第二章 第16話 悔悟、そして明日へ Ⅰ

文字数 8,878文字

「久し振りに麿も過ごそうと思う。(なれ)ももっと飲め」
 そう言って秀郷が千方に酒を勧める。
「恐れ入ります。頂きます」
 千方も遠慮無くかわらけを差し出し、父の酌を受ける。
「六郎。先程は、そのほうのことを青いと申したが、実を申せば、(なれ)の年頃の麿の方が余程青かった。大狸と言われる麿が青かったなど可笑しいと思うであろう」
 (ささ)で気が緩んだのだろうか。寛いだ様子で秀郷はそんな事を言い始めた。
「いえ。そのようなことは御座居ません」
 少し戸惑いながら、千方は父の自虐を否定した。
「麿の父は、大掾(だいじょう)であった。この下野(しもつけ)の実力者じゃ。都から赴任して来る国司(くにのつかさ)などの受領(ずりょう)は、父の協力が無ければ地元のことは何も分からぬし、父を中に入れることにより物事が障り無く進むので、父には一目置いていた。
 しかし、都から国守(くにのかみ)に従って来る者達の中には、地元の司人(つかさびと)や民に対して威張り散らす者が結構おる。
 若い頃の麿は、そんな連中を相手に喧嘩ばかりしておった。相手を半殺しにしてしまった事もある。さすがに父も怒って、国衙(こくが)の牢に放り込まれた。牢番は馴染みの者であったので、麿の方は大して(こた)えてはおらなんだが、父は大変だったらしい。下げたくも無い頭を国守に何度も下げなければならなかったようだし、財も相当使ったらしい。
 (なれ)達はいずれも孝行者だが、麿は親不孝者だったのだ。父は、今から考えれば、麿のことで気の休まる暇も無かったのではないかと思う。しかし、なぜか麿には良くしてくれた。今更遅いが、父には申し訳無かったと思うておる。その父が亡くなった途端、国府から目の(かたき)にされるようになってのう。過去の所業を()し返され、鞭打(むちう)ちの刑を受けたこともあった。我儘勝手に生きて来たが、己には何の力も無く、全て父の庇護の許に生かされておったことを、その時初めて悟った。そして身を慎むようにしていたが、その後も国府は、麿を何とか始末しようとした。まずは捕らえて、その後で罪を(あげつら)い流罪にでもしようとしたのか、呼び出しが有ったが麿は危険を感じ、一時身を隠した。
 表面的には国府に従いながらも、麿を(かくま)ってくれる者は多く居た。父からの恩を忘れずにいてくれた者や、威張り散らす役人と渡り合っていた麿に、内心喝采を送ってくれていた者も多くおってな。隠れるところに不自由はしなかった。
 また、あの(さと)を強引に手に入れておいたことも幸いした。祖真紀(そまき)が郷の者達を使って、常に国府の動きを探って報せてくれた。そのお陰で、隠れ家を察知され急襲された時も、すんでのところで逃れることが出来たのじゃ。
 暫く身を隠しておった。そのうち国守(くにのかみ)の交代があり、新任の国守は麿とは何の関わりも無い男で、特に前任の国守と親しい間柄でも無かった。情報を集め、様子を見た上で舘に戻った。
 信じられる者を多く持つことが、いかに大事なことであるかを学んだ。父に何かをして貰った者が麿を助けてくれたのだ。下野(しもつけ)の者達の立場に立ち、都から来て威張り散らす者と渡り合ったことも、我が身を助けた。又、先代の祖真紀は麿のことを、郷の滅亡を救ってくれた恩人と思うてくれておった。恩を売ると言ったら身も(ふた)も無いが、他人(ひと)の為に尽くすことが我が身を守ることになると悟った。 
 それからの麿は、己の気持ちを制して、他人(ひと)との繋がりを作ることに専念した。父が残してくれた財も惜しみ無く使って、助けてくれた者達に報いた。繋がりを作ると言っても、武力で従わせた者も多く居たがな。従った後には、出来るだけのことはしてやった。 
 綺麗事ばかりという訳には行かぬ。他人(ひと)を繋ぎ止める為には財が要る。財を得る為には色々な方法を取った。盗賊の上前を()ねるようなこともしたな。
