第二章 第15話 父の想い
文字数 7,305文字
こうして、千方は信濃望月家の内紛を解決して下野 に戻り、佐野に寄って千常に報告した後、田沼の秀郷の舘を訪れた。
「待ち兼ねておった」
泥鰌髭 を扱 きながら、秀郷が言った。
正面に胡坐 を掻 いて坐っている秀郷の前に、同じように胡坐 をかいて座り、両の拳 を床に突いて、千方が頭を下げる。
「佐久 から戻ったばかりか?」
と秀郷が尋ねる。
「はい、兄上に報告し直 ぐに参りました」
「その様子では吉報 と見えるが、手勢はいかほど連れて参った」
満足そうに秀郷が笑みを見せた。
「五十ほど率いて参りました。貞義殿から、父上にくれぐれも宜しくと言付 かって参りました。お陰様で何とか収まりました」
「そうか、それは上々。どうやった?」
「はい、朝駆けと称して舘を出、外に伏せて置いた手勢と合流して舘に引き返し、一気に決着を付けました」
そう秀郷に報告する。
「やはり、切羽詰 まっておったか?」
「はい。そのようでした。しかし、伯父の兼光を捕らえ、一味を一掃することが出来ました。どちらに着くか迷っていた者も多かったようですが、兼光派の主な者が捕らわれたことにより、皆、貞義殿に服従致しました」
秀郷が頷く。
「そうか。実はな、兼家殿が甲賀郡 の郡司 と成って近江 に移ってより、望月の家は貞義殿の父・兼貞 殿が跡を継いだのだが、些細 な揉 め事が始まって、兼貞 殿の死後、それが大きくなって来ておったようだ。貞義殿の代となって、いよいよ抑えきれぬ程になっていたものと見える。もちろん、海野 、根津 という滋野 三家としての後ろ盾は有るが、内輪のことで弱みを晒 したくは無かったのであろう。何より、兼家殿に聞こえてはとの想いが有り、困り果てていたのであろう。
尤 も、兼家殿は疾 の昔に知っておった。あの男近頃、郡司で在りながら細作 をも生業 としているようじゃ。都や諸国の様子を調べ、それを己の為に使うだけでなく、必要とする者に売り込んでおる。かと言って、郡司たる者がそう簡単に信濃くんだりまで兵を出す訳にも行かず、思案しておったようだ。
貞義殿に危険が差し迫っている様子と報せて来たのは、兼家殿の郎党と成っている祖真紀の弟・大道国影 という者だ。元の名は支由威手 と申し、国時 の配下だった者だ。…… 汝 が行った時、驚いておったろう、貞義殿は」
為 たり顔で秀郷が千方を見た。
「はい。最初はそのようでした。ただ、直ぐに理解して頂けました」
「千方。大きくなったのう。五郎(千常)も安心して任せたのであろう」
秀郷は笑みを漏らし、感慨深げにそう言った。
「それはどうか分かりませんが、麿の方は必死でした。早々と気付かれ、逆に一気に事を起こされて、貞義殿が殺されたり人質に取られたりするようなことになっては元も子も無くなってしまいますから」
「だが、上手くやれた。今まで、無駄に修羅場を潜っては来なかったということじゃ。教え事には行かぬ。その場の状況を読み取って、いかに速やかに判断を下し、適切な行動を取れるか。慎重さと機敏さ。この一見矛盾するふたつのことをどう使い分けられるか。それが出来なければ失敗しておったろう。見事じゃ」
「恐れ入ります。父上にお褒め頂いたのは、初めてのことに御座ります」
秀郷は少し目を剥 いた。
「う? そうであったか? 褒めた事は無かったかのう」
そう言う秀郷の表情が可笑しくて、思わず千方は吹き出しそうになった。
「父上がお望みのように、下野藤原家 の力を、坂東一帯、伊豆、信濃にまで伸ばして行きたいと思っております。官位・官職には余り興味が有りません」
千方がそう言った時、満足げに笑っていた秀郷の表情が変わった。
