第八章 第2話 敵は満季

文字数 3,219文字

 満仲が仏門に入ったと言う報せは、まず、近江(おうみ)甲賀三郎(こうがさぶろう)から(もたら)された。
 聞いた時、誰しもがそう思ったように、千方も、世の中信じられないことが起こるものだと思った。だが、満仲が職を辞して仏門に入ったと言うことは、下野守(しもつけのかみ)も代わり、鏑木当麻(かぶらぎとうま)も居なくなると言うことだ。
『ちと、早まって隠居してしまったかな』と思った。だが、考えて見れば、下野(しもつけ)を割らずに兄・千常の実子・文脩(ふみなが)に返すのは、やはり今しか無かったかとも思う。生まれ育った草原(かやはら)でのんびりと過ごすのも悪くは無いと思った。
侑菜(ゆな)はどう思っているだろうか?』
 それは考える。不満は決して口にしない。しかし、子の母である。松寿丸(しょうじゅまる)の将来に不安を感じていることは間違い無い。母・露女(つゆめ)が自分を世に出すことにどれだけ必死であったかを覚えている。それこそ、それだけに命を掛けていたと言っても過言では無い。

 千方は母の居室を訪ねた。
「今日も畑仕事をされていたのですか?」
 露女(つゆめ)見台(けんだい)に和歌集か何かの写本を置いて読んでいた。
「おや、珍しい。何かご用ですか?」
 見台(けんだい)から目を上げてそう言った。
「ちと、母上とお話したくなりまして」
「まあ、何でしょう。十四の(わらべ)の頃に戻ったようなことを申して、母に何を話したいと言うのですか?」
 千方が母の前に腰を下ろす。
「母上は昔、麿を世に出すことだけを希望(のぞみ)として生きて来たと仰せになりました。お蔭で、父上に下野藤原(しもつけふじわら)の者と認められ、都で官職にも就き、又、僅かな間では御座いましたが、当主の座に着くことも出来ました。これもひとえに、母上、父上、そして五郎兄上、太郎兄上のお蔭です。しかし、まだこの年で、今はただの隠居の身。申し訳無く思っております」
 露女(つゆめ)は、じっと千方を見た。
「これ迄の生き方を悔やんでいるのですか? あの時こうすれば良かった、ああすれば良かったなどと考えているのですか?」
「いえ、それは御座いません。麿には、この生き方しか無かったと思います」
「ならば良いではありませんか。己に恥じるところが無ければ、結果がどうであれ、それがそなたの人生です。確かに、そなたを世に出すことが麿の悲願でした。下野藤原の当主と成る迄は、亡き大殿に責任を感じておりました。しかし、当主を降りた今、その後はそなたの人生。麿がとやかく言うことではありません」
 少しの間、千方は黙っていた。
侑菜(ゆな)は、松寿丸(しょうじゅまる)の将来を案じておりましょうな」
 千方の心配事の意味が分かって、露女が失笑した。
「それが聞きたかったのですか。(たわ)けたことを。麿は麿、侑菜(ゆな)は侑菜。立場も状況も違います。同じ母の立場と言えど、又、同じ女子(おなご)と言えどひとそれぞれ。侑菜(ゆな)がどう思っているか知りたければ、麿などに聞かず、侑菜とお話なされ。それが夫婦(めおと)と言うものです」
 達観していると言うか、男以上に理詰めで考えると言うか、やはりこの母は他の女子(おなご)とは全く違うなと、千方は思った。
「仰る通り。麿が間違っておりました。いくつになっても母上には(かな)いません」
 そう言って千方は、母・露女(つゆめ)に頭を下げ、居室を出た。露女は表情を変えず無言で見送る。

 母に言われたからと言って、その足で侑菜(ゆな)の居室を訪ねて、行きなり切り出す心構えは出来なかった。
 侑菜の不安は分かる。官職には就いていなくても位階が有ることは有る。形の上では松寿丸(しょうじゅまる)が都で官人(つかさびと)と成る道は有るのだ。しかし、(かつ)将門(まさかど)がそうであったように、又、満仲が悪戦苦闘したように、父が五位では、実際に官位官職を得る道は厳しい。まして、下野藤原(しもつけふじわら)の当主を降りてしまった今、千方には草原(かやはら)の僅かな所領が残っているだけだ。十分な支援をしてやることは出来ない。有力公卿(くぎょう)とのコネも無い現状では、事実上、松寿丸が都で官人と成る道は閉ざされているも同然なのだ。
『こんな筈では無かった』
 そんな気持ちが侑菜(ゆな)に無いと考える方が難しい。まして、侑菜の父・端野昌孝(はしのまさたか)の不満、落胆振りは想像に難く無い。己の意地を通すと言う我儘(わがまま)の為、麿は身近な者達を不幸にしているのか。千方はそう考えた。父や兄達のお蔭で世に出ることが出来た自分が、子には何も残してやれない。そう考えると、悔いが無いとは言い切れない。
 草原(かやはら)でのんびりと余生を過ごそうなどと考えていた己が能天気な呆気者(うつけもの)のように思えて来た。では、別な生き方が出来たのかと問われれば、やはり出来なかったと答えるしか無い。摂関家に尻尾(しっぽ)を振りたく無かったとは言っても、将門のように華々しく散ることさえ出来なかった。