 延喜(えんぎ)十六年(九百十六年)、麿が三十四歳の時、上野(こうづけ)との国境(くにざかい)で水争いが起きてな。足利の辺りじゃ。旱魃(かんばつ)矢場川(やばがわ)という川の流量がかなり減っていた。
 そんな時、上流の上野(こうづけ)の者達が川を(せき)き止めて己達の田への水を確保しようとした。そんなことをされたら下野(しもつけ)の者達は田が()上がってしまうので、当然抗議し争いとなった。争いが大きくなり、上野(こうづけ)の国府から役人が出張(でば)って来た。そして、下野(しもつけ)の者達を痛め付け、主な者達数人を捕らえて引き立てて行った。
 下野(しもつけ)の者達は、捕らわれた者達の解き放ちと川を堰き止めることをやめるよう上野(こうづけ)と掛け合ってくれと、下野(しもつけ)の国府に訴えた。だが何日待っても、なぜか下野(しもつけ)の国府が動く様子は無かったのだ。(しび)れを切らせた者達が麿の許に相談に参った。大人しくしていたお陰で、その頃には麿も少掾(しょうじょう)と成っていたが、放っては置けぬと思うた。早速、下野(しもつけ)の国府に出向いて国守(くにのかみ)に会った。上野(こうづけ)の国府には申し入れをしている。返事が有るまで、騒がず暫し待つようにとの返事だった。
『それなら、麿に掛け合いをさせて欲しい』と申し入れた。だが、国と国との問題だ。当然、国守同士が話し合う必要があり、少掾(しょうじょう)如きの出る幕では無いと一蹴された。この男、赴任したばかりとは言え、麿を軽く見ておるなと腹が立った。
 暫く抑えていた反骨の気概がむくむくと湧き上がって来てな。弟達や身内の者を集め郎党共も連れて足利(あしかが)に向かい、更に足利の者達も引き連れて上野(こうづけ)に入った。麿と弟達が見張って、上野(こうづけ)の者達に手を出させぬようにして、郎党達にも手伝わせ、足利の者達に()き止める為に川に並べられていた石を全て除かせた。
 その足で、厩橋(うまやばし)(現:前橋市)に有る上野(こうづけ)の国府まで行き、捕らえた者達を解き放つよう申し入れようとしたが、報せが入っていたと見えて兵を繰り出して来た。小競(こぜ)り合いとなったが、まさか下野(しもつけ)少掾(しょうじょう)たる者が、上野(こうづけ)の兵と戦って国府に押し入り、牢破りまでする訳には行かん。謀叛(むほん)になってしまうからな。仕方無く、足利の者達を(なだ)めて引き揚げた。思えば、麿としたことが、中途半端なことをしたものよ。上野(こうづけ)の兵達は追っては来なかった。
 佐野に戻っていると、翌日には国府から呼び出しが有った。上野(こうづけ)の国府からの申し入れが有って、麿を罰するつもりとは察したが、己の国の民を守らず、申し入れが有ったからと言って、麿を捕らえようとするのは筋が違うだろうと思うたので無視した。しかし、足利の者達が訴えた時の動きの鈍さと比べて、下野(しもつけ)の国府の動きの素早さには驚いたな。
 今一度呼び出しが有ったが、それも無視すると、三日目には、麿と一族の者を流罪にするとの触れが出た。恐らく、当時の下野守(しもつけのかみ)には、上野介(こうづけのすけ)に頭の上がらぬ訳があったのであろう」
「…… それで父上は流罪となったのですか?」
 驚いて千方が尋ねると、酒を飲み干した秀郷は、にやりと笑った。
「なったと思うか?」
と千方に聞く。
「いえ、そう聞いたことは有りません」
 即座に千方はそう答えた。
「それまで十数年の間、麿は他人(ひと)との繋がりを作ることに専心していた。暴れたい時もじっと我慢してな。それが我が身を救うことになった。国府の中にも麿に従う者が多くおってな。国守(くにのかみ)の言ったことは全て麿の耳に届いていたのだ。麿を捕縛する為に人を集めようとしても、流行病(はやりやまい)などと言って大勢が出仕しない。おまけに大(だいじょう)たる者が、下手に秀郷を刺激すると飛んでもないことに成るなどと言って国守を脅す始末だ」
