第六章 第3話 屈折

文字数 3,235文字

 官位も官職も関係無く、従三位(じゅさんみ)藤原兼通(ふじわらのかねみち)が、今や関白として朝廷を完全に取り仕切っている。もはや、朝廷とは摂関家(せっかんけ)そのものと言っても良いかも知れない。
 (みかど)と言う(かんむり)(いただ)く真のこの国の(あるじ)。それは、藤原摂関家と成りつつある。都合が悪くなれば、冠を替えれば良いのだ。だが、その冠を(いただ)くのは、決まって摂関家の誰かと言うことに成って行く。桓武(かんむ)朝以降、皇子(みこ)の数は養い切れないほど居るのだから、代わりに困ることは無い。(みかど)外祖父(がいそふ)として権力を握る為、摂関家の者達は、競って娘を有力な皇子(みこ)(きさき)として送り込もうとする。男子誕生となれば権力争いに勝てるからである。
 一方、世相はと言うと、区分田(くぶんでん)の不足、徴税の国司への丸投げ、受領(ずりょう)の収奪と公卿(くぎょう)への贈賄の横行。更に本来国に入るべき税収も荘園経営を通じて寺社や公卿が己の(ふところ)へ入れてしまう。
 国軍の廃止に因る治安の悪化、官位・官職を(えさ)に土豪の子弟を只で使い、おまけに貢物(みつぎもの)まで巻き上げる公卿(くぎょう)達。それに加えて、官位を売買する成功(じょうごう)まで蔓延(はびこ)り始めている。
 律令制はほぼ崩壊した。歴史の趨勢(すうせい)として、ここまで腐って来れば公家(くげ)社会は音を立てて崩壊し、新たな勢力が生まれて来そうなものだが、真逆な現象が起こり始めるのだ。 
 実際には、律令制は事実上崩壊したが、替わって『王朝文化』なるものが花開く。摂関政治が絶頂期を迎えるのは兼家(かねいえ)の子・道長(みちなが)の時代である。正に、摂関家に依る摂関家の為の(まつりごと)が行われるのはこれからなのだ。

 平安時代の象徴のように言われる王朝文化だが、既に幹は腐っており、実体は、一斉に開花した後は竹林ごと枯死(こし)してしまう竹の花のようなものだったと言える。
 承平(じょうへい)天慶(てんぎょう)の乱を始めとして、蝦夷(えみし)によるものも含めて大小の乱が起こり、又、この後も起こって行くことになるのだが、当面、根本的な変革は実現しなかった。その原因は、次の時代を担うべき(つわもの)層のアイデンティティーが、未だ確立されておらず、(つわもの)層が一体となって公家(くげ)社会に挑むと言う構図が出来上がらなかった為である。或る者は反逆者となり、又或る者は朝廷側に立って互いに相争(あいあらそ)う。
 官位・官職を与える権限。つまり、律令制度(りつりょうせいど)の最後にして最強の武器。これを手放さなかったことに因り、公家(くげ)社会は命脈を保っていた。(つわもの)達に取っては、尚も暫くは逼塞(ひっそく)の時代が続くことになるのだ。

 天禄(てんろく)四年(九百七十四年)十二月二十八日。天延(てんえん)と改元され、翌、天延二年(九百七十五年)正月七日、兼通(かねみち)従二位(じゅにい)に上り、二月八日に(うじ)の長者、二十八日には正二位(しょうにい)・太政大臣と成って名実(めいじつ)共に頂点に立つ。

   
 朝廷での動きが先走ってしまったが、話は天禄二年(九百七十一年)に戻る。
 太宰府(だざいふ)へ追放の途上で(やまい)に倒れ療養していた高明(たかあきら)だったが、十月には療養の為の帰京を許す決定が下され、翌、天禄三年(九百七十二年)十月、都に戻った。
 その後、高明は政界に復帰することは無く、葛野(かどの)隠棲(いんせい)する。天延(てんえん)二年(九百七十五年)八月には封戸(ふうこ)三百戸が与えられる。病気療養を理由として帰京を許すと言う体裁を取ったが、政治に関わらないことを前提とした事実上の特赦である。ここに来て、千常、千方らの要求の一部が実現したことになる。

 満仲(みつなか)邸が放火された天禄四年(九百七十三年)。兼通(かねみち)は、二月に長女のこう子(“女”偏に“皇”)を円融(えんゆう)帝に入内(じゅだい)させた。こう子は、同年四月に女御宣下(にょうごせんげ)を受け、さらに七月には中宮(ちゅうぐう)冊立(さくりつ)され、兼通は更に立場を強化していた。
 天延五年(九百七十五年)八月に到って朝廷は遂に、安和(あんな)の変の流人(るにん)を召喚する。ところが、藤原千晴(ふじわらのちはる)行方(ゆくえ)は、その後、(よう)として知れなくなる。千晴の名が歴史に登場することはその後一切無い。