「青い! 麿が従四位下 であったればこそ、今の麿が在り汝 達が在るのだ。今の世の中、官位・官職が無ければ何も出来ぬ。官位・官職には余り興味が無いなどと軽々しく申すで無い」
つい調子に乗ってしまったかと、千方は己を振り返った。
「ご教授、しかと心に留め置きます」
と神妙に頭を下げる。
「人ひとりの力など知れたものじゃ。時には他人の力を頼み、時には利用することも出来ねば、ひとりの力で出来ることなどたかが知れておると思え。だが、他人 を当てにしてはならん。最後は己のみ。そう言う覚悟も忘れぬこと。しかと覚えておくが良い。やれる限りのことをやって駄目な時、それが己の定めと言うものじゃ」
「お教え肝 に命じます」
千方はもう一度頭を下げる。
「ところで、五郎がのう、汝 を養子にしたいと申して来ておる」
秀郷がふいにそう切り出した。
「その件なれば、兼ね兼ね兄上からも言われておりますが、……」
千常に度々言われてはいるが、余り触れたく無い話題だった。
「草原 から連れて来た時より、そのつもりであったのであろう。草原 は豊地 に継がせれば良いのだから、問題は有るまい。千常は、汝 に跡を継いで貰いたいのじゃ。汝 に取っても良きことであろう。
庶子 の六男の儘では碌 な官職にもあり付けぬであろうが、麿の直系の孫で、嫡嗣 である藤原太郎 と言うことに成れば、将来は五位も望める立場となる」
「父上が爺 様ということになってしまうのですか?」
「混 ぜっ返すな。系図の上のことじゃ」
「今では、兄上には嫡子 ・太郎がおるでは御座いませんか」
千常の話に乗れない理由はそこにあった。
「まだ、二歳の童 (数え年のため、満では一歳数か月)じゃ。もし今、自分に何か有ればと心配なのであろう。麿もいつまで元気か分からんしのう」
「もし、兄上に何か有った際には、熊丸が成人する迄は麿が後見し、伯父として家督を預かるということで宜しいのでは?」
「望月の例も有る。伯父では乗っ取ったと言われ兼ねぬ。成人したら返すなどと言っても信用されまい。だから、五郎はそなたをきちんと養子にし、後を託そうと思っておるようじゃ」
「ならば、猶子 (養子とは異なり相続を目的としないという建前)ということにして頂けませんでしょうか?」
「実際問題としては、養子も猶子も変わらぬわ。汝 がそう望むなら、猶子 でも良い」
と秀郷も折れた。
「もうひとつお願いが御座います。麿は藤原六郎 という名乗りが気に入っておりまして、引き続きそう名乗ることをお許し下さい」
秀郷は少しムッとしたように横を向き、少し間を置いてから、改めて千方を見た。
「こんなへそ曲がりとは思わなんだな。千常の猶子 となれば、朝廷への届け出も必要だし、公 の場では『太郎』と名乗らなければならんのじゃ。その上で跡継ぎを誰にするかは五郎が決めること」
「申し訳有りません。父上に逆らうつもりなど毛頭御座いません。しかし、実の子に継がせたいと思うのは人として当然。預かることはあっても、麿も、熊丸を差し置いて継ぎたいとは思いません。そういう気持ちを、今はっきりとさせて置きたいのです」
秀郷はまじまじと千方の顔を見た。
「汝 には欲が無いのか、それとも、その歳でもう、将来の保身を考えておるのか?」
少々呆れ気味に千方の顔を見る。
「欲は有ります。兄上の片腕と成って、父上のお望みのように下野藤原家 の力を、坂東一帯、伊豆、信濃にまで伸ばして行きたいと思っております」
千方はその辺のところをはっきりさせて、将来に禍根を残す事が無いようにしたいと思っている。
「その為に、嫡子 とすることが必要と五郎は思っているのだ。麿が従四位下 であったればこそ、今の麿が在り、汝 達が在るのだ。何度も言うが、今の世の中、官位・官職が無ければ何も出来ぬ。嫡子 と庶子 では朝廷の扱いが違う。己ひとりの力など知れたものと申した意味がまだ、良く分かっておらぬと見えるな」