 そんな風に鬱々と考えていると、ふいに侑菜が入って来た。
「宜しゅう御座いますか?」
 千方は内心狼狽(うろたえ)えたが、何気無さを装った。
「入れ。何か用か?」
 千方の前に座ると、侑菜は一通の手紙を(ふところ)から取り出し、千方に差し出した。
「誰からの(ふみ)だ?」
 受け取る前に、そう尋ねた。
「父からです。色々と申して参りましたが、どうぞ、お気を悪くなさらずお読み下さい。麿はそのように思いませんので、隠し立てせずに殿にお見せした方が良いと思い、持参致しました」
 巻かれた手紙を右手で持って振る。読み進めると、千方の思っていた通りの不安や不満が書き連ねられている。そして、千方の目を引いたのは、松寿丸(しょうじゅまる)を都で官人(つかさびと)とする道を着けてやると、文脩(ふみなが)が約束してくれたと書かれている部分だった。(あん)侑菜(ゆな)に千方との離別を促すような文面も含まれていた。読み終わり、ゆっくりと手紙を巻くと、千方はそれを侑菜の方に差し出した。
「義父上のご心配も(もっと)もじゃな。そなたも不安ではあろう」
「官位や官職を以て嫁ぐ決心をした訳では御座いません。ご身分がどうであろうと、麿は藤原千方様に嫁いで良かったと思っております」
「嬉しいことを言ってくれる。じゃが、松寿のことは心配であろう」
「初めから草原(かやはら)郷長(さとおさ)の子と思えば、それがあの子の人生です。農夫や奴婢(ぬひ)の子で無かっただけでも恵まれていると考える子に育てたいと思っております」
「無理して申してはおらぬか?」
「いえ、決して」
 一番気になり、又、気が退()けていたことに侑菜(ゆな)が答をくれた。自分は、周りの者に本当に恵まれていると千方は思う。

 数日して、豊地(とよち)が訪れている。
 近頃、無法者のような浮浪人が何人も草原(かやはら)に流れ込んで来ていて、地元の民と度々(いさか)いを()き起こしていると言う。
「府中のお舘の留守居をしている豊水(とよみ)からの気になる報せが御座いまして」
「ふん」
前下野守(さきのしもつけのかみ)・満仲の目代・鏑木某(かぶらぎなにがし)と思われる男が武蔵府中に滞在している模様とのことです。鏑木(かぶらぎ)を見知っている複数の者が目撃しているとのことで」
「とすると、無法者を送り込んで来ているのは、鏑木と言うことも考えられるな」
「はい。満仲の指示でしょうか?」
「いや、もはや満仲は関係無い。間違い無く、本来の(あるじ)である満季(みつすえ)(めい)であろう」
草原(かやはら)をどうするつもりでしょうか?」
満季(みつすえ)。厄介な男だ」
 千方は、駒木元信(こまきもとのぶ)末信(すえのぶ)兄弟(鷹丸、鳶丸)を武蔵府中に派遣し、鏑木(かぶらぎ)の動向を探らせることにした。調べた結果、やはり鏑木は武蔵府中に居た。そして、草原(かやはら)に流れ込んで来ている者達の内の何人かは、鏑木と行動を共にして居たことも確認された。

 浮浪人達を厳しく取り締まるよう豊地に命じる一方、千方は郎等達を集めた。とは言っても、小山武規(こやまたけのり)(夜叉丸)、広表智通(ひろおもてともみち)(秋天丸)、駒木元信(こまきもとのぶ)末信(すえのぶ)兄弟のたった四人である。
鏑木(かぶらぎ)は今、満季(みつすえ)の一郎等に過ぎない。厄介事を無くすには元を絶つに限る。今から府中へ繰り出す」
下野(しもつけ)では随分と忍耐を重ねておりましたが、やっと思う存分暴れられると言うことですか?」 
 智通(ともみち)が嬉しそうに確認する。
「そうだ。今直ぐ出掛ける」
「はっ」
と四人が声を揃える。

 旧・東山道(とうさんどう)武蔵道(むさしみち)に繋がる間道を五頭の馬は駆ける。(ひずめ)の音に気付いた民達(たみたち)は、慌てて田や畑に駆け込む。
「済まぬなあ!」
 駆けながら千方が、大声で詫びる。五人の顔には自然と笑味が溢れ初めている。忍耐よりも命懸けで戦うことの方が遥かに好きな男達なのである。
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