)は、承平の乱で挙げた手柄に因り、甲賀郡(こうかごおり)の郡司と成り、その後、伊賀国(いがのくに)伊賀郡(いがごおり)(現・三重県西部の伊賀市付近)の郡司をも兼ねるようになっていた。

 伊賀国は、天武天皇九年(六百八十年)に伊勢国から分離されており、近江国・甲賀郡と境を接している。 
「朝鳥。始めての土地だが、この景色、何か懐かしい気がせぬか」
 馬の歩を進めながら、千方が朝鳥に話し掛ける。 
左様(さよう)。どこと無く、下野(しもつけ)(かく)(ざと)に似ているような気が致しますな」
「そのほうも、やはりそう思うか。景色ばかりの話ではないな」
 秋の刈入れの季節である。多くの農民達が田や畑で働く姿が見える。皆忙しそうに働いており、千方と朝鳥に視線を送る者はひとりとしていない。それが、下野(しもつけ)の隠れ郷を思い起こさせた。いくら忙しく働いているとは言え、明らかに余所者(よそもの)と思われる者達が入ってくれば、一瞬でも、立ち止まって視線を投げ掛けるはずである。まして、乗馬で太刀を帯びている二人なのだから、関心を持たない方がおかしい。相手に気取(けど)られず、無関心を装って密かに観察する(すべ)を心得ている者達だ。ただの農夫では無い。
郡家(ぐうけ)に行く道を尋ねてみようか」
と千方が言い、
「お~い!」
と朝鳥が呼び掛ける。
「忙しい処を済まぬ。郡家(ぐうけ)に行きたいのだが、道を教えては貰えぬかのう」
 一人の農夫が腰を伸ばし、こちらを見た。
「真っ直ぐ行けばええで。道なりに進んで行けば、目を(つむ)っていても行けますわ」
 農夫は、手を止めてそう答えてくれた。骨太で、腕の筋肉が盛り上がっている。
「そうか。手を止めさせて済まなかった。礼を申す」
「いんや、何の」
と言っただけで、男は何も問い掛けては来ず、直ぐに下を向いて刈入れ作業を始めた。
「やはり、只者ではありませんな」
 そう言って朝鳥がニヤリとする。
「兼家殿の手の者であろう」
「兼家様は、郡司でありながら細作(さいさく)生業(なりわい)とされているそうですから、(さと)の者の多くが手練(てだ)れと言うことで御座いましょう」 
「その通り!」
 突然後ろから声がした。千方も朝鳥も、キッとなって馬を廻した。笠を被った小柄な農夫が、いつの間にかふたりの後ろに立っている。鋭く見詰めた千方の表情が緩む。
「秋天丸か?」
 そう確認した。 
「お待ちしておりました」
 笠を取りながら秋天丸は笑顔で答え、頭を下げた。千方と朝鳥は東海道を来たが、下野(しもつけ)から東山道を経て、秋天丸達は前日に甲賀に入っていた。
「ご案内します」
と笑顔を見せる秋天丸に、
「一本道と言われたぞ」
と千方が突っ込む。
「では、露払い致します」
 秋天丸が走り出した。千方ら二人は、馬首を廻らし速歩(はやあし)で後を追う。