秀郷は不思議そうに千方を見、千方も秀郷を見た。
「父上は、朝廷の意に逆らって出世を拒否して来られたお方かと思っておりました。従四位下 は将門討伐の恩賞として当然のもので、都に上れば、更に位階も上がり参議にも列する機会が有りながら、坂東の地に留まり、その力を養って来られたのでは無いのですか?」
秀郷が「ふふっ」と笑った。
「そんな風に思っておったか。やはりまだ若いな。世の中と言うものはそんな甘いものでは無い。もし麿が上洛していたとしたら、疾 うの昔に下野藤原 家は無くなっておったわ」
「どういうことでしょうか?」
意外な事を言われ、千方が尋ねる。
「朝廷が麿に褒美を与えたのは、やむ無く渋々じゃ。折あらば足元をすくってやろうと虎視眈々と狙っておるのよ。下野に根を張っておる限りはそう簡単に潰されることは無い。もし、あの時、麿が太政官 の命 に従って上洛していたとすれば、まず、太政官の意を汲んだ下野守 が任命され、麿が留守にしている下野 内の人脈をずたずたにし、麿の勢力を奪うことから始まり、最後は何かの罪を着せて麿を殺すか流罪にするかしたに違いない。もちろん、千晴や千常も流されることになったであろう」
秀郷の表情が厳しいものとなっている。
「そんな! 朝廷とは、そんな悪辣なことを考えるところなのですか?」
と千方が聞く。
「悪辣な? ふふ、珍妙な言葉を使いおるのう。悪と言ってしまえば、今の世の中全てが悪じゃ。そんな考えでおったら、いずれ誰かに嵌 められて短い生涯を終えることになるぞ」
秀郷は厳しくそう言った。
「はい」
と無意味な返事をしながら、千方は昔陸奥に居た時、朝鳥に言われた言葉を思い出した。
『誰から見ても正義、誰から見ても悪などというものは存在しません。力を持った者から見ての正義や悪が世に罷通り、歴史にもそのように残って行くというもので御座いますよ』
朝鳥は、確かそんなことを言っていた。
『父がもし上洛していたとしたら、藤原秀郷は冤罪により処罰され、悪人として歴史に名を残すことになっていたのか』
そう思った。
「生き残る為には、あらゆることに気を配り、考えて手を打って行かねばならん。戦場 で太刀が折れたり失ったりした時、落ちていれば、敵の太刀であろうと、拾って戦うであろう。己の力が足りなければ、利用出来る物は何でも利用せねばならん。
麿の目から見れば、千晴も千常も、まだ心許 無い。千常は近くにおるゆえ、危ういと思えば注意も出来るが、都におる千晴に付いては、その機会も無い」
「高明 様の許 に在 る限り、都の兄上に災いが降り掛かることも御座いませんでしょう」
と千方が思うところを述べる。
「こたびの働きでは、少しは大人に成ったかと思うたが、六郎、やはり、そのほうは能天気のようじゃな」
秀郷がそう言ってニヤリとした。
「は? どう言うことで御座いますか」
言われた意味が分からず、不思議そうに千方が尋ねる。
「今宵は泊まって行け。離れて暮らしていたゆえ、汝 には色々と教えることも出来なかった。そう思って朝鳥を付けたが、まだまだ、世を渡って行く為の知恵が身に付いているとは思えん。今宵は物語などして遣わそう。麿の話から、何か得るものがあるやも知れぬ」
「それは願っても無いことで。麿も、父上のお話を、一度ゆっくりと伺いたいと思うておりました」
千方が嬉しそうにそう言う。
「良い機会じゃ。麿もいつまで生きておるか分からんでのう」
「何をお気の弱いことを。父上は、初めてお目に掛かった頃より変わってはおられません」
そうは言ったが、千方は、父の外見や動作に、やはり老を感じていた。
従って来ていた夜叉丸と秋天丸は郎党長屋に泊めて貰うこととし、秀郷の居室に場を移し、酒など運ばせた上人払いをして、ふたりは向かい合っていた。
