第九章 第5話 新しき郷

文字数 4,485文字

 甲賀(こうか)に着いた千方一行は、そのまま、近江国(おうみのくに)甲賀郡(こうかごおり)伊賀国(いがのくに)伊賀郡(いがごおり)を併せて束ねる、大領(たいりょう)望月三郎(もちづきさぶろう)兼家(かねいえ)の舘に入った。
 兼家は、通称・甲賀三郎(こうかさぶろう)と呼ばれており、郡司(ぐんじ)でありながら諸国の情報を集めて、それを必要とする者に提供し、見返りを得るような仕事もしている。(いみな)は奇しくも摂政(せっしょう)と同じ兼家(かねいえ)である。
 甲賀三郎兼家は、郎等ばかりで無く、私領に住む領民達、配下の土豪の郎等、その領民に至る迄、幼い頃から武や細作(さいさく)の技を身に着けさせる。だから、兼家の支配下にある者は、農夫や猟師に見えても、只の農夫や猟師では無い。領民の鍛練は、秀郷(ひでさと)から譲り受けた四人の郎等達の知識と技が有って、初めて可能なことであった。

 天領の牧や東大寺などの寺社の荘園が特に伊賀には多く存在するが、一方で、力を持つ土豪や摂関家(せっかんけ)の荘園は少ない。中小の土豪が多く、その多くが兼家の支配下にあるのだ。従って、至る所に人の目が有り、甲賀、伊賀は余所者(よそもの)が密かに入り込むことが難しい土地柄と成っている。千方に取っては、そう言う意味で都合の良い土地である。
「良うこそおいで下された」
 既に配下の者から報告を受けている兼家が、笑顔で千方達を迎える。
「恥ずかしながら、坂東に身の置き所が無くなり、お言葉に甘えてご厄介になることに致した」
 神妙な顔で、千方が深く頭を下げた。
「遠慮無く、いつまでなりともご滞在なさるが良い」
 兼家は白い(ひげ)に埋もれた顔で笑った。()うに八十を超えている(はず)(まれ)に見る長寿で、正に仙人かと思わせる風貌と成っている。将門との戦いの際の功に因り甲賀郡の郡司と成って以来、五十年掛けて、兼家はこの地の支配を確率し、独特の体制を作り上げて来たのだ。
「お疲れが抜ける迄、(しばら)くはのんびりされるが良い。その後、住む場所を探せば良い」
 そう言ってくれた。
「はい……」 
 まだ、自分を迎え入れてくれる場所が有る事に、千方は感謝した。
「宜しければ、この地に骨を埋めるつもりで末永くおとどまりなされ。伊勢に近い伊賀郡(いがごおり)の辺りに、いずれ開墾しようと思ってまだ手を付けていない場所が幾つか有る。その中で気に入った場所が有れば、後から来る方々と共に開墾して(つい)棲家(すみか)と為さるが良い」 
 千方に取っては、これ以上望みようが無いほどの言葉であった。
「…… そこ迄お考え頂いているとは。ご恩は終生忘れません」
 柄にも無く、目頭が熱くなった。
「何の、(みこと)の父上・秀郷(ひでさと)殿が居なければ今の麿は無かった。北山の戦いでの僅かな功を太政官(だじょうかん)に強く()して下さったのも秀郷(ひでさと)殿だし、秀郷殿から譲り受けた四人の郎等達に、どれほど助けられたか分からぬ。また(みこと)にも、信濃(しなの)で窮地に陥っていた貞義(さだよし)を救って貰った恩が有る。それよりも何よりも、麿は(みこと)を気に入っておりますでな。居て貰うことが嬉しいのじゃ」
 そう言って、兼家は髭の中で笑った。
(おそ)れ入ります」