 そう言って秀郷は愉快そうに笑った。
大掾(だいじょう)と言えば、当時の父上に取っては上役では? しかも、国守の補佐をすべき立場では?」
 どういった経緯でそうなったのか、千方の好奇心が刺激された。
「そうじゃ。表向きはな。だが、その頃の麿は既に、役は少掾(しょうじょう)であっても大掾(だいじょう)(しの)ぐ力を持つに至っていたのだ。それを知らぬのは、着任したばかりの国守だけじゃった。
 その場はそれで済んだが、二年後の延長(えんちょう)七年(九百二十九年)になって、朝廷の許しを得て、乱行の(かど)で麿を追討せよとの官符が出された」
「追討? 流罪の後は追討ですか」
 常識外の父の行動に千方は驚いた。
「ふふ。天下の極悪人扱いじゃ。ところが国府にはな、麿を流罪にする官符を出したとの記録は有るが、どこに流したかという記録は無い。追討の官符を出したという記録は有っても、麿はこうして今も生きておる。
 将門の乱で、その辺はうやむやになってしもうたが、近隣諸国の兵まで動員しながら、麿を流罪にすることも討つことも出来なかったことは、朝廷には屈辱として残っておる。奴等(やつら)は決して忘れてはおらん。
 話は戻るが、太政官の(めい)に従ってもし麿が上洛していたら、罠に嵌まっていたことだろう。魚名(うおな)候とは違って、冤罪などでは無く旧悪を暴いたとして、問う罪に不自由はせんのよ。追討の官符が出た後は、国守との(にら)み合いが続いた。油断をすればやられる。麿を守ってくれたのは、面倒を見てやった者達だ。麿に従う者が多かった為、国府は、麿を流罪にすることも、討つことも出来なかったのだ。分かるか?」 
 秀郷が千方の目を見て問い掛ける。
「はい。裏切りと策謀に明け暮れる者達から(まつりごと)を取り上げ、恩と義理を大事に思う者が(まつりごと)を行えば、世は良くなると思いました」
 千方は、人を大事にしろとの父の教えと思って、そう答えた。
「ふっ、はっはっはっは。愉快、愉快じゃ」
 秀郷が声を上げて笑った。 
(なれ)は素直よのう。だが、世の中そう単純に割り切れるものでは無いぞ。  …… では聞こう。どうやって、藤原北家から(まつりごと)を取り上げる? (みかど)でさえ出来ないことだぞ」
 そう問いかけて来た。
「まずは、父上が進められているように、多くの(つわもの)(よしみ)を通じ、坂東の者達の力をひとつにすることが必要かと思います」
 父が自分を試しているのだと思い、千方はそう答える。
「それから?」
と秀郷が促す。
「それから……」
 千方は言葉に詰まった。具体策など何も考えていなかった。
将門(ましかど)のように乱を起こすか?」
 秀郷の目が少し鋭く変わった。
「いえ……」
と答えたが、後に続く言葉が出ない。
「勝てまい。朝廷には」
「はい。今の我等の力ではまだ……」
「なぜ勝てぬ。(なれ)ひとりの力でも、公家(くげ)の五人や十人斬り殺すことなど造作も無いことではないか」
 そう突いて来る。
「我等が戦う相手は公家ではありません。恐らく、(つわもの)同士の戦いになるかと」
「そうじゃ。麿と将門のようにな」
 心の中で千方は『しまったと』思った。この話の流れでは、父が将門を討ったことを非難していると取られ兼ねない。
「なぜ、そうなる?」
と秀郷が重ねて問い掛けて来た。
「はい。…… 太政官は位階に寄って(つわもの)を操ります」
「そうだ。その結果、(つわもの)同士が血を流し合い、我等を(あご)で使う公家共は、都でのうのうとしておることになる」
「は、はい」
「どうした。麿が官位欲しさに将門を討ったと思っておるのか?」
 やはり、言ってはならない事を言ってしまったのかと、千方は後悔した。慌てて、
「いえ。そうは思っておりません」
と申し開きする。
「将門を見切った後には、少しでも高い官位を得ておきたいと思うた。その後の為にな。だが、官位欲しさに麿が将門を裏切ったと思うておる者達も多い。それは仕方の無いことじゃ」