浅めの四角い注ぎ口と籐の吊り手の付いた陶器を火に掛けて温めた酒を、千方が秀郷のカワラケに注 ぐ。
「暖酒 は良い。寒くなって来るとこうして飲むのが何よりじゃ」
「麿も頂きます」
そう言って、千方は、自分のカワラケにも注いだ。
「今、朝廷を動かしている藤原北家の祖は、房前 候の三男・真盾 の流れ。我が祖・魚名 候は同じ房前 候の五男じゃ。
そう言う意味では、我等も同じ北家と言えないことも無いが、北家が力を得たのは真盾 の三男・内麻呂 からじゃ。そして、忠平 の父・基経 からは、帝 を凌 ぐ力を持っておる」
「はい。それは存じております」
父の盃に酒を注 ぎながら、千方が頷く。
「良う学んでおるのう。では、我が血筋ながら、藤原が今までどれだけの者達を陥れて来たか、分かるか?」
「いえ」
「数え切れぬ。下は下級司人 から、上は皇太子、帝 までじゃ。同族とて、都合の悪い者は葬る。我が祖・魚名 侯もその犠牲となったひとりだ。後に桓武 の帝 に寄って冤罪であったことが宣され、罪に関わる記録も抹消されて太政大臣を贈られたが、死んだ後ではな……」
「嵌 めたのは北家の者達ということですか?」
「誰がやったか実際には分からん。だが、北家以外の誰が出来る? 当時右大臣だった魚名 侯を嵌 めるなどという真似が…… 麿は心根の上では鳥取 の一族と思うておると以前申したことが有ったな」
「はい。初めての対面の折、そう伺いました」
「だが、藤原を名乗り、その血を引いている以上、やはり、祖である魚名 候のことは気になり、何人かの学者に依頼し、調べて貰った。候は、桓武帝 即位の年に右大臣に上った途端、冤罪の為失脚し、配流地に赴 く途中で病 に倒れたのだ。願い出て、摂津 に有った別荘に留まり治療を行うことを許され、二年後には都に戻ることは出来たが、そのまま亡くなった。さぞ、無念なことであったろうと思う。
亡くなって間も無く、桓武帝 は、魚名 候に左大臣の官職を贈り、右大臣免官に関する詔勅 や官符 などを焼却させ、その名誉を回復させた。
つまり、冤罪であり、帝 の下した処分が誤りであったことを、事実上認めたことになる。しかし、帝 が謝罪することまでは無かった。
当時、即位したばかりの帝 の立場はまだ不安定で、何よりもまず、権威を確立せねばならぬお立場にあったからであろう。従って濡 れ衣 を着せられた経緯も、誰が魚名 候を嵌 めたかも一切明らかにされなかったし、調べた限り、それについての文書 も残っておらん。
当時、北家の氏長者 ・永手 は魚名 候が嵌られた三月 前に死んでおる。そして、真楯 の三男・内麻呂は、まだ従五位下 に過ぎず、とても、右大臣を葬れる立場には無かった。
怪しいのは、永手 の嫡男・藤原家依 という男だ。称徳朝 から光仁朝 に掛けて急速に出世し、参議になっていたという。桓武帝 が即位した年には、従三位 ・兵部卿 に叙任 されている。
ところが、魚名 候の冤罪が晴れた後、後任の参議であった大伴家持 、藤原小黒麻呂 、藤原種継 らが次々と中納言に任ぜられる傍 らで、家依 は参議から昇進出来ないまま、四年後に四十三歳の若さで死んだそうだ。
発覚後,直ぐに下手人を罰することは、讒言 に惑わされて魚名 候を失脚させた帝 ご自身の過ちを広く世間に晒すことになる。当時まだお立場が危うかった帝 にすれば、とても出来ぬことであったのであろう。
家依 には、魚名 候を陥れる策を弄しても出世したい理由が有ったと思われる。父の永手 は、光仁帝 の擁立に際しては、式家の良継 、百川 兄弟と共に功績が有ったが、光仁 天皇の皇太子に付いては、山部 親王(後の桓武天皇)を推した良継 、百川 らの反対を押し切って、井上内親王 を通じて天武 系の血を引く他戸 親王を立てようとしたと言われている。その永手 は桓武帝 即位前に死んでいる。