 舘の前では兼家が出迎えていた。朝鳥が農夫に道を尋ねる以前に、早くも報せの者が走っていたのだろう。そして、兼家の後ろには、夜叉丸、祖真紀らの姿が有る。
「ようこそお()でなされた。千方殿。お待ちしておりました」
 兼家が、そう言って千方らを迎えた。千方らは馬を降り、頭を下げる。
 兼家の案内(あない)で広間へ通ると、千方、朝鳥、祖真紀、夜叉丸、秋天丸の順で左側に着席した。その下座に既に座っている者がひとり居た。犬丸である。
 兼家は正面奥まで進み、向き直って腰を下ろす。右側には、千方の見知らぬ四人の男達が座っている。だがそれらの男達が誰なのかは、千方には分かっていた。
「ようこそお()でなされた、千方殿」
 兼家が改めて声を掛け、千方らが揃って頭を下げる。
大勢(おあぜい)で押し掛け、申し訳も御座いません。お世話をお掛け致す」
「何の。今の麿が有るのも父上・秀郷(ひでさと)殿のお陰。また、千方殿には、信濃(しなの)のことで大変お世話になっております。何もお構い出来ませぬが、どうぞ、我が家と思うてお(くつろ)ぎ下され」
「お言葉に甘えさせて頂きます」
「一応、お引き合わせ致しましょう」
 兼家が自分から見て左側に居並ぶ四人を指して千方に言った。
「昔父上から譲り受けた者達で、今は我が郎等達で御座る。手前から順に、大道国家(おおみちくにいえ)駒木時家(こまきときいえ)広表忠家(ひろおもてただいえ)広岡義家(ひろおかよしいえ)に御座います。元は、それぞれ、国影(くにかげ)時影(ときかげ)、}忠影(ただかげ)義影(よしかげ)と名乗っておりましたが、変えました。ご承知の通り細作(さいさく)なども生業(なりわい)としておりますので、名に影が付いていては、少々不都合なことも御座いましてな。また、国家(くにいえ)には近く山中(やまなか)を名乗らせるつもりでおります。祖真紀殿の弟ゆえ、大道(おおみち)の名乗りを捨てさせるのは忍び無いが、山中は土地の名門で、跡継ぎが無く絶えておったので、国家に再興させようと思っております。また、忠家は、()服部(はっとり)持安(もちやす)と言う者の(むすめ)でしてな。服部家は、(おのこ)の兄弟が全て身罷(みまか)ってしまい跡継ぎがおりません。いずれ、忠家が服部の跡を継ぐことになりましょう。祖真紀殿、宜しいかな?」
 兼家が祖真紀に尋ねた。
「弟も含め、皆、兼家様の郎等。手前に異存の有ろうはずが御座いません」
 そう答えて、祖真紀が頭を下げた。
「いや、ひと言断って置きたかったのよ。ところで千方殿、昨夜は、この四人と祖真紀殿を交えて話が盛り上がりましてな。将門を討った、北山の戦いの話で御座るよ。千方殿も、或いは父上からお聞き及びかも知れませんが、当時、古能代と名乗っておった祖真紀殿の活躍は大したものであった。麿の手柄など、それに比べれば、大したことは無い。のう朝鳥殿」
「いえ、兼家様のご活躍は大したもので御座いました」
と朝鳥はそつが無い。
「それも、祖真紀殿の助けが有ってのこと」
 兼家は尚も祖真紀を立てる。
「飛んでも無い」
 祖真紀が不器用に少し頭を下げた。
「何の。秀郷殿の(めい)で、開戦を遅らせる交渉の為、単身将門の陣に乗り込むわ、麿が将門に近付く為の道を切り開くわ、それは大変なものであったぞ」
 将門を射殺(いころ)したのも、貞盛では無く実は古能代(祖真紀)であったことだけは兼家は知らないし、それを知っている四人も、そのことだけは、ひ(あるじ)である兼家にも、決して漏らしてはいないのだ。
「そう仰って頂けるのは有難いことですが、買い(かふ)りに御座います」
 影の働きこそ自分の仕事と思っている祖真紀は、褒められると落ち着かない。
「相変わらず、欲の無い男じゃな」
と兼家が笑い、
「朝鳥殿も交えて、今宵も語り明かそうぞ。千方殿が初めて聞く話も有るやも知れぬ」
と続けた。
「楽しみに御座います」
と千方が応じる。
「ところで千方殿。都には、どのくらいおられる予定か」
「当分おることになりましょう」
「人手が必要な時には、いつでも、気軽に声をお掛け下され。都に潜伏している者も多くおりますので、急な時にもお役に立てると思います」
「さすが兼家様。都の動きも常に見張っていると言うことで御座いますな」
 そう言ったのは、朝鳥である。
「元はと言えば、それも秀郷殿を見習ってのこと。秀郷殿が将門に勝てた理由としては、将門のことを調べ尽くしていたことが大きい。将門が兵の多くを帰したことを、いち早く察知したことが何よりの勝因と見ました。世の動きを知ること、中でも敵の動きをいち早く察知することは、誰に取っても大事なこと。己でそれが十分に出来ぬ時は、対価を払ってでも手に入れたいと思うはず、己の身の安全の為、また、財を得る為、それを生業(なりわい)としようと思いましてな。忠家(ただいえ)ら四人が身に付けていた技が大いに役立っております。正に下野藤原家(しもつけふじわらけ)とは一心同体。困り事があれば、いつなりと気軽にお申し出下され。出来るだけのことはさせて頂きます」
 (ささ)を酌み交わしながら、夜遅くまで話は続いた。

 翌朝兼家は、郎等達を率いて、千方達を国境(くにざかい)まで送ってくれた。そして、その様子は多くの人の目に触れていたのだ。

  参考

https://7496.mitemin.net/i108211/

https://7496.mitemin.net/i108209/

https://7496.mitemin.net/i108212/
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