「見切った?」
 千方は、思わずその言葉を復唱していた。それが秀郷の真意だったのかと思うと同時に、見切った理由を知りたくなった。
「麿の望むことと将門が進もうとしている方向とは、似て非なるものであったということが分かったので、討つことにした。それまでは、将門と言う男を買っており、あの男に夢を託そうかと言う気にもなっておったのだ」
 父の本心と心の動きを千方は知った。恐らく今まで誰にも明かしたことの無いことだろうと言う気がした。
「麿が初めて将門という男に興味を抱いたのは承平五年二月のことだ。常陸国(ひたちのくに)・野本で源護(みなもとのまもる)の手勢に待ち伏せを受けた将門は、逆に(まもる)の三人の息子を討ち取って、追撃の末、護の本拠地まで焼き払ってしまった。
 それを聞いた時、何という男かと思った。争いそのものは、身内のいざこざと、源護(みなもとのまもる)平真樹(たいらのまさき)という者の間の小競(こぜ)り合いが絡んだものであったが、普通はそこまでやらん。護の手勢に打撃を与えて相手が逃走した時点で満足し、意気揚々と引き揚げるところだろう。
 当時の源護と言えば、(さきの)常陸大掾(ひたちのだいじょう)として厳然とした力を持っており、将門など及びも付かぬ相手であったのだ。その手勢に待ち伏せを受け追い払ったとすれば、それだけでも大変な武名を残せる。大抵はそれで満足してしまうだろう。しかし、面目(めんぼく)を潰された護が黙っている筈は無い。兵を集め仕返しに出るだろう。そうなれば多勢に無勢ということになるが、そう成ったら、真樹と同盟して護と対峙すれば良い。普通の者はそんな風に考える。しかし、長年領地のことで護と揉めていたとは言え、己の浮沈を掛けてまで真樹が将門を守るかどうか分からん。己が不利と見れば、将門を見殺しにして、護と手打ちに持ち込むということも大いに有り得る。
 そこまで読んでのことか、或いは何も考えず単に激高した上でのことであったのか、将門は、一気に護の本拠地を焼き払うところ迄やってしまった。相手は(さきの)常陸大掾だぞ。従う者も多い筈だ。『いずれ将門が潰されることになろう』誰もがそう思っていた。噂を聞いた時には、正直、麿もそう思った。だが、三人の息子を全て討たれ、領地を焼き払われた護にはその力は既に残っていなかった。たった一匹の犬が、いきなり熊の喉笛に飛びついて噛み切ってしまったのだ。
 麿は、将門という男の(いくさ)の才について、並々ならぬものを感じた。それが本物かどうか、他人(ひと)にも調べさせ、麿自身も武蔵から下総(しもうさ)に入って噂を集めた。その際、草原(かやはら)にも寄って、そのほうの母・露女(つゆめ)に出会うたのじゃ。
 その頃はまだ、将門が朝廷に盾を突いて乱を起こすとまでは思うてもおらず、手懐(てなず)けて置けば何かの際に使える男かも知れぬと思うていただけだがな。だが、身内の争い事を抱えていた将門が、焼き討ちの際、(まもる)の舘に居た伯父の国香(くにか)をも焼け死させていたことから、身内の争いが拡大して武蔵にまで及ぶことは有り得ると思った。そして、武蔵の村岡に拠点を置いていた良文(よしぶみ)の動きも気になった。何しろ良文は、音に聞こえた剛の者であったからな。下総と村岡を結ぶ線の上に有ったのが草原(かやはら)だ。村岡から刀祢川(とねがわ)沿いに東に進み、更に川沿いに南に向かうとすれば草原(かやはら)の辺りを通ることになる。村岡五郎(良文)の動きを知る為には、草原(かやはら)は大事な拠点と思えた。僅かな縁を辿って久稔(ひさとし)殿と(よしみ)を通じておこうと思った。久稔殿に取っても益の有ることと読んでの上のことじゃ。結局、鎮守府将軍として陸奥に在った良文は動かなかったがな。探った結果、麿は益々将門に興味を持つようになった。そのうち、将門は伯父の良正を破り、その結果、遂に良兼(よしかね)が兵を起こして良正、貞盛と連合して将門に(いくさ)を挑んだ。この頃になると、将門の強さに驚くと言うより、良正、良兼らの愚かさに、麿は呆れておったがのう。だが、仮にも上総介(かずさのすけ)・平良兼が兵を起こしたとすれば、事態がどう動くか分からぬ。細作(しのび)を放って、動きを監視させた。何と、わざわざ北上してこの下野(しもつけ)との国境(くにざかい)辺りで将門を向かい討とうとしていると言う報せが入って来た時には、呆れるのを通り越して、『馬鹿者共めが』と怒りが沸いて来た。