しかし、永手 の所業に恨みを持った桓武帝が家依 の出世を止めたということでは無く、即位半年後の十月には、正四位上 だった家依 を従三位 に引き上げておる。
魚名 候が流罪となったのは六月だから、家依が十月に昇進したのは、或いは、魚名 候が氷上川継 の乱に加担していると訴えたことに対する褒美の意味だったかも知れぬ。
後に、冤罪であったことを知った帝 は、魚名 候の名誉回復だけを行ったと考えることが出来る。そして、家依 は飼い殺しにし、ほとぼりの覚めた四年後に、密かに抹殺したのではなかろうかと思うのだ。
家依の出世が急に止まり、若死にしたというだけでは無い。つまり、家依 の昇進がぴたりと止まったのは、その父・永手 に対する桓武帝 の怒りからでは無く、家依 自身に原因があったと考えるのが自然だろう。
桓武帝 の治世では出世出来ないだろうと勝手に思い込んでいた家依 が、出世を焦って魚名 候を誣告 し、その結果昇進したが、二年後に魚名 候が亡くなった丁度その頃、何かの切掛けで、冤罪であることが発覚した。麿はそう考えるに至った。証 は何一つ無いがな」
千方は疑問を口にした。
「その家依 とやらが罪を犯しても、北家が伸 し上ることに障 りは無かったということでしょうか?」
一度頷いた秀郷が続ける。
「永手 の流れがその後、日の目を見ることは無かった。代わって、永手 の弟・真楯 の三男・内麻呂 が伸 し上ったのだ。妻を桓武帝 に差し出してな」
「はあ?」
秀郷が最後に言った言葉に千方は呆気に取られた。
「内麻呂 の最初の妻は、百済永継 と言って渡来系の女子 でな、後宮 で女嬬 を務めていたが、帝 に見初 められ、内麻呂 は妻を差し出したのだ。そして、その後急速に出世した」
「出世の為なら、他人 を陥れることも、妻を差し出すことも何でもやる。そんな者達なのですか?」
暗い顔になり、千方が嘆息 した。
「朝廷と藤原の歴史は、裏切りと粛清、讒言と保身に満ちておる。それが下々 にまで広がったのが今の世じゃ。
国司を通じて国中から富を吸い上げ、贅沢三昧 の暮らしをしている公卿 達。奴らがやがてはこの国を亡ぼす。そう言う麿も国司として、奴らの収奪の片棒を担いでおった。麿も含め、この世は悪だらけよ」
そう言って秀郷は自嘲気味に笑った。
「そんな」
父が己自身を悪と言うとは、千方は思ってもいなかった。
「だがな。こんな麿でも、この世を変えてやろうと本気で思っていた時期が有った。分かるか?」
自重気味の言葉の後、父の目が輝いた。
「承平 の乱の頃のことで御座いますか?」
と千方が確認する。
「聞きたいか? 当時のことを」
と秀郷が聞いて来た。
「はい。至極興味が御座います」
千方も目を輝かせる。
「うん」
と頷くと秀郷は、
「誰ぞ在 る!」
と郎党を呼び、ひとりが現れると、
「薄暗くなって参った。灯 りを持て。それと、酒の代わりもな」
と命じた。
「待ち兼ねておった」
正面に
「
と秀郷が尋ねる。
「はい、兄上に報告し
「その様子では
満足そうに秀郷が笑みを見せた。
「五十ほど率いて参りました。貞義殿から、父上にくれぐれも宜しくと
「そうか、それは上々。どうやった?」
「はい、朝駆けと称して舘を出、外に伏せて置いた手勢と合流して舘に引き返し、一気に決着を付けました」
そう秀郷に報告する。
「やはり、
「はい。そのようでした。しかし、伯父の兼光を捕らえ、一味を一掃することが出来ました。どちらに着くか迷っていた者も多かったようですが、兼光派の主な者が捕らわれたことにより、皆、貞義殿に服従致しました」
秀郷が頷く。
「そうか。実はな、兼家殿が