 郎等達の家族が到着する迄の間、千方らは兼家の舘でのんびりと過ごしていた。
 家族達に先んじて到着した者が有る。途中から、家族達を国家(くにいえ)の郎等達に任せて東山道(とうさんどう)を急いだ駒木末信(こまきすえのぶ)(鳶丸)である。大道和親(おおみちかずちか)(犬丸)とは上手く出会えて同道していたが、他に六人の同伴者が有った。
 その内のひとりの顔を見た時、千方も古能代(このしろ)も、驚きの余り思わず絶句した。
「お久しゅう御座います」
 古能代と同年代のその男は、笑いながら丁寧に頭を下げた。
「なぜ、ここに?」
と驚きを表す千方に、経緯(いきさつ)和親(かずちか)(犬丸)が説明する。
「都の三条大路(さんじょうおうじ)で偶然に忠頼様とお会いしたのです。声を掛けられた時、()ぐには分かりませんでした。まさか、都でお会いしようなどとは夢にも思っておりませんでしたから」
 和親(かずちか)も、安倍忠頼と再会した時の驚きを千方に伝えようとしている。
「いや、郎等の一人が気が付いて、六郎様の郎等の一人に似ていると言って来たのですが、麿も最初は他人の空似(そらに)かと思いました。少し跡をつけさせて見極め、六郎様が鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)在任中に胆沢(いさわ)に来ていた大道和親(おおみちかずちか)殿にに間違いないと言うので、声を掛けました。あ、(わらべ)の頃にも来ておりましたな」
 忠頼に教えたのは、和親も親しくしていた安倍の郎等だった。
「しかし、なぜ都に……」
 千方が尋ねる。
「いや、昔から一度は来て見たかったのです。ですが、当主の間は、鎮守府や国府の監視が厳しく無理な話でした。今であれば隠居の姿が(しばら)く見えなかったとしても、鎮守府も国府も気付かないであろうし、気にも止めまい。であれば、足が達者なうちに都を見に行こう、と思い立って出掛けたと言う訳です」
「左様か。良うおいで下された忠頼殿」
 久しぶりに、嬉しいことが重なった一日となった。
「道々聞いたところ、こたびは色々と大変なことで御座いましたな。場合に寄っては陸奥(むつ)にお越し頂こうと思って参りました」
 忠頼もそう言ってくれた。
(かたじけ)無い。幸い、ここの(あるじ)・兼家殿にお世話になることになった」
「それは、宜しゅう御座いました」
 安部忠頼(あべのただより)は、続いて古能代(このしろ)に語り掛ける。
義兄(あに)上、お元気そうで何より。姉が死んでもう五年にもなりますかな」
「うん。子らを立派に育ててくれました。今では、日高が祖真紀(そまき)として(さと)を束ねてくれています」
 何度も陸奥を訪ねたが、忠頼の姉である()を一度も同伴してやれなかった事に、僅かな悔いと、忠頼に対する申し訳無さが残っていた。
義兄(あに)上も隠居されたのですか?」
と、忠頼が聞いた。
「つい最近な」
 古能代は、短く答えた。

 その晩は、千方、古能代(このしろ)、忠頼に双方の郎等達も混じって、昔話に花が咲いた。忠頼の郎等の中のひとりは、智通(ともみち)(秋天丸)が千方の供をして最初に胆沢(いさわ)を訪れた時親しくなった男だった。名を村社(むらこそ)静馬(しずま)と言う。智通(ともみち)が何度挑んでも勝てずに悔しがっていた男だ。二歳年上になる。
 千方が気付いたことがひとつ有る。口数の少ない男であった古能代(このしろ)が、本当に良く喋るようになっていることだ。肩の荷を降ろしたせいだろうか。とすればこの男、若い頃からずっと、常に緊張の中で生きていたと言うことになる。その意思の強さに、千方は改めて感心した。