 千方は、千晴の行方に付いて何度も問い合わせるが、『島から戻り、その場で()き放った』との答しか得られない。それなら、なぜ(いま)だに戻って来ないのか。ひょっとして、密かに抹殺されたのではないかと言う疑いが芽生えた。十一月になって休暇を取って出雲(いずも)に行ってみようと思ったのだが、折悪(おりあ)しく、内裏(だいり)外郭(がいかく)の北東に位置する朔平門(さくへいもん)などが放火された為、修理職(しゅりしき)は忙しくなり、修復責任者である(すけ)の千方は、休暇どころではなくなってしまった。仕方無く、鷹丸、鳶丸の二人を情報収集の為、出雲(いずも)に派遣することにした。一方、久頼(ひさより)は解き放たれ、千清も陸奥(むつ)から戻って来た。

 或る日、修理職(しゅりしき)から舘に戻る途中、
修理亮(しゅりのすけ)殿』
と声を掛けられた。見ると満季(みつすえ)である。
 満季は天禄二年(九百七十二年)に五位叙爵(ごいじょしゃく)、天禄三年(九百七十三年)には右衛門権佐(うえもんのすけ)と成っており、検非違使(けびいし)を兼ねていた。数名の供を従え、私的な外出中のようだ。満季の顔を見て千方の血が騒いだ。昔の無役(むやく)同士の頃であったなら、間違いなく斬り付けていたことだろう。黙って(にら)み付けた。従っていた夜叉丸、秋天丸の二人も身構えている。
前相模介(さきのさがみのすけ)(千晴)殿が放免されたそうで、宜しゅう御座ったな」
 千晴を捕らえた張本人である。もし、千晴が抹殺されたとすれば、一枚噛んでいる可能性が有る。千方はそう思った。
「満仲殿の舘に火を付けた者共を捕らえたとか」
 逆に問い返した。
「いや、取り逃がした。どこの何者とも知れん」
と満季は(とぼ)ける。
「何の(うら)み有ってのことであろうのう」
 千方はそう皮肉を言った。満仲は、あちこちから数々の恨みを買っている男である。
「恨み? 何のことかな。兄も麿も、そのような覚えとんと無いが」
 満季も(したた)かなものである。
「そうか。ならば良いが、今後とも気を付けるが良い」
 これは嫌味だ。
修理亮(しゅりのすけ)殿もな」
 満季もそう応じた。そして、皮肉な薄笑いを浮かべながら去って行った。

「殿にご迷惑が掛からなければ、ぶった斬ってやるところでした」
 満季が立ち去った後、夜叉丸が呟いた。
 千方が従五位下(じゅごいのげ)(のぼ)ってからは、夜叉丸ら古くからの郎等達も、人前では千方を『殿』と呼ぶようになっていたが、主従のみの時には『殿』と呼んだり『六郎様』と呼んだりしていた。だが、千方は呼び名など気にしてはいなかった。
「麿も同じよ。職も地位も捨てても良いと危うく思い掛けた。だが、死んだ朝鳥が止めてくれた。『今や、下野藤原家の都での足掛かりは六郎様のみなのですぞ。おとどまりなされ』とな」
 頷いた後、
「あの世に行っても口煩(くちうるさ)い爺様ですな」 
 秋天丸がそう茶々を入れる。だが、朝鳥が死んだ時一番悲しんでいたのは、この秋天丸だった。鷹丸と鳶丸の二人が、千晴について、何か良い報せを(もたら)してくれればと思う千方であったが、その望みは薄いだろうとも思った。

 都も寒さを増して来る季節である。ふと、隠棲(いんせい)している高明(たかあきら)のことを想った。(わび)しい毎日を送っていることだろう。様子を知りたいと思うが、今高明に近付くことは、お互いに取って危険過ぎる。大手を振って歩ける身の上に成れたとは言え、やはり、勝ったのは摂関家であり、千常も千方も敗者でしかない。兄・千晴の行方(ゆくえ)さえ思うように探せない。千方は息苦しさを感じていた。目立たず問題を起こさず、この先、官人(つかさびと)として、息を潜めて生きて行かねばならぬのかと思うと、気が滅入った。

 千常(ちつね)から便りが来た。安倍忠頼(あべただより)は良き男で、色々面白い話を聞いたとか、忠頼が千方のことを懐かしがっているなどと書かれていたが、最後に、陸奥(むつ)は安寧過ぎてすることが無いから、千方の嫁のことを色々と考えてみたと言う。そして候補を何人か書き連ねている。
 嫁取りに付いて、千常は今まで余り(うるさ)くは言わなかった。しかし、従五位下(じゅごいのげ)に上り、下級貴族の端くれとなった今、いつまで放って置く訳にも行かないと千常は言う。千常は千方を嫡男・太郎として跡継ぎにしようとしているのだから、当然のことと言えば当然のことである。千方にすれぱ、今更見も知らない娘を嫁にするのも億劫(おっくう)だし、実子の文脩(ふみなが)が居るのに、千常が千方を跡継ぎにしようとしていることが更に負担だった。
 千方の気持ちをなぞるように、夕暮れの空には、下辺だけ赤く陽に染まった黒雲が、不気味に垂れ下がっていた。
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