貞義殿に危険が差し迫っている様子と報せて来たのは、兼家殿の郎党と成っている祖真紀の弟・
「はい。最初はそのようでした。ただ、直ぐに理解して頂けました」
「千方。大きくなったのう。五郎(千常)も安心して任せたのであろう」
秀郷は笑みを漏らし、感慨深げにそう言った。
「それはどうか分かりませんが、麿の方は必死でした。早々と気付かれ、逆に一気に事を起こされて、貞義殿が殺されたり人質に取られたりするようなことになっては元も子も無くなってしまいますから」
「だが、上手くやれた。今まで、無駄に修羅場を潜っては来なかったということじゃ。教え事には行かぬ。その場の状況を読み取って、いかに速やかに判断を下し、適切な行動を取れるか。慎重さと機敏さ。この一見矛盾するふたつのことをどう使い分けられるか。それが出来なければ失敗しておったろう。見事じゃ」
「恐れ入ります。父上にお褒め頂いたのは、初めてのことに御座ります」
秀郷は少し目を
「う? そうであったか? 褒めた事は無かったかのう」
そう言う秀郷の表情が可笑しくて、思わず千方は吹き出しそうになった。
「父上がお望みのように、
千方がそう言った時、満足げに笑っていた秀郷の表情が変わった。
「青い! 麿が従
つい調子に乗ってしまったかと、千方は己を振り返った。
「ご教授、しかと心に留め置きます」
と神妙に頭を下げる。
「人ひとりの力など知れたものじゃ。時には他人の力を頼み、時には利用することも出来ねば、ひとりの力で出来ることなどたかが知れておると思え。だが、
「お教え
千方はもう一度頭を下げる。
「ところで、五郎がのう、
秀郷がふいにそう切り出した。
「その件なれば、兼ね兼ね兄上からも言われておりますが、……」
千常に度々言われてはいるが、余り触れたく無い話題だった。
「
「父上が
「
「今では、兄上には
千常の話に乗れない理由はそこにあった。
「まだ、二歳の
「もし、兄上に何か有った際には、熊丸が成人する迄は麿が後見し、伯父として家督を預かるということで宜しいのでは?」
「望月の例も有る。伯父では乗っ取ったと言われ兼ねぬ。成人したら返すなどと言っても信用されまい。だから、五郎はそなたをきちんと養子にし、後を託そうと思っておるようじゃ」
「ならば、
「実際問題としては、養子も猶子も変わらぬわ。
と秀郷も折れた。
「もうひとつお願いが御座います。麿は
秀郷は少しムッとしたように横を向き、少し間を置いてから、改めて千方を見た。
「こんなへそ曲がりとは思わなんだな。千常の
「申し訳有りません。父上に逆らうつもりなど毛頭御座いません。しかし、実の子に継がせたいと思うのは人として当然。預かることはあっても、麿も、熊丸を差し置いて継ぎたいとは思いません。そういう気持ちを、今はっきりとさせて置きたいのです」
秀郷はまじまじと千方の顔を見た。
「
少々呆れ気味に千方の顔を見る。
「欲は有ります。兄上の片腕と成って、父上のお望みのように
千方はその辺のところをはっきりさせて、将来に禍根を残す事が無いようにしたいと思っている。
「その為に、
秀郷は不思議そうに千方を見、千方も秀郷を見た。
「父上は、朝廷の意に逆らって出世を拒否して来られたお方かと思っておりました。
秀郷が「ふふっ」と笑った。
「そんな風に思っておったか。やはりまだ若いな。世の中と言うものはそんな甘いものでは無い。もし麿が上洛していたとしたら、
「どういうことでしょうか?」
意外な事を言われ、千方が尋ねる。
「朝廷が麿に褒美を与えたのは、やむ無く渋々じゃ。折あらば足元をすくってやろうと虎視眈々と狙っておるのよ。下野に根を張っておる限りはそう簡単に潰されることは無い。もし、あの時、麿が
秀郷の表情が厳しいものとなっている。