 その後、国家(くにいえ)の案内で郎等達と共に、開墾候補地をあちこち見て歩く日が続いた。
 伊勢に近い山中にひっそりと開けた盆地の一つが千方の興味を引いた。どこと無く下野(しもつけ)の『(かく)(ざと)』に似た地形である。古能代(このしろ)を始め郎等達もそこが気に入ったようだ。一面に草が()い繁っており、掘ってみても()ぐには岩に当たらず、それなりに堆積した土の層が有る。大木は少ないので開墾は比較的楽と思われた。
 手間が掛かるのは、石や岩を取り除くことだろう。少し登った所には、湧水の有る池も有り、小川も流れている。絶好の場所だ。今まで開発されなかったのは、単に行くのが不便な所に有るからと言うに過ぎない。しかし、千方達に取って見れば、それも好い条件のひとつとなる。
「ここにしよう」 
 千方が力強くそう言った。
「良う御座いますな。我等も気に入りました」
 古能代(このしろ)が応じる。そして、腕組みをして物想いに耽るような素振りを見せた。
「先祖の杜木濡(そまきぬ)のことを想っているのではないのか?」
 そんな雰囲気を感じて、千方は聞いてみた。
「はい。ですが、杜木濡(そまきぬ)は餓死の恐怖と戦いながら、追っ手の目を逃れて山中を彷徨(さまよ)い、あの地に辿り着いたことでしょう。それに比べたら、我等は何と仕合わせなことかと……」
 千方も同じ想いを感じていた。
「正直、我が身が落ちぶれて行くのを嘆く気持ちが無かった分けではない。だが、世の中上を見ればキリが無いし、また、下を見てもキリが無いと言うことだな。今から考えれば下らんことだが、都におった頃は除目(じもく)の度にその結果が気になってな。己のことばかりでは無く、誰がどうなったこうなったと言う話で、数日は役所中持ち切りであった。官人(つかさびと)に取ってはそれが最大の関心事なのだ。(もっと)も出世したのを知らずに以前の官職名で呼んだりしたら無礼になるから、やむを得ぬことではあったのだが。この風景を見ていると、そんな生活が、取るに足らぬものに気を使うつまらぬ世界だったように思えて来る」
 千方は、腕を大きく伸ばし、思い切り息を吸った。 
「出世に未練は御座いませぬか?」
 そう言って、古能代はニヤリとした。
「今更有る訳が無い。だが、(さきの)関白(兼通(かねみち))に誘われた時、迷ったことは有った。妻や子に安楽な生活を送らせることが出来るのではないかと思ってな。だが、やはり摂関家に臣従することは出来なかった。尤も、あの時、兼通(かねみち)に臣従していたら、今の摂政(せっしょう)である兼家に、もっと(ひど)い目に合わされておったろうがな」 
「確かに」
「六郎様。ここで宜しゅう御座いますか?」
 国家(くにいえ)が聞いて来た。
「うん、気に入った。皆もそのようだ。兼家殿にそのように申し上げてくれ」
 千方は国家にそう伝えた。
「人手を掛ければ、開墾はそれほど長くは掛かりますまい。収穫が出来るように成る迄は、失礼ながら、食料の方は我等が援助させて頂きます」
 それも甲賀三郎の意思なのだろうが、どこまでも千方を支えてくれる気持ちが有り難かった。
「何から何まで申し訳無い。お世話になり申す。兼家殿のお陰でここに我等の(さと)を作ることが出来ます」
 古能代の弟ではあるが、甲賀三郎の郎等としての国家に、千方は頭を下げた。

 鏑木当麻(かぶらぎとうま)近江(おうみ)の国府に入り、武蔵守(むさしのかみ)満季(みつすえ)からの(ちょう)近江守(おうみのかみ)目代(もくだい)に提出し協力を求めた上で、甲賀(こうか)に放った細作(さいさく)と繋ぎを取る為、郎等のひとりを甲賀に向かわせた。

 しかし、満季(みつすえ)の放った細作(さいさく)は、既に囚われていた。甲賀に入る前に、千方一行らしき一団を見掛けたと言う情報は得ていたのだが、その細作(さいさく)は確証を得ようと甲賀に潜入した。
 何の問題も無く郡家(ぐうけ)に近付けたと思っていたが、この男の行動は捕捉されていたのだ。旅の者を装って農夫に話を聞こうとした途端に襲われ眠らされて、気が付くと岩牢に閉じ込められていた。そして、二十日ほど後には、鏑木(かぶらぎ)が差し向けた別の郎等も同じ運命を辿ることになる。

 目的は分かっているので、甲賀三郎は、この男達を尋問することも無く、只、閉じ込めて置き、千方に報せることもしなかった。



参考:
甲賀望月氏(近江国)【Wikipediaより】
望月の由来ともなった「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られており、これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行っていた。そこから望月氏と甲賀の地は古より関係があり、平安時代には平将門の乱で武功があったとされる望月三郎兼家(諏訪氏の出自との説もあり。なお、三郎は望月家嫡男に多い幼名であり、三男を意味しない)が朝命により赴任し、近江国甲賀郡主となり十六か村を贈った。これが甲賀望月の祖である。

恩賞としてその後、信濃の望月氏の支流が甲賀の地で独自に武士団へと発展し、戦国時代には、後に甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、伊賀の「服部氏」、甲賀の「望月」と称されるようになる。望月出雲守が望月城(現:甲賀市甲南町)を築城するなどの記録が残されており、望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。
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