 この下野(しもつけ)に雪崩込んで来る事態を考えねばならぬと思った。恐らくは破れ、将門に追われてな。そうなれば、貞盛は縁者ゆえ、良兼(よしかね)は貞盛を通じ麿に助力を求めて来るに違いないと思った。麿は将門と戦いたくは無かった。かと言って、平氏の身内の争いに介入して将門に味方する訳にも行かず、佐野に引き上げることにした。
 郎党共は、下野(しもつけ)の地を土足で踏み(にじ)られ黙っていたら、この秀郷の名折れになると口々に言い立ておった。秀郷が尻尾を巻いて逃げ出したと言われたら、土豪共に軽く見られ、離反する者が続出し、国府が麿の捕縛に動くかも知れぬと思ったのであろう。
『麿には考えが有る。従えぬ者は(いとま)を出すから、今この場から去れ!』と一喝して、僅かな留守居の者を残して、門を閉じて佐野に引き揚げた。幸い、去る者はひとりも出なかった。
 探らせていたところ、将門は良兼らを下野(しもつけ)国府に追い込んだが、意外にも(まもる)を攻めた時のように徹底的にはやらず、下野(しもつけ)守の説得に応じ良兼らを開放し、囲みを解いて引き揚げたと言う。後から知った処では、どうやら、私君(しくん)忠平(ただひら)(はばか)ってのことだったらしいがの。
 その後、土豪達の引き締めには、麿も相当骨を折った。天慶二年(九百三十九年)十一月のことじゃ。常陸(ひたち)の国府を襲って、将門が私闘から謀叛へと突き進んだ。  
 千の兵で、常陸介(ひたちのすけ)藤原維幾(ふじわらのこれちか)率いる三千の国府軍を破り、国府の印鎰(いんやく)(長官の印と諸司・城門・蔵などの鍵)を奪ったのだ。そして、翌十二月に入ると、この下野(しもつけ)に兵を向けると思われるとの報せが入って来た。
 麿は本当に迷っておった。その頃になると、将門の力は強大に成っていたから、もはや都合良く使うなどという訳には行かぬ。良くて対等。或いは麿が将門の下に付くことになるかも知れぬと思うた。だが、取り敢えずは、また佐野に引き揚げることとした。様子を見る為にな。前回、私闘の頃の将門が侵入して来た時とは違い、麿は、舘を空にし郎党共を一人も残さず佐野に連れて戻った。そして、門は閉ざさず開けたままにした。当然、将門の兵が侵入して略奪を行うと思った。舘は踏み荒らされ、調度は奪われることになるだろうとは思った。だが、そんなことはどうでも良かった。まだ、将門を敵に回す気には成っていなかった。門を閉ざすことは、将門を拒否したと取られる。開けて置いて、どうぞ好きに使ってくれと言う意思を示したのじゃ。まずは静観してみよう。それが麿の結論だった。下野(しもつけ)守らは、戦わず将門に降伏して印鎰(いんやく)を差し出したが、追放された。そして、将門はその日のうちに佐野に使いを寄越し、会いたいと言って来た。行けば従うより他に無い。従わぬと言えば殺されるだろう。佐野に籠って戦うにしても、兵を集める(いとま)も無かった。場合に寄っては将門の下に付くこともやむを得ぬことと覚悟したが、問題は、果たして謀叛が成功するかどうかであった。策が無ければ、強いだけでは上手くは行かぬ。先を読む必要が有ったが、将門の動きが余りにも早かった為、十分な情報が得られていなかった。麿が策を授ける立場に成れば良いと思うた。そう思うて、翌日、将門を訪ねたのだ」
 秀郷はそう言って何故か小さく頷いた。
「将門とはどんな男でした?」
 そこに特に興味を持っていた千方が尋ねた。
「大柄で、見るからに(たくま)しい男であった。その大男が、麿が尋ねて来たと聞いて奥から広間へ慌てて飛び出して来た。そして、満面の笑みを(たた)え『秀郷殿、良う来て下された』と走り寄って来て、今にも麿の両の手を取りそうになった」
 その情景を想い浮かべて、千方が先を急かす。
「はい。それで?」
と言いながら、千方は思わず身を乗り出した。
「その時、咳払(せきばら)いが聞こえたのだ」
「咳払い?」
「後ろにおった公家(くげ)姿の男だ」 
興世王(おきよおう)? ……」
 そう思い当たって、千方がその名を口にした。
「その通りじゃ。一瞬動きを止めた将門が、笑みを消して(かが)み掛けていた体をゆっくりと起こし、上座に向かった。そして、こちらを向いて腰を下ろした後、取って付けたような表情を作り、ことさら重々しそうに『良う参った、秀郷殿』と抜かしおった。それですべてが読めた」
「それで将門を見切ったということですか」
「いや、その時はまだ、完全に見切ってはおらなんだ。ただ、この腐れ公家(くげ)を何とかしなければと思うた。この男が付いている限りは、坂東の者達が望んでいる世など作れぬとな。『だが、この機を逃して良いのか?』と己自身に問い掛ける心が残っておった。麿も表情を作り、(うやうや)しく将門に名簿(みょうぶ)を捧げた上、退席した」
「その時、朝鳥も従っていたのですね。外に出てから『愚かな』と父上が呟くのを聞いたと申しておりました」
「そうであったか。その後、将門は上野(こうづけ)に出兵し、十九日には国府を落とした。そして、菅原道真(すがわらのみちざね)公の霊を通じて八幡大菩薩の託宣が有ったとして新皇(しんのう)を称し、あの除目(じもく)を行ったのだ。将門の除目(じもく)に付いては存じておるか?」
と秀郷が千方に聞く。
「はい。朝鳥から聞きました」
「ならば聞く。武蔵守は誰とした?」
「はい。確か、武蔵守は、なぜか任じていなかったと思います。え? まさか」
と千方は秀郷の顔を見る。
「ふん。将門に会うて後、麿は動かなかった。思案しておったのじゃ。上野(こうづけ)の将門自身から密かに使いが参った。武蔵守の座を用意してお待ちしておるとな」
下野(しもつけ)守では無く、なぜ武蔵守だったのでしょう?」
と千方が尋ねた。
「麿を下野(しもつけ)守にするのは危険と思うたのであろうな」
「成る程。父上の力が大きくなり過ぎるのを警戒したということですね」
「うん。…… そういうことじゃ……」
 秀郷の目がとろんとしているのに千方は気付いた。
除目(じもく)を行ったことは括目(かつもく)すべきことじゃ。都には官位を受けられず長年、只働きをさせられて不満を持っている若い者達が大勢おる。将門があのまま勝ち続け、地位を確立すれば、その不満の(やから)を自陣に取り込むことが出来た。官位欲しさに都の朝廷を見限る者が続出したことだろう。だがな、除目(じもく)とは、朝廷のみが行えることで、それこそが朝廷…… と言うよりも公卿(くぎょう)達、更に言えば藤原北家の者達の力の正体だからな…… 
 う~、だが将門は新皇(しんのう)などと名乗ってしまった以上、除目(じもく)を行わざるを得なかったのだ……  
 だが、それは諸刃(もろは)(つるぎ)じゃった。…… それが、将門を滅ぼすことになった…… う? 分かるか六郎……」
 その後話が戻って、将門、興世王の印象、会談した時の雰囲気などに付いて話し始めたが、秀郷の言葉は途切れ途切れとなり、やがて眼を閉じ、首を項垂(うなだ)れてしまった。そこには、もはや、下野(しもつけ)の暴れん坊としての面影も、策士・大狸と言われた男の印象も無く、ただ、酔い痴れた老人がうたた寝をする姿が有るだけだった。千方は一抹の寂しさを感じた。
 静かに廊下に出、郎党を呼んで一緒に秀郷を寝床に運んだ。
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