「そんな! 朝廷とは、そんな悪辣なことを考えるところなのですか?」
と千方が聞く。
「悪辣な? ふふ、珍妙な言葉を使いおるのう。悪と言ってしまえば、今の世の中全てが悪じゃ。そんな考えでおったら、いずれ誰かに
秀郷は厳しくそう言った。
「はい」
と無意味な返事をしながら、千方は昔陸奥に居た時、朝鳥に言われた言葉を思い出した。
『誰から見ても正義、誰から見ても悪などというものは存在しません。力を持った者から見ての正義や悪が世に罷通り、歴史にもそのように残って行くというもので御座いますよ』
朝鳥は、確かそんなことを言っていた。
『父がもし上洛していたとしたら、藤原秀郷は冤罪により処罰され、悪人として歴史に名を残すことになっていたのか』
そう思った。
「生き残る為には、あらゆることに気を配り、考えて手を打って行かねばならん。
麿の目から見れば、千晴も千常も、まだ
「
と千方が思うところを述べる。
「こたびの働きでは、少しは大人に成ったかと思うたが、六郎、やはり、そのほうは能天気のようじゃな」
秀郷がそう言ってニヤリとした。
「は? どう言うことで御座いますか」
言われた意味が分からず、不思議そうに千方が尋ねる。
「今宵は泊まって行け。離れて暮らしていたゆえ、
「それは願っても無いことで。麿も、父上のお話を、一度ゆっくりと伺いたいと思うておりました」
千方が嬉しそうにそう言う。
「良い機会じゃ。麿もいつまで生きておるか分からんでのう」
「何をお気の弱いことを。父上は、初めてお目に掛かった頃より変わってはおられません」
そうは言ったが、千方は、父の外見や動作に、やはり老を感じていた。
従って来ていた夜叉丸と秋天丸は郎党長屋に泊めて貰うこととし、秀郷の居室に場を移し、酒など運ばせた上人払いをして、ふたりは向かい合っていた。
浅めの四角い注ぎ口と籐の吊り手の付いた陶器を火に掛けて温めた酒を、千方が秀郷のカワラケに
「
「麿も頂きます」
そう言って、千方は、自分のカワラケにも注いだ。
「今、朝廷を動かしている藤原北家の祖は、
そう言う意味では、我等も同じ北家と言えないことも無いが、北家が力を得たのは
「はい。それは存じております」
父の盃に酒を
「良う学んでおるのう。では、我が血筋ながら、藤原が今までどれだけの者達を陥れて来たか、分かるか?」
「いえ」
「数え切れぬ。下は下級
「
「誰がやったか実際には分からん。だが、北家以外の誰が出来る? 当時右大臣だった
「はい。初めての対面の折、そう伺いました」
「だが、藤原を名乗り、その血を引いている以上、やはり、祖である
亡くなって間も無く、
つまり、冤罪であり、
当時、即位したばかりの
当時、北家の
怪しいのは、
ところが、
発覚後,直ぐに下手人を罰することは、
しかし、
後に、冤罪であったことを知った
家依の出世が急に止まり、若死にしたというだけでは無い。つまり、
千方は疑問を口にした。
「その
一度頷いた秀郷が続ける。
「
「はあ?」
秀郷が最後に言った言葉に千方は呆気に取られた。
「
「出世の為なら、
暗い顔になり、千方が
「朝廷と藤原の歴史は、裏切りと粛清、讒言と保身に満ちておる。それが
国司を通じて国中から富を吸い上げ、
そう言って秀郷は自嘲気味に笑った。
「そんな」
父が己自身を悪と言うとは、千方は思ってもいなかった。
「だがな。こんな麿でも、この世を変えてやろうと本気で思っていた時期が有った。分かるか?」
自重気味の言葉の後、父の目が輝いた。
「
と千方が確認する。
「聞きたいか? 当時のことを」
と秀郷が聞いて来た。
「はい。至極興味が御座います」
千方も目を輝かせる。
「うん」
と頷くと秀郷は、
「誰ぞ
と郎党を呼び、ひとりが現れると、
「薄暗くなって参った。
と